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17/3/20

15年間以上悩んだ自律神経失調症を1日で克服させてくれた父からの大切なプレゼント

Image by Olia Gozha

私は中学の時に自律神経失調症を発症し、

その後、約15年以上にわたり病気と付き合ってきました。





今でこそ完全に克服し病気を患っている間、

自分自身がどのような精神状態だったのかも

忘れてしまっているほどですが、当時の私は、




「何の意味があって私は生きているんだろう?」




と言ったようなことを常に考えて生きていたように思います。




今回、その約15年の軌跡と私が体験してきたエピソードを

ストーリーで綴ってみようと思い

始めてSTORYSに投稿させて頂きます。




お付き合い頂ければ幸いです。







幼少期から母の愛情不足を感じていた私


私は兄二人、三人兄弟の末っ子として生まれました。




母は男の子が可愛いのか、兄二人ばかりに手をかけて、

末っ子の私は、母にどこかないがしろにされているような、

"愛情不足" を常に感じていました。




小さい頃の私はなんとか母の目を引こうと

お遊戯会で主役になったり、

みんなが嫌がることを進んで勝手でたりと

あの手この手を使って色々なことを試みていたように思います。




しかし私の心とは裏腹に、

母の愛情を求める私の心は母に届かず・・、



逆に "手が焼けないしっかり者" と母の中で解釈がなされ、

母の私への関心はさらに薄れていきました。




小学校一年生に、母の目を引こうとプチ家出をしたこともあります。




「私がいなくなれば母の関心が兄から私に移ってくれるかな?」




母の目を盗んでひっそりと家を抜け出し、

一人、薄暗くなった公園のブランコで、

母が来てくれるのを待つ私。





しかし、真っ暗になるまで待っても、

一向に母は来てくれません。




「もしかしら私のいる場所がわからずに

大騒ぎになっているのかな?」




心配になった私が家に戻ると、

私がいなくなったことにさえ気づいていない母が、

兄二人に宿題をしないことを叱っているのを見て




「母は私に関心がないんだ。」




と子供心にとても悲しくなったのを覚えています。




小学校に入学してからも

母の私に対する態度は変わらず、

私は母の愛情を欲したまま、

母に振り向いてもらいたいという思いは

どんどん強くなっていきました。






自律神経失調症を発症し入院


そんな愛情不足を一気に思い知らされる出来事が起きます。

中学一年になった時のことです。




私は中学入学2日目に急性盲腸炎を発症し、

緊急手術を行うことになり

そのまま入院することになりました。




お腹は痛かったですが、

母に心配してもらえる良いチャンスと

期待していた私でしたがそこでも母は、




「あなたが盲腸になったのは好き嫌いが多いからよ。」




「しっかりとご飯を食べないからこんなことになるのよ。」




私の体を気遣うどころか、




"盲腸になったのは私の責任だ"




と言わんがばかりの母の態度に

中学一年生の私の心はむしばまれていきました。




退院した私は盲腸の症状がひどかったこともあり、

運動を制限するようにお医者さんから言われていたのですが、

退院から5ヶ月を過ぎた頃、体育祭があり、

お医者さんからも、




「そろそろ運動も大丈夫。」




と言われ、200m走を走ることになりました。




久しぶりの運動なので気をつけなければいけなかったのですが、

そこは "体育祭"、母に良いところを見せようと、

全力疾走をした瞬間、




"ブチッ"




