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17/4/22

20歳で月に200万稼いだ男が無一文になって歩いて日本一周するまでの話

Image by Olia Gozha

女の子とお酒飲んでお金貰えるなんて最高だな!


華のキャンパスライフに憧れ入学した中央大学。


留学もしよう、公認会計士の資格も取ろう、宅建も取って、中国語もマスターするために語学は必修が多いコースを選択しよう……などといわゆる意識高い系だった僕の夢は、結論から述べると全て叶わなかった。


多くの大学生がそうであるように実際は新入生歓迎会という名の飲み会に明け暮れ、どんどんと自堕落な方向へと流されてしまっていた。



大学一年の夏休みのこと。


ちょっと買い物に行こうと街を歩いているとチャラいお兄さんに声をかけられる。いつもはシカトなのだが、その人がまぁしつこくついてくるのでイヤフォンをとって話を聞く。


「――興味ないですか―?」

「ん?」

「ホスト!ホスト!」


その場は華麗にスルーした。しかし、帰りの駅の改札で再びそのスカウトと鉢合わせた。どうしたもんかと思いながら、帰る方向も同じだったので、不本意ながら一緒に帰ることになった。



「一回だけでいいから!!!」


というそのスカウトのしつこさに負け、僕はホストに体入する約束をしてしまった。しかも体入の日はその日の夜だ。


ホストクラブの営業時間は一部と二部に分けられている。一部は19時~0時、二部は日の出~10時というとことがほとんどだ。たまに三部といって昼間に営業しているお店もある。


僕がスカウトされたのは二部のお店だった。結局その日の終電でお店に行き、初めてホストクラブというものを体験した。確かその時思ったことは


「女の子とお酒飲んでお金貰えるなんて最高だな!」


こんな感じだったと思う。今思えばなんて安易な考えだと思う。


後から嫌というほど思い知らされるのだが、ホストの世界はこの時の自分が思っているほど楽でもないし、華やかでもないのだ。




ホストのイロハ


結局、そのスカウトがきっかけでホストをバイトで始めるようになった。今思えば、体験入店の時に交通費という名目で代表から貰った5000円(大学生からすると嬉しい)も、撒き餌だったんだと思う。


僕の場合は大体週に1,2回のペースで、終電でお店に出勤していた。ホストというと華やかなイメージが強いかもしれないが、実際新人は雑用が多い。トイレ掃除から始まり、キャッチや、買い出しなど色々だ。


そして何より上下関係がとても厳しかった。僕は今まで部活での上下関係なんてあってないようなものだった。だから初めはひどく叱られ、1から上下関係を学んだ。飲みの席でのマナーなどは色々と勉強になることも多かった。


そして何よりもホストの給料体系は歩合制である。売上額が大きいほど給料も比例して大きくなるのだ。まずは【初指名をとる!】という目標を掲げ、ひたすらキャッチをした。


キャッチといっても要はナンパだ。最初は緊張して声すらかけられない、立ったままその場を動かない、いわゆる地蔵状態になっていた。ただ僕が働いていたお店の”ホストの心得”の一つに


「恥ずかしがってるお前が恥ずかしい」


というものがあり、その言葉を胸に自分に鞭打って人生初のキャッチをした。




――女の子が来る、意を決してほがらかな音色を意識して声をかける






こんにちは!(笑顔)






あの、……こんにちは






こんにち……






心が折れそうになった。が、ガン無視なんか当たり前のことだ。


例えるならキャッチはくじ引きと同じだ。ひたすら声をかければいつか当たり(話を聞いてくれる子)をひける。そしてそこからアドレスを聞けるかどうか。アドレス聞いてから店に呼べるかどうか……。こんな感じでどんどん確率は低くなっていく。


勿論テクニック的なものはあった。


キャッチでいえば足早な子はまずシカトされる可能性大とか、ヒールが擦り減っている子を狙えだとか、言い訳を考える時間を与えないために声をかける時は後ろからとか、それこそ挙げていけばたくさんある。


そんなテクニックを身体で覚えつつ、僕はひたすらキャッチを敢行した。


店が朝の10時に終わり、12時に従業員と飯を食べに行き、13時からキャッチをスタート。この時自分に「今日は15人アドレスを聞くまで帰らない」などのノルマを課していた。


