恐らく、僕のした何かに対して癇に障ったのだろうけれども、よくわからないままに僕は一人とぼとぼと下宿に向かって歩き出した。
辺りはすっかり暗くなってしまっていて、楽しかった今日1日がまるではるか昔の出来事だったように、一人で歩く下宿までの道のりは、寂しいとか悲しいとかいう感情とはまた違う、変な違和感に包まれていた。
それは、いつも変わらず、疑うことなく一緒にいた人がいなくなってしまった喪失感のようなもので、18歳の僕にはその感情の正体が理解できずにいた。
当時の僕にはこのけんかの原因はいまいちつかめなかったけど、僕がした何らかの行動で怒らせてしまったのだとしたら。
それによって大切な友達を失ってしまうかもしれないという現実を思い描いてみたら、居てもたってもいられぬほどに、背筋に冷たいものが垂れてきたときのような感覚になって、体から体温を奪っていくのだった。
自分の周りから大切な人がいなくなってしまうという重大さを、感じたことは無かった。
僕にとっては、父親がとんでもないアル中で、日々母親がその父を罵倒するといった家庭内でのいざこざは多少あったものの、そんなものは小さいときからの日常に過ぎず、いつしかそれは普通の感覚になっていたし、それ以外で言えば、自分が気が付かなかっただけかもしれないが、特に学生時代も重大な何かがあったわけではない。
もちろん、彼女に振られた程度の別れは経験していたけど、それが自分自身にとって脅威に感じたとこはない。
比較的人よりも恵まれた環境で育ってきたのか、僕が鈍感なのかは微妙なところだけれど、それは恐らく、生まれて初めて味わう喪失感だった。
うなだれて歩く視線の先には、見慣れた富岡ちゃん愛用の腕時計。
ダイバーズウォッチのような形状の、お気に入りの腕時計。
アスファルトの端に掘られた溝の隅っこに、転がるように落っこちていた。
忘れ去られたようにアスファルトの片隅に転がる富岡ちゃんお気に入りの腕時計を見て、僕は幼かったころの記憶を思い出していた。
両親がぎくしゃくし始めたのは、父親が定年を迎えてからだったと幼心に記憶している。
50を過ぎてからの子である僕にとって、父親はおじいちゃんと言ってもよいほどだったから、小学生の低学年のころには、すでに父は仕事をしていなかった。
僕の父も、教師だった。
定年を迎えた父は教師を辞め、家で過ごす時間が多くなるにつれいつしか酒に溺れるようになり、一つ違いの出来の良い兄は母親の期待を一身に受け、その期待を見事なまでに応え続けていた。
その兄が東京の大学に進学し実家に取り残された僕は、ひとり不毛な時間を過ごした。
母の期待に応えるほど出来の良くない僕にとっての家族とは、自分の居場所を見つけられない場所であり、自分の存在価値にすら疑問を抱いていた。
何をやっても兄には勝てず、一つ違いだからこそその差は誰もが認めるほどの確固たるものになっていき、いつしか僕は、本気で勝負するという行為自体を否定するようになった。
正体もないほどに酔いつぶれる父と、それを罵倒する母。
そんな環境でも努力を怠らない兄。
「兄の迷惑になるようなことは絶対にするな」と、母にはいつもきつく叱られていた。
みな、僕には無関心だった。
どうせ何をやっても認められることは無い。
いつしかそんな思い込みに支配されていき、全力を出せば負けた時の言い訳が出来なくなり、そのためにますます自分の存在意味を思い知らされるのだったら、いっそ無気力が一番だと考えるようになった。
無気力を装えば、最低限の体裁だけは保てる。
「やっても出来ないのではない、やる気がないからうまくいかないのだ」という底辺の体裁。
だからいつしか本当の自分という物がわからなくなり、やがて本当の自分という物があるのかないのかさえ、よくわからなくなった。
浪人生になったのも