嫌な音とともに右足に亀裂の入ったような激痛を感じました。




運動不足の状態で急に激しい運動をしたことによる

ひどい肉離れでした。




私はそのまま病院に運ばれました。





病院の待合室で右足を包帯でぐるぐる巻きに固定されていると、

母が言葉を浴びせてきます。




「また病院のお世話になるなんて何をしているの!」




自分としてもやっと運動ができるようになって

これからという時に起こしてしまったことに

ショックを受けている時に、



さらに母にそのような言葉を浴びせられ、

私の精神は限界を迎えていました。




そしてこの時を境に私の体調がおかしくなっていきます。




風邪のような症状がずっと続くようになり、

高熱が続きました。




それでも母は私を無理やり学校に行かせようとします。




症状が一週間ほど続いた時、

さすがに行きつけのお医者から




「大きな病院で診てもらったほうが良い。」




とのアドバイスを受け、

街で一番大きな市民病院で詳しく診てもらうことになります。




市民病院の小児科で私を受診してくださった先生が

私を見て一言、




「神経症の検査をしましょう。」




そしていろいろな検査後、

その先生から言われたのが、




「自律神経失調症を発症していて限界を迎えている状態です。

今すぐに入院の必要があります。」





私がその後、約15年以上にわたって

付き合うことになる "病気が発症したその時" でした。




当時は "自律神経失調症" や "うつ病" などの精神疾患が

今ほど耳にすることも少なく、

母にとってはよくわからない病気により私が入院することに




「もう本当に格好が悪いわね。」




と嘆いていたのを覚えています。




私の自律神経失調症に気づいてくれたその先生は、

伊丹先生(仮名)という方で、

子供の心の病気を専門とする先生でした。




「これからは子供の精神疾患がどんどん増えていくから

私が世の中の役に立ちたい。」




とおっしゃっていて、

まるで現代の子供の現状がこうなることを予測するかのような

先見性を持った素晴らしい方でした。




この先生と私は病気を克服するまでの間、

約15年以上にわたり、ずっとお世話になることになります。




そして病気が治った現在でも

連絡をとらせて頂いているという私にとっては

心のメンター的な存在です。




入院中、伊丹先生は、




「心が休まるまでここにいれば良い。」




常にそういったことを言ってくれていました。




それと合わせて




"私の精神疾患の原因が母であること"




病気を悪化させないようにするには、




"母親との距離を保つこと"




が重要だということを話していました。




ただ私としては、




「母を求めているのに、

なぜ距離を置かなければいけないの?」




その時にはまだその意味がよくわかりませんでした。




二週間ほど入院し退院することが決まった時、

伊丹先生と母と私で話し合いをする機会が設定されました。



伊丹先生「お母さん、加奈子さんの精神疾患は追い詰めてしまうとどんどん悪化してしまいます。学校に無理に行かせることなく娘さんの意思を尊重してあげて下さい。」

「わかりました。ただ、授業が他の子に比べて遅れて行ってしまうが心配です」

伊丹先生「それよりも今の娘さんの精神状態を安定させることが一番です。」

「娘がよくなるように娘の意思を尊重します。」



その会話を聞いて、母が私のことを守ってくれるような気がして、

本当に嬉しかったことを覚えています。




次の日の朝、退院すぐということもあり、

私の気持ちは下がっていました。



「布団から出なくないな。」



そんなことを考えていた時に聞こえてきたのが母の言葉でした。



「たくさん休んで皆んなに遅れを取っているんだから早く起きなさい!」



昨晩、母が伊丹先生に言った言葉はなんだったんでしょう?




学校に行くのを嫌がる私の手を無理やり引いて、

中学校の門まで母に連れて行かされます。




この時に感じたことがあります。




それは伊丹先生のアドバイスを無視し、

私のことよりも世間体や周辺の目を気にする母に、




「たぶん、これからもお母さんは

私の気持ちはわかってくれないんだろうな。」




"小さい頃から母に求めていたものが

手にすることができなかったことが

私の精神を狂わせていたこと"




"求めれば求めるほど手に入らない苦しみが

今の私を作ったということ"