13時から始め、いつも20時頃までやっていたと思う。やっていくうちに、ある程度感覚で足を止めてくれそうな子が分かってくる。そして会話力も上がってくる。


その甲斐あってか週1~2出勤のバイトだったが、入店1か月後には初指名をもらうことができた。




夜に染まる


そんな生活が2ヶ月続いた頃、系列店で1部のオープンが決まった。勿論上下関係はなく全員同じラインからのスタートらしい。僕は迷わず移籍を決めた。


2部の頃は既に売れている先輩ホストがたくさんいて、競うまでもなかったが1部は違ったのだ。全員0スタートとういこともあり、元々負けず嫌いな性格の僕は俄然やる気が出ていた。


ちなみに二部で働いている時は昼に店が終わってから酒が入っている体でそのまま学校にいくという我ながらハードな生活を送っていたのだが、一部の営業時間は19時~1時だったので学校に行きやすくなるだろうという理由もあった。




しかし、結論から言うと一部に移籍してから全く学校に行かなくなる。


全員が同じ位置からのスタートということもあり、負けず嫌いの精神に火がついてしまったのだ。二部の時よりも俄然キャッチやネットキャッチなどに時間を割くようになった。


しかし、そういつも努力が報われるわけではない。


オープンの月の給料はなんと8000円だった。普通にコンビニのバイトした方が稼げる額である。けれども僕は諦めなかった。




出会い系サイトの帝王


ちなみにこの頃からキャッチは面倒だし非効率だと判断して、ネットキャッチの方に比重を置いていった。僕の場合は主に出会い系サイトを利用してお客さんを探していた。今でこそネットでのマッチングサービスは浸透しているが、当時はまだまだ出会い系黎明期で、ホストでも利用している人は多くなかったと思う。


ただネットキャッチが楽かと聞かれれば、これもまた楽ではない。確かにキャッチと比べればベッドに寝ながら出来るので肉体的な制約は薄いが、一日中携帯とにらめっこ状態なので、これもまた別の意味で大変だった。


出会い系で目星をつけた人に片っ端からメールを送っていき、連絡先を聞き出せたらまた返信する。その人数が同時に30人以上になることもあった。


一人目に返信して三十人目に返信し終わる頃には、一人目の返信からだいぶ時間が経っているため、頭がパンクしそうになることもザラだ。


けれども結果的に、僕はこの手法でブレイクした。




極太客をひきあてたのだ。




ちなみにホストに来るお客さんはゲスな話だが、お金を使う額により呼び方があり


• 極細客=全然お金を使わない。最低料金で帰る。


• 細客=お金を使わない。使う時はごく稀


• 太客=お金を使う。シャンパンなども頻繁に入れる。


• 極太客(エース)=一番お金を使うお客さん。大抵極太客はエースになることが多い。


決して体型のことをいっているのではない。


これ以外にも夜特有の言葉は色々あり、最初はこれらの言葉を覚えるのだけでも大変だった。




成功するために必要なたった一つのこと


話を戻そう。


僕はその当時極太客を引き当てたが、思うにホストで成功するのに一番大切なことは




ただこれだけであると思う。




たまたまキャッチした子が極太で、新人の子が一気にナンバーワンになってしまうということも稀にあるのだ。


成功するには運というものが大切な要素の1つなのは間違いないと思う。ただその運も自分が行動しなければ大当たりを引き当てる確率も0%になる。大当たりを引き当てる確率を上げるために、ひたすらくじを引くのだ。


つまり、ホストの場合はひたすら(ネット)キャッチをする。最近ならSNSを利用してセルフプロデュースも最大限する。それしかない。


勿論顔がいいに越したことがないが、ハッキリ言って顔よりトークや雰囲気の方が100倍大事だと僕は思う。顔だけのホストは、最初こそいいがそこから続かない。


現に二部で働いていた頃のナンバーワンは、千代の富士かよ!とツッコミを入れたくなるくらいに巨漢だった。確か体重は100キロ弱だった気がする。


だが、トークがめちゃめちゃ面白い。一緒に新規のお客さんに着いた時は、会話に入る隙さえなかった。


ともあれ極太客を引き当てた僕はそこから一気に躍進する。


その頃は週3回くらいのバイトだったのだが一気にナンバー入りを果たした。確か最初は5位くらいだったと思う。そして勿論給料も劇的に変わった。




20歳にして100万近くの札束が入った封筒が給料日に渡されたのだ。


その時はまぁ浮かれた。正直天狗だった。調子に乗って散財しまくっていたら100万円は一週間くらいでなくなった。今思えばバカだと思うがその時は何とも思わなかった。


「また稼げばいい」それだけだ。


その時の僕は給料よりも何よりも【No.1】という地位が欲しかった。それが目標だった。


だからこそ売れるようになっても、ひたすらネットキャッチは続けた。


そして、ネットキャッチで二人目の極太客を引き当てたのだ。




AV女優という極太客


ホストに来るお客さんは夜職関系の人が基本的には多いにせよ、実に色々な人がいる。


この二人目の極太の子も変わった子で、有名大学に進学しているのにも関わらず、昔からAV女優になるのが夢だったらしく、上京してきて真っ先にプロダクションに所属したらしい。


それを聞いた「出会った奴の人生変えちまえ」が座右の銘の当時の腹黒な僕は真っ先に飛びついた。




そして、AVのお客さんと臨んだその月の締め日。


その時点では2位との間に結構差を付けた状態で僕が1位だった。




ラストオーダーがかかる。


締め日のラストオーダーは他のホストに売上を悟られないように紙に書いて出す。




ラストのシャンパンラッシュが来る。




……油断していた




蓋を開けてみればなんと1200円という僅差で負けていた。


この時の悔しさは今でも覚えている。




自分の詰めの甘さをひたすら攻めた。


そして同時に来月こそはナンバーワンをとると誓った月でもあった。




そう、来月は僕のバースデーイベントの月だった。




腹黒システム


ホストにとって最も稼ぎ時でもある誕生月。


そう、今月は僕のバースデーイベントの月だった。


バースデーということもあり、キャストとの協力プレイで順調に売上を上げることができていた。ちなみにホスト同士は仲が悪いと思われがちだが、基本的に彼らは協力し合う。ライバル関係とかは勿論あるにせよ、店ぐるみで売ったほうが、単純に売上が上がるからだ。


よくある例を挙げる。ホストはお店に来店してくれた女の子一人ひとりに挨拶回りに行くのがルールだ。そこでA卓だけ1人のホストに挨拶回りを“あえて”行かせないようにしておく。


次のステップとしてそのA卓の担当ホストが


「あいつ俺らんとこだけ挨拶回り来ないとかウザくね?」


と、女の子に嫌いなホストとしてインプットさせておく。


そして十分に”ウザいホスト”として教育した段階で、そのウザいホストがいるB卓でシャンパンを入れる。


そしてA卓の担当ホストは


「俺アイツとはライバルだし、俺らんとこだけ挨拶こないような舐めてるやつにマジで負けたくないわ」


などと対立構造を組み立ててあげれば下地は整う。


それ以降はA卓で5万のシャンパンが入ったら、B卓で6万、すかさずA卓で7万すかさずB卓で8万……とシャンパン合戦に持ち込む。


そして営業終了後にキッチンでそのホスト2人はハイタッチを交わし、嫌われ役になったホストに飯でも奢ってめでたしめでたしという構図だ。


自分で書いていてなんともまぁ腹黒い仕組みだなぁと思う反面、女の子の心理を突いた上手いシステムだとも思う。




20歳で月収200万


話を戻そう。


店ぐるみでの売上努力の甲斐もあり順調に売上を伸ばした僕は、締め日に先月ナンバーワンだったライバルホストとの争いもなんとか制し、遂に念願のナンバーワンをとることができた。やっと目標が果たせた瞬間だった。


この時の月収は既に200万を超えていた。


そして勢いそのまま、次の目標でもあった幹部にも昇格した。


店ごとによって役職の昇格基準は異なるが、うちの店では100万以上の売上を小計(純利益)で4ヶ月連続でとると幹部になれる仕組みだった。


幹部になるといよいよ代表からバイトを辞めるように促される。


そう、何を隠そうバイトでホストをやっていた僕の出勤スタイルは、基本的にお客さんを呼べる時しか出勤しなかったのだ。出勤する時は必ず何組か呼ぶようにしていたため、店側から文句を言われることもなかったが、なんせそのスタイルだと他の卓のヘルプに全くつかない。


そのため、ナンバーワンになったものの、他のお客さんから「誰あれ?」や「名前しか聞いたこと無い」という声も多かった。それではお客さんにも、下の子にも示しがつかないということで、促されるまま僕は週5出勤のサブレギュラーになった。