伊丹先生「母親との距離を保つこと!」



伊丹先生の言葉の意味がなんとなく理解できた瞬間でした。






母の私への執着がいきなり高まる


中学、高校生の間、

私の自律神経失調症は良くなったり悪くなったり、

病院に通いながら付き合い続けました。




高校時代、いじめにも会いましたが、

母親に相談することも出来ず、

相談できるのは友達と伊丹先生だけ。




伊丹先生に言われた通り、

母と微妙な距離感を取りながら、

自分の精神疾患と付き合っていく毎日でした。




しかし、高校を卒業したくらいから

どういうわけか、母の私に対する接し方に

変化が生まれてきました。




それまでは兄二人に手をかけ、

私にはあまり関心がなかった母親ですが、



兄たちが大きくなり手をかけれなくなった時を境に、

逆に私に執着するようになってきました。




学校のいじめのストレスを紛らわそうと

始めたアルバイトを反対されたり、

できた彼氏の職業が "飲食店勤務" ということで

別れさせられたり、




「どうして私のやることなすこと全てに反対するの?」




「それは私のことを本当に思ってしてくれていることなの?」




この辺りから母とはいさかいが絶えなくなっていきました。






就職してわかった仕事の楽しさ


短大を卒業した私は、地元の大手の家具屋さんに就職しました。




その会社で、高級とされる家具を販売する営業として

働き始めます。




営業の仕事は私にとっては天職で、

配属と同時にずっと好成績を出し続けることができました。




なぜ、配属と同時にいきなり売れていったかと言えば、

実は、幼い頃から母の気を引こうと

母の気持ちを探り続けたことにより、



いつの間にか人の気持ちを読むことが

出来るようになっていたからです。




新しいお客様と初めて会った時には、




"そのお客様が買う方なのか?"




"いくらぐらい購入される方なのか?"





営業という仕事をしたことがないのに、

それまで自律神経失調症を患ってきたことにより、

普通の営業の人なら、長らく経験して身につけられることが、

自然と身についてしまっていたのでした。




小さい頃から続けてきた、




"母の心を読むことの難しさ"




に比べれば、母以外の人の心を理解するのは、

私にとってはそれほど難しいことではありません。




ちなみにその後人生の中で、

家具屋だけでなく様々な営業職を長らく経験しましたが、

私は売れなかったということが一度もありません。




この頃は仕事が楽しくて仕方ありませんでしたし、

どんどん仕事にのめり込んでいったように思います。




そんな私にまた、ストップをかけさせようとしたのが

またもや母でした。




営業職というのはお客様商売なので、

夕方5時にきっちり帰れる仕事でもなければ、

時には帰る時間がかなり遅くなることもあるお仕事です。




そのことが母にとっては気に入らなかったのでしょう。




「私が帰りが遅いのは男の人と遊んでるのではないか?」




「仕事でそんなに帰る時間が遅くなるはずがない」




ある夜、私が家具屋さんの従業員出口から外に出て帰ろうとすると

何か違和感を感じます。




私の帰宅時間が本当に仕事で遅くなっているのかを

確認するため、隠れて車で様子を見にきている母でした。




私としては気づいていないフリをして

そのまま家に帰りましたが、

そのようなことが何度も続き、




「そんなに私のことが信用できないのか?」




「私の生きがいになっている仕事さえ好きにやらせてくれないのか?」




私の中で、母への不信感が日に日に高まっていきました。






二十歳を超えて父が相談相手になる


この頃、私が初めてしたことがあります。

それは父に母のことを相談するということでした。




それまで私は




"娘は相談ごとは母にするもの"