しかしいざ本職としてホストを初めた矢先、問題が発生する。


次の目標が見当たらなくなったのだ。


なぜホストをやっているのか


ナンバーワンも取ったし、幹部にもなった。じゃあ自分は今何のためにホストを続けているのだろうと自問自答するようになっていった。


やる気がなくなると、勿論売上も激減した。女の子への連絡もマメではなくなっていった。


自分は何がやりたいのか。


ホストで成功して独立し、自分のお店を持ちたいのか。ホストを辞めて昼職に就くのか……。


自分はどうしたいのだろうか。


別に夜のお店の経営者になりたくもない。かといって金銭感覚が狂っている今、昼職にはつけないだろう。




悩んだ


悩んで悩んで


結局店を辞めることにした。




やはりホストを続けていてもどうしても先が見えなかった。


ホストを辞めて、行けていなかった学校にいく決意をした。


だが、幹部になってしまった今、そう簡単に辞められるものでもない。



「オーナーちょっとお話が!」

「どーした?」

「あの、実は俺店をやめようと思ってて……」

「え、無理!」

「えぇ……ちょっと話だけでも……!」

「あーあー聞こえなーい!!」


そんな感じのやり取りが数日続き、オーナーは中々僕を辞めさせてはくれなかった。しかし僕の士気は下る一方。勿論売上もどんどん落ちていき、ナンバーなんか入れるわけもない。



「オーナー分かりますよね?もうやる気が無いんです。」

「なんでだよ!この店で頑張って、ゆくゆくはうちの店経営するんじゃダメなのか?」

「夜の店経営することに魅力が感じられないんです。逆にどーしたら辞めさせてくれるんですか?」

「どーしても無理だな。今お前がいなくなったら、幹部が一人抜けることになって店としても厳しいしな」

「……じゃあこうしませんか?今見ての通り俺、売上全然ですよね?店の売上に貢献できてなくて申し訳ないです。だから来月、もしナンバーワン取れたら、それできっぱりラストにしてくれませんか?」

「……本当に取れんのか?」

「やる気はあります。」

「……分かったよ。そのかわし、取れなかったら店にいてもらうからな。」

「はい、それは約束します。」



かくして僕は一世一代の賭けにでた。


勿論取れる保障なんて全然なかったけれど、このくらい言わないとズルズルと続けてしまいそうな気がしたのだ。




ホスト引退


そしていよいよ約束の月。


お客さん全員に辞めることを告げ、そして同時にナンバーワンを取らないと辞めさせて貰えない事も伝えた。


普通に考えたら、辞めるホストにお金なんか使わないだろうが、僕はお客さんに恵まれていたのか、みんな最後だからと言って協力してくれた。


そのおかげで売上は順調に伸び、締め日には二位と結構な差を付けてナンバーワンをキープしていた。


――やっと辞められる。そう思っていたところに、ふとナンバー2のやつが近寄ってきて


「あ、俺今日エース来るから」と言い残して去って行った。




「……終わった」絶望的だった。


そのエースの子は一晩で三桁を平気で使うような子なのだ。もう他の子に営業をする気にもなれなかった。


そして一時間、二時間、と時間が経ち、そろそろラストオーダーの時間が近づいてくる。例のエースの子はまだ来ない。


もしや、と思いNo.2の奴を問いただすと




「あぁ……あれ嘘(笑顔)」





――めちゃくちゃホッとしたのを覚えている。


最期は茶番だったものの、こうして僕は無事オーナーとの約束を果たしホストを辞めることが出来た。




ホストで学んだこと


ホスト辞めて色々振り返ってみると、やはり一番学んだことは「人間」だ。ホストはいつの時代も男を狂わすオンナとカネを地で扱う職業だけれど、その根幹には常にそれに伴う人間心理がこびりついている。


例えばお金に関して言うと、以前僕はお金というものは人を悪い方向へと変える怖さがあると思っていた。しかし、お金は人を変えないという本質に気づいた。お金は人を変えないが、お金はその人間の本性を助長させる。つまり、大金を持った途端に人が変わる奴は、元々そういう性(さが)を持ち合わせていただけなのだと思うようになった。


また、ホストは女性を落として商売をする側面があるが、女性とは、そもそも人間である。つまり人間を落として仕事をするという点においては、他の仕事にも通じるものがあると思った。


そして絶対的に言えることは、このホスト時代の経験がなければ、僕は間違いなく普通に大学に行き、そのまま就職という道を選んでいたことと思う。


思えばホストという仕事は店から箱だけ借りて、集客、教育、セールスなど全ての工程は基本的に自分一人で行う。いわば個人事業主のようなものだ。そう思うと既に起業もどきみたいなことは知らず知らずのうちにしていたのかもしれない。


だからこそ僕はこのホスト時代の経験を悪いものだとは微塵も思っていない。全ては必然だったんだと思う。




そんなことを肌感覚で学ぶにつれ、僕は就職より起業しよう。という思考にシフトチェンジしていった。




さぁホストも辞めれたし、とりあえずちゃんと学校へいこう!


僕は気持ちを新たに新しい一歩を踏み出すはずだった……この時までは……。




ヒモビジネス




よし!学校へ行こう!






――そう意を決してホストを辞めた僕は、気付いたらAV女優のヒモになっていた。




きっかけは些細なことで、ホスト時代の僕のエースだったAV女優の子とホストを辞めてから半同棲生活をしていたところ、その子がふと


「あたしが学費出したげるから学校なんて行かないであたしんとこいなよ!」と言うのだ。


「学費を払っているのに行かないなんて勿体無い!」そう僕が言ったら彼女がそんな風に言い返してきた。結果的に僕はその言葉に甘えることになり、AV女優のその子に養われる生活が始まった。


最初はその子の家でゲームばかりして、ご飯は出前で済ますという完全にひきこもりニート状態だった。しかし日に日にこのままではマズいという焦燥感が募り、おかしな話だが真面目に【ヒモ】をやってみることにした。


具体的には、ホスト時代の縁を切っていないお客さんを辿って、裏っ引き(お金を引っ張る)をしようと思ったのだ。単純に考えればホストクラブというハコに払う手数料がないため上手くいきそうな気もしていたのだが、これが予想以上に大変だった。


まずホスト時代にそれぞれの女の子がひと月に使っていた金額を計算し、その額と同等くらいの金額を引っ張ろうとしたものの、なかなか上手くいかない。


今でこそ理由は分かるのだが、ホストというものは一種のブランドなのだ。例えば男性の方だったら想像してみてほしいのだが、指名していたキャバ嬢がキャバクラを辞めどこかのスーパーでパートを始めた場合、キャバ嬢だった時代に比べれば、貢ぐ価値は減ると思うのだ。

それはホストにも同じことが言えると、この時身をもって経験した。


それでも数人の女の子からはなんとか【ヒモ】を出来ていた。


しかし障壁は他にもあった。例えばホストクラブの場合、一日に何人でもお客さんを呼べるし、メールや電話の時間はあるものの営業時間が終われば基本的に肉体的には自由になる。


一方ヒモの場合、一日に一人の女の子にしか会えないばかりか、丸一日その子に使うことになるので、時間的な制約の面でいってもかなりの重労働だった。


一度、ヒモをする用に借りたビジネスホテルに女の子を1週間日替わりで呼び、日替わりでヒモ(裏っ引き)をするという意味不明なことをしたことがある。


毎日スーパーカ◯グラというバイ◯グラのジェネリックとリ◯スプレーという早漏防止用の局所麻酔薬を吹きかけ、人工的に作った鉄壁のイチモツを駆使して奮闘していたが、色々な意味で人生史上最強に疲れた1週間だったのを覚えている。


結局、開始当初は月に80万ほど引っ張れていたものの、先に述べたホストブランドの影響もあってか、すぐに上手くいかなくなっていった。


俯瞰してみると、ホストを辞めていながら、結局ホストのようなことをしているという迷走時期だった。


そんな生活が半年ほど続いたある日、僕は友達と会う約束をして久しぶりに新宿にいた。


そこにサラリーマン風のスーツ姿の男性が近づいてくる。


そして彼は言う。


「スカウトマンって知ってます?」




再び夜の世界へ


新宿で友達と待ち合わせをしていると、サラリーマン風の男の人が声をかけて来た。


聞けば、スカウトマンの勧誘らしい。


知らない人のために簡単に説明するとスカウトマンというのは要は人材斡旋業だ。


夜の仕事を探している人に対してホスト、キャバクラ、風俗、AVからライブチャットまでその子に適したお店を幅広く紹介する。


そして紹介したお店から仲介手数料を貰い、更に紹介した子が稼いだ金額の何パーセントかが毎月不労所得として入って来る。例えるなら夜の不動産屋のようなイメージだ。


勧誘された当時は興味もなかったので、ホストの時同様に無視していた。


しかしそのスカウトも、電話中の僕を終わるまで待っているほどのしつこさで、根負けした僕はとりあえず番号を聞くだけ聞いておくことにした。


その後、スカウトの勧誘のことなどとっくに忘れていたのだが、数日経ち、またいつもの怠惰な生活を送っていると、ふとそのスカウトのことを思い出した。


このままじゃいけない


その気持だけはまだあったので、とにかく何かで収入源を作ろうと思いそのスカウトに電話をし、新宿で面接をすることになった。


久しぶりに会うそのスカウトマンは、以前に会った時とは異なり、左手にダイヤベゼルのフランクミュラーの時計を着け、ギラついたオーラを放っていた。あとで知ることになるが、一番上の役職の偉い人だった。