というのが一般的だと思い込んでいて、

父に何かを相談するという行為自体、

したことがありませんでした。




経営者でもある父は非常に威厳がある父で

母を愛していましたし、



母のことを父に相談するということは

してはいけないと思い込んでいたのですが、



母の行動がエスカレートするにつれ

私の中で限界がきたこともあり、

ある日思い切って父に相談してみることにしました。



「おとうさん、相談があるんだけど。」

「珍しいね。何かあったの?」

「少し聞いて欲しいことがあるんだけど・・・」

「もしかしてお母さんのこと?」

「うん。お母さんと私、うまくいってないの知っているよね?」

「うん、わかってるよ。」

「小さい頃から私に関心がなかったのに私が年ごろになった途端にすごい執着してきて、最近では私の職場までこっそり見に来てて様子を伺いに来ている。」

「あー、知ってるよ。やめろって言ったんだけどね。」


初めて父に母のことを話しましたが、

母が私に対してしていること、

私に対しての行動をやめるようにと

言ってくれていたとは思いもしませんでした。




なんとなく家族の中で私の味方はいないと

思ってずっと過ごしてきた私にとって、

もっと早く父に相談していればよかったと

思った瞬間でした。




この時を境に母のことを父にいろいろと

相談するようになっていきます。




ある日いつものように母と言い争いになり、

父に相談した時のことです。



「お父さん。お母さんのことなんだけど。」

「うん、どうした?」

「お母さんは娘を全て自分の言う通りにしないと気が済まないのかな?」

「どういうこと?」

「今日お母さんに、「お母さんの言う通りにしてればいいのよ。」と言われたんだけど、本当に私のことを思って言ってくれてるのかなって思って。」

「加奈子、お母さんは昔からそういう人だから何言っても変わらないよ。」

「でもお母さんが全て正しいなんてことないと思うし、私もお母さんと一緒にいることが限界にきている・・・。家を出たい。」

「そうか、だけどお父さんは家を出ることには反対だ。お母さんと "うまく距離を取りながら" 生活してみたらどう?」



"母と距離を取りながら生活する"




このことは私が自律神経失調症を発症した時に、

伊丹先生から言われた言葉と同じでびっくりしました。



「相談はしてこなかったけど、私の病気もお母さんが原因で、私も良い歳になってそろそろ限界だよ。」

「わかった。お父さんが加奈子とお母さんと一緒に話をしてあげるから、お互いの意見を通すんじゃなくて折り合いとをつけてみたらどう?」

「お母さん、そんなこと絶対してくれないと思う。お母さんが譲ってくれないなら家を出てくつもりだけどわかってくれる?」

「わかった。三人で話して、お母さんが全く加奈子に譲るところがないならそういうことも考えるしかないね。」

「うん。」




父に相談してわかったことがあります。




今、父に感じていることは私が幼少期から夢見てきた

母にして欲しかったことで "母性" だということでした。




この頃から私の中で父の存在は私の "心のよりどころ" になっていきます。




驚くべきことにそれ以来、

ずっと通い続けていた伊丹先生のところには

気づけば全く行かなくなっていることに気付いた自分がいました。






母との決裂の日


数日後、父と母と私で話し合いの場が持たれました。


「お母さん、今日は加奈子が言いたいことがあるみたいだから口を挟まずまずは聞いてあげて。」

「・・・」

「お母さん、小さい頃から愛情不足を感じていて、お母さんに私の方を向いてほしいとずっとアプローチしてきて全くこっちを向いてくれなかったのに、お兄ちゃんに手がかからなくなって、私が年頃になったからといって、いきなり私に執着して、私のやることなすことに口出し監視するのはやめてほしい。」

「・・・」

「お母さんが家具屋まで私を見にきているのも知っているし、私ももう子供じゃないんだから、仕事しているんだら自由にさせてよ。」

「・・・」

「お母さん、加奈子ももう大人なんだから、お互い争っていても前に進まないから、お互いに譲ることも必要なんじゃない?」

「お母さんは嫌。」

「私は半分譲るって思ってるし、お母さんが全く変わろうとしないなら、この家を出て行く。」

「そんなことは許しません。」


母は、父の仲介にも聞く耳を貸さず、

"出てく、許さない" の言い合いが長く続いて、

全くの平行線のまま、話し合いは幕を閉じました。




そして、その日から母に隠れての

私の家出作戦がスタートします。





自由への道


母は全く納得していませんでしたが、

この話し合いを境に、私は一人暮らしをするための物件を探します。




幸い、家からある程度離れた距離に

良い物件が見つかり賃貸契約を済ませました。




保証人は父にお願いしました。




母との話し合い以降、父は私が家を出ることを

密かにサポートしてくれました。




母に見つからないように家を出ようと、

自分の部屋から新居に少しづつ荷物を移動していき、

"あと一回分の荷物の移動で家を出れそうという時" に、

母に見つかります。




その日、仕事から帰ると普段は

電気がついているはずの家全体が真っ暗でした。




不思議に思い自分の部屋に入ると

真っ暗な私の部屋に母が座っていました。




そして、今まで見たこともないような

形相で私をにらみつけます。

「荷物どこへやったの?」

「私出てくから。」

「そんなことは許しません。」

「許されなくても出て行く。話し合いをしたのに全く譲ってくれなかったのはお母さんでしょ。」



私はまとめてあった最後一つの段ボールを腕に抱え、

母を振り切るように家を飛び出しました。




母親の怒鳴り声が後ろで聞こえましたが、

その声を遮るように車のドアを閉め、走り出します。





車で新居までに向かう途中、

小さい頃、母親の気をひくためにした

プチ家出を思い出していました。




当時、母親に "私の方に向いてもらうため" にした家出は、

今では、"母親から逃げるため"の家出に変わっています。




これで本当に母から解放されるという清々しい気持ちが

怖いという気持ちを上回り、

中学校の頃に伊丹先生から言われた




"母親と距離を置くこと"