喫茶店で簡単な説明をされ、とにかく何かしらの収入源が欲しかった僕は、スカウトマンになることを即決した。


スカウトになってからはとりあえずニートのような生活をすることはなくなり、幸いホスト時代の経験もあったため、スカウト業もすぐに板につくようになった。


僕が知る限りではスカウトマンには2種類のタイプがいると思う。


1つは先にも述べたように夜職版の不動産屋として、顧客と深い関係にはならず淡々と仕事をこなすタイプ。そしてもう1つは顧客である女の子を心理的に囲って仕事をするタイプだ。


ハッキリ言って後者はホストとやってることはほぼ変わらない。中にはヤリ部屋なるものをスカウトのグループで借りて、そこで女の子を調教しているスカウトもいた。


僕はと言えばもう女の子との色恋でああだこうだなるのにほとほと嫌気が差していたので、感情を挟まず、淡々と仕事をするスタイルだった。


スカウトマン時代の最高月収は60万円ほどだった。収入のほとんどがヒモになっていた女の子たちをそのままスカウトとして仕事先を紹介して得たものだった。


そして当時の僕はひそかにデリヘルを開業しようと、スカウトの給料とヒモ(裏っぴき)のお金を貯金し、1000万貯めることを目標にしていた。


しかし、ある動画との出会いが、僕の思考を一変させることになる。




ネットビジネス時代


当時デリヘル開業に向けて貯金をしていた僕の価値観を変えることになった動画。それは今でこそ成金の嫌われ者みたいなイメージが定着している「与沢翼」その人の動画だった。


彼が、カッコつけて言うとプロダクトローンチと呼ばれるマーケティング手法でYouTubeにアップしていた動画をたまたま見た僕は、それに感銘を受け、一気にアフィリエイトをメインとするネットビジネスに没入していった。


一度ハマるととことんやるタイプだった当時の僕は、デリヘル開業資金だったお金を総額200万円くらい使い、まずパソコンを揃えるところから始めた。セミナーや入塾料が30万円もするいわゆる高額塾と呼ばれるものにも2つ入り、それこそ受験期を彷彿とさせるほど知識の拡充を図っていった。


そのかいあってか約半年で月50万円ほどの不労所得のシステムを構築することが出来た。

その後、ネットビジネス業界で知り合った師匠の教えで、ネットマーケティングの知識を活かして個人向けビジネスモデルから法人向けのWEBマーケティングのコンサルタントとしてビジネスモデルの軌道修正をした。


当時この師匠には100万円のコンサル料を支払い、いわば生涯コンサルのようなものを受けていたものの、やはり法人向けビジネスは今までとは勝手が違い、なかなか思うように成果が上がらない日々が続いた。


そしてそれとともに軍資金も底をつきかけ、切羽詰まっている窮状を師匠に相談したところ、知り合いのAV関係の社長さんを紹介され、軍資金集めの為の仕事のオファーを頂いた。


最初はさすがに躊躇したものの、その時ふと僕の好きなサントリーの鳥井社長の言葉 




「やってみなはれ」




が啓示のように頭のなかにコダマし、「よし、いったれ!」精神でオファーを受けた。




腰を振る


引き受けてはみたもののこの仕事は予想以上に大変なもので、AVの企画立案から女優さんの選定、撮影、監督、男優、更には撮ったAVの編集、パッケージ化、ライティングもした上で、販売サイトにマーケティングをかけるところまで全て自分一人でこなさなければならなかった。




この中でも何よりモザイク編集が非常に地味で面倒くさく、時間のかかる作業だった。モザイク処理が楽になるように撮影時はなるたけ性器を動かさないように撮るという暗黙のルールがあったほどだ。




全てにおいて右も左も分からない状態でのスタートだったため、とりあえず素人に毛が生えた知識のまま、数あるAVの見よう見まねで撮影をこなしていった。




健全な男子なら誰しも思春期の頃にAV男優という夢のような職業に憧憬の念を抱いたことがあると思うのだけれど、実際ハンディカムを片手にカメラ越しの自分のイチモツを撮っていると、もうそれは自分のものではなく「カメラ越しの別のナニか」になっていた。気持ちいいという感情よりも、良い画を撮りたいという気持ちのほうが強くなる。




現に撮影中に射精することは滅多になかった。おそらくだが、ここで


「きもち―!さいこー!!ドピュッ!!!」と出来る人こそ、この仕事は天職なのだと思う。




また、夢を壊すようで申し訳ないが、僕がオファーを受けたそのAVの仕事は口内射精も挿入も基本的には擬似だった。

口内射精はあらかじめ精液に見える白いローションを女の子の口の中に含ませておき、イッたフリをした後に口の中を覗かせてそれっぽい画を作る。

挿入シーンの場合はおしりのくぼみにねじ込むようにすると、モザイク処理をした後に、イチモツが入っているように見えるという仕組みだ。俺は何を言っているんだ。




で、まぁそんな感じで今日も男優として腰をゆっさゆっさと振っていたとある日。腰を振る、まさにその瞬間に「――ハッ!」と急に我に返ってこう思った。












ワイ、なにやってんやろ












いや、それは勿論軍資金集めのためだとは理解している。これで集めた軍資金をメインのマーケティングコンサル事業に充てるために今僕は必死に腰を振っているわけなんだが、でもそのメインの事業で成功したとして何になるんだろう、と、考えてしまった。腰振りながら



メインの事業を成功させることの重要度が自分の中で著しく低下していっている気がしたのだ。




一旦軸を失ったらもうダメで、そこからはもう全てに対してやる気が起きなくなり、当時の師匠やAVの社長さんには今でも申し訳ないと思うが、僕は全ての仕事を投げ出して自問自答する日々を繰り返すようになり、気づけばひきこもりニートのような状態に陥っていた。


その当時の心境などはこちらの記事に長々と書いているので、時間がある人は読んでみて欲しい。




枯れゆく自尊心


ひきこもりニート生活も初めの3ヶ月目辺りまでは楽しかった。




それまで時間がなくて出来なかったことを色々としてみたりもした。




この時期は時間だけはありえないほどあったので本や映画・漫画なども腐るほど読んだ。




しかしネットゲームに手を出してしまった辺りから事態は悪くなる。




元々僕は重度のゲーマー気質なのだ。一つのことにのめり込むとそれしか見えなくなる。毎日起きて、ゲームして、寝る。というこの3ステップしかしない生活が約2年弱もの間続いた。




そう、2年弱だ。




時間というものは濃密であればあるほど、ゆっくり感じられるというのが僕の持論だが、この2年弱という時間は恐ろしく早かった。




今でこそ、あの2年弱の期間にも意味を見出すことが出来ているけれど、自分を客観的に見ることなんかできなかった当時は、本当に死んでいた。




肉体的には生きていたけれど、精神的には死んでいたのだ。


毎日、自尊心が枯れていく感覚というものが、嫌でも感じられてしまう。




そんな無限地獄のような世界から、僕を救い出してくれたのがお遍路だった。




歩き遍路の旅


お遍路へ行く。それも歩きで、野宿で廻る。




引きこもりがちだった僕をそこまで誘ったものがなんなのかは、今でもよくわからない。分からないけれど、人間というものは、本当は自分に必要なものは自分がいちばん良く知っていて、必要な時が来れば自然と動き出すものなのかもしれない。それが遍路におけるお大師さんのお導きというものなら、そうなのかもしれない。




とにかく、僕は四国一周約1200キロの道のりへと旅立った。この旅の詳細は、僕のブログの【四国遍路】カテゴリーから一日毎の記事が読めるので、お遍路に興味がある人は読んでみて欲しい。




それまでアウトドアとは無縁で生きてきた男である。初日はテントの張り方すらも分からず、「テント 貼り方」で調べているようなレベルだったので、無事に廻りきれるのか不安しかなかった。




更に徳島県にいる間は、それまでの自分の人生を色々と考えることも多く、当時出会った人曰く、どす黒いオーラを放っていたらしい。




しかし、高知県へ入ってちょっと経った辺りから、一通り悩み終わり、むしろ思考が一周回って「悩んでてもしょうがねぇ、とりあえず生きて四国を出なければ元も子もないじゃないか!」という風に変わってからはカラリとした態度を堅持できるようになっていった。




――淡々と歩いた結果、気づけばゴールである結願寺(88番大窪寺)へとたどり着いていた。先程僕は時間の進み方は濃密なほど遅く、淡白であるほど速く感じられるということを述べたが、お遍路はそのどちらでもなく、本当にただ淡々と、遅いも速いもなく、時間が進むという不思議な感覚だった。むしろ元を正せば時間という概念はこの感覚が一番近いのかもしれない。




たくさんの素晴らしい出会いに恵まれた旅だった。自分は一人で生きているのではなく、たくさんのものに生かされているということを肌感覚で感じられた。これらは全て知っているだけでは意味がない、感じることによって初めて自分の血肉になるものだった。