が初めて現実となった瞬間でした。






うつ病を発症


一人暮らしを始め母からの呪縛が解かれた私は

病気も安定し生活していました。




しかし、一人暮らしを始めて数年経った頃、

この頃、働いていた家具屋さんが倒産することが決まり、

それを機に私は職を変え、営業職から、

ある会社の事務職として働いている状況になっていました。




そんな状況の24歳のある日のこと、

父から突然電話が入りました。



「お母さんが帰ってきてくれと言っている。」

「お母さんと一緒に住むことはできないよ。」

「実はお父さんが加奈子の肩を持っているのに気づいて、「これ以上お父さんが加奈子の肩を持つんであれば離婚する。」とお母さんが言っているんだ。」

「お父さん、今まで私のことをかばってくれてありがとう。少し考えさせて。」


悩みました・・・。

私の家出も今の状況も父のサポートなしではできませんした。




そして私が原因で父と母の関係が崩れてしまうことは

私自身が一番望まないこと・・・。




「戻ることしか選択肢はないのかな。」




と思い始めていました。




実は、この頃の私は精神的に健康とは言えない状況になっていました。




大好きだった家具屋さんの突然の倒産が原因で、

転職した事務職という仕事が自分に合わず、

大きなストレスになっていたこと。




また、そういったときには悪いことが重なるもので、

大きな失恋も合わせてやってきていたタイミングでした。




仕事や恋愛のストレス、

それに加え、また家に戻らなければいけないという不安が

一気に押し寄せ、私の自律神経失調症は悪化。




家を出てきている手前、

自分の悩みをお父さんにも相談できず・・・

私は思わず伊丹先生のところに駆け込みます。


「先生、母親のところに戻らないと父と母が離れてしまうから戻るという選択肢しかないのかなと思って。」

伊丹先生「今の加奈子は全く物事が見えてないよ。今まで10年も加奈子を見てきたけど、かなり悩みが複雑になっていて今までないくらい落ちた状態だと思う。」



うつ病と診断されました・・・。




今思えばあの時の状態は自分でも気づかないうちに

涙が溢れている、といった感じで

かなり精神不安定な状態だったと思います。




もともと持っている自律神経失調症に

うつ病がプラスされ、

体に加え心にも異変が生じている状態でした。




"母から逃げたい"




ただそれだけの思いなのに

なぜ自由に生きさせてくれないのか?




その人の悩みというのはその人本人にしかわかりません。




私の中で複雑に絡み合う悩みに押しつぶされそうになり、

本当にこの時は "死にたい" と思うようになっていました。




その状態を見かねた伊丹先生が


伊丹先生「お父さんとお母さんと私で一度話してみるね」



と動いてくれることになりました。






私の病気のために家族が一つになってくれた


次の日、お父さんとお母さんと伊丹先生で、

私の今後について話し合いが行われました。




先生は、




"今の私の精神状態の危険性"



や、



"お母さんと私が一緒に住むことのリスクなど"




両親に私がよくなる為のアドバイスを色々としてくれたようです。




その夜、実家で両親と会い、

私の今後について三人で話しました。




そしてその時にお父さんから提案がありました。




「加奈子が良くなるまでお母さんとは一旦離れて

加奈子と一緒に暮らそう。」




「加奈子とお母さんの関係を良くために、

三人で行く旅行を予約したから2週間後に三人で行こう。」




旅行先の地図を広げながら、

話す父と "それに協力的な母" を見て、

涙が溢れました。




"はじめて母が私の方を向いてくれたこと"




"父が私を母と共に守ろうとしてくれていること"