恩もたくさん頂いた。次は僕がその恩を返すのではなく廻していく番だと思った。




お遍路が自分のセーフティネットになった。




どんな失敗をしてもどんな辛いことがあっても、心のセーフティネットがあれば恐いものは何もないという気持ちになる。




だからこそ恥をかこう。恥をかこう。恥をかこう。




20代でたくさんたくさんかいた恥を自分の糧として30代に繋げていこう。




人生観が変わる、本当に良い旅だった。




平成の伊能忠敬


お遍路を終えたあとは遍路中に出会った人のもとを再訪したり、熊本にボランティアに行ったりと、ちょこちょこ旅をするような生活をしていた。


僕の場合はまるで躁鬱病のように、旅をして自分がエネルギッシュな生活をしている時は自分自身を肯定できるのだが、自宅にずっといるとなんともまぁ気が滅入りがちになる傾向がある。


本当は何もしていない自分を肯定することこそが自分を愛するということなのかもしれないが、僕はまだその境地には達していないようだ。


だから僕は、今の僕自身を肯定するために次の旅に出ようと思った。それが歩いて日本一周の旅だ。


日本一周といえば沿岸沿いを歩いても概算12000キロ、それを歩いて行くとなると3年位かかるらしいが、ルートや予算など、細かいことは何にも決めていない。


きっかけは「思いつき」でしかないし、どうなるか分からないけど、2017/04/25に埼玉県からスタートする予定だ。




貯めていた貯金も減りに減って残りの全財産はもう10万円ほどしかなくなってしまった。



――それでもスタートする。


出来ない理由を探そうと思えばたくさんある。


現に僕はお金もない、社会的な信用も肩書きもない、友達もいない、と、世間的に見ればないないづくしのエレクトリカルパレードだ。


しかしお金があるからやるのではない。準備が出来ているからやれるのではない。


お金がなくても、やる。準備ができていなくても、やる。無謀でも、やる。


それは一般的には馬鹿と呼ばれるのかもしれない。


けれどもほっとけば自分で定めた快適なラインにいつまでもゆらゆらと浮遊し続けている現状維持が好きな自分を打破するためには、出来ない理由から探すのをやめ、馬鹿なのかもしれないが、どの時点かで自分の殻を破って「出来なくてもやる」という選択をする必要があるのかもしれない。



この記事は2013年のものに加筆修正する形で2017年の今、書いている。


2013年といえば、僕がまだネットビジネス始めたての頃である。あれから4年もあれば、色々なことが変化して当然だ。当時は自分が約2年弱もの間ひきこもりニートになるなど思っていなかった。


人生なんてもんは、ちょっとしたボタンの掛け違いで、どう転ぶかは全く分からないのだ。


とりあえず、今こうして生きて、文字を書けていることそれ自体を幸せに思う。


ちなみに2013年に書いた記事の末尾はこう締められていた。


【未来は自分で作る】



青臭いかもしれないけれど、我ながらその通りだなあと思う。これからの生き方をどうするかなんてもんの結論はまだ出ていないし、あまり深く考えようとも思わない。思うに、生き方というのはデザインするものではなく、生きた結果がデザインになると思うのだ。


子どもはどう生きようかなどとは考えない。子どもはただ単純に、心のまま、生きっ放しなだけだ。大人になると変なもんに縛られ、色々と考えてしまうことも増えるけれど、でも本当は、感じたままに、素直に行動すること。それこそが、真っ当であることへの近道なんじゃないかと、個人的には思っている。



ここまで読んで頂き本当に、本当にありがとうございます。


日本一周の道中、Twitterなどでどこにいるか実況していこうと思っているので、もし近くに来た際はお声がけ頂ければ飛んで喜びます!


基本的に寂しく一人で歩いていると思うので是非是非会いに来てやってください!



最後に、個人的に重要な示唆を与えてもらった星野道夫さんの文章を引用して締めたいと思います。


「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」


「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」


「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・・ その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」


〜「旅をする木」星野道夫〜




それではまた日本のどこかで!



PS

下の「読んでよかった」ボタンなるものを押してもらえるとそれはそれできっと嬉しいのですが、僕としてはそれよりも、あなたのお話を聞かせてもらえるなら、その方がずっと嬉しいです。

Twitterで近場を歩いているのをたまたま発見して、その時たまたま暇してる!なんて奇跡的な方がいたら、実際会って、次はあなたのお話を聞かせて下さいな!


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