24年生きてきてはじめて自分の居場所ができたような

今まで味わったことがない救われるような感覚が私を包みました。





「これで好きなものでも買いな。」




帰り際、父から "ホワイトデーのお返し" だと現金5000円を渡されましたが、

2週間後に旅行もあるし、




「なぜ今のタイミングなんだろう?」




と、どこか違和感を感じながら私は実家を後にしましたが、

今後の私と私たちの家族は良い方向に

向かっていくというという確信を感じていました。





次の日のこと


次の日、昨夜の温かい気持ちのままに包まれている私は、

それまでの気持ちとは打って変わり、

晴れ晴れとした気持ちで仕事に打ち込んでいました。




事務職でしたがお客さんの対応をすることもあり、

その日は朝から来客ばかりで非常に忙しく、

座る暇もないほどでした。




私の携帯が何度も鳴っていることには

気づいていたのですが取る時間もなく、

来客対応に追われていました。




お昼11時くらいでしたでしょうか。




ようやく携帯を見れるようになり、

着信履歴を見るとなぜか公衆電話から

何十件という着信の記録がありました。




「なんだろう?」




そう思っていた矢先のこと、

再度、同じ公衆電話から着信が鳴ります。




「もしもし?」

「お母さんだけど。」


電話の相手は母でした。



「さっきから公衆電話から何度もかけているのお母さん?」

「そうだよ。仕事中だよね。」

「そう。仕事中。出れなかった。どうしたの?」

「落ち着いて聞いてね。」

「うん。改まって何?」

「お父さんが亡くなった・・・。」

「え!? 何言ってるの?」



この日は4月2日。エイプリルフールの翌日だったので、

私は母が冗談を言っているのだと思いました。



「今、市民病院に来てるんだけど、家でお父さんが息してなくて救急車呼んで・・・」


母もパニック状態でその後は何を言っているよくわかりませんでした。

ただ、母の声から話が冗談ではないということがすぐに理解することができました。





前日とは嘘のように変わり果てた父との対面


私は勤務先からすぐに市民病院に向かいました。




その勤務先から市民病院までは、

桜が綺麗な川沿いの道を通る必要があります。




市民病院までの道のりは満開の桜と

花吹雪が舞っていました。




病院に着くまでの時間は、光景も相まって、

嘘なんじゃないかと思わせるほど、

私を妙に流動的な味わったことない精神状態が襲いました。





病院に着くとそこには

母と兄や叔父たちが駆けつけていました。




「お父さんはどこ?」




と私がたずねると母が、




「今、お父さん、死因がわからず解剖中・・・。」




と答えました。




「解剖?なんで?」




あまりに急激に物事が動いていて

全く状況を把握できませんでしたが、

ただ、お父さんが "本当に亡くなったということ" はだけは理解できました。




その後のことはあまりのショックでよく覚えていません。




というよりも昨日まで笑顔で私を勇気付けていた父が

次の日にいなくなることなど

とうてい頭で理解できるわけがありませんでした。




その後、通夜、お葬式と

気持ちの整理がつかないままに進んでいきましたが、

骨になった父を見て初めて涙が止めどなく溢れました。




未だに骨になってしまった父をことを思い出すと

涙が溢れます。




こうして大好きだった父は、

母と私を和解させ、家族を一つの方向に向かせた次の日に

この世を去りました。



60歳という若さでした。





お葬式の後


父が亡くなった日から一週間ほどは会社に休みをもらい、

母と共に実家で過ごしました。




お父さんが大好きだった母は、

食事も喉に通らず急激にやせ細り、

私もただただショックで、もはや母と争っていたことなど

どこかに吹き飛んで妙に冷静になっている自分がいました。




自律神経失調症に加えうつ病を併発し、

その中で突然やってきた父の死。




前日に私のために父と母が見せてくれた

初めての家族の明るい未来、そして次の日の父の死。




運命のいたずらを恨みました。




父は司法解剖の結果、

結局、死因は原因不明と判断され、

亡くなった原因を特定することはできませんでした。




ただ母の話によると父が亡くなった日、

父はいつものように母と喫茶店にコーヒーを飲みに出かけ、

その帰り道、体調不良を訴え、

家に戻って仮眠をとりたいと言ったようで、

前兆はあったようです。




そして、母が父を見たときにはすでに

息をしていない父がそこに寝そべっていた・・・。




そんな状況を発見した母のことを思うと

そのショックの大きさは計り知れなかったと思います。




私はお葬式からしばらくして、

父が亡くなる前日、私にホワイトデーのお返しにとくれた

5000円のことを思い出していました。




「あの五千円はなぜあのときに私にくれたんだろう?」




「父はこうなることを予測してたんじゃないか?」




いろいろなことが頭を回りました。

ただ一つだけ私にはわかっていたことがあります。




それは "父の死は私と無関係でないこと"




この時はぼやーとしかわかりませんでしたが

その後の人生の節々で "父という存在" が、 "父の死" が

私を何度も助けてくれることになります。





父の死が私にもたらせてくれたもの


父の死から半月が経とうしていた頃でしょうか?




少し冷静さを取り戻した私はふと気付きました。

それは



"私の母を見る目が180度変わっていた"

ということ。




それまでの強く見えた母はどこかに消え、

非常に小さく見える母。




それと同時に思ったことは、父の代わりをできるのは

私しかいないということ。




これからは母は私が父の代わりに守っていく。

一人の女性として自立し、父のように生きよう。




それまで私の中に鎖で閉じ込められていたものが

解放されるように自分の中に湧き上がってきていました。




その後私は、それまで抱え込んできたものを

一旦全部捨てる決意をします。




事務職の仕事を辞め、

自立するための仕事を探し始めました。




そして父にずっと話していた

インテリアコーディネーターになる夢を叶えるべく、

大手住宅メーカーに再就職を決めます。




私の特技は母によって培われた "人の心を読む力" と、

父の死によって鎖が解かれた "自立したい" という欲望で成り立っている。




24歳の時、父の死によってもたらせてくれたのは、



自分自身のことを自分で理解させてくれたこと



母親を求めるばかり自分自身を縛り付けていた自我の開放




でした。






自立への新たな挑戦が始まる


気づけばあれほど長らく苦しんだ自律神経失調症は

それ以降、症状が顔を出すこともなく、

伊丹先生にお世話になることもなくなって行きました。




"父が死をもって私の精神疾患を直してくれたんだ" と思います。




私にとっては人生で一番大きな

忘れることのできないつらい思い出ですが、

父の死はそれまでの私の人生を180度変えてくれ、

生まれ変わるために必要に起こった出来事だったことだと

今は理解できます。




父が亡くなって早15年、

今でも常に考えるのは、



「父だったらこんな時どうしていただろうか?」



ということです。

私の中に今でも父は生き続けます。




「天国のお父さん、ありがとう。

お父さんの死がなければ今の私の人格も

"お父さんのように自立を果たせたこと" も

"自分の今の大切な家族" もありません。

これからも私を天国から見守っていて下さい。」





その後の私


その後、私は大手住宅メーカーでインテリアコーディネーターとして、

営業成績で全国1位の成績をおさめたり、その後は自宅でパン教室を開業したり、

パン屋さんを立ち上げたり、自立のための道へ進んで行くことになります。




現在では、個人や企業向けにコンサルティングを行ったり、

教材を作ったりといったような事業をしていて、

経営者として自立を果たすことができました。




父が亡くなった時に私が描いた自立という世界が実現できた形です。




父の死は私にとてつもない覚醒と変化をもたらしました。

そして父の死は私と決して無関係ではありません。




「父を死なさせたのは自分のせいではないか?」




そんな風に自分を責めた時もありましたが、

今では父と一緒に、父の分まで一生懸命生きていくと

前向きに捉え生活をしています。





最後に


さてかなり長くなってしまいましたが、

私のストーリーにお付き合い下さいまして本当にありがとうございました。




私の経験してきたことで何か感じて頂けたり、

何かのきっかけになることができたのなら幸いです。




最後までお読み下さいまして誠に有難うございました。




父が亡くなってからのストーリーも機会があれば書いてみようと思います。

その際はまたよろしくお願い致します。




この5000円札は父が亡くなる前日、

ホワイトデーのお返しにと私にくれたものです。




今でも大切に持ち歩いている私の宝物になっています。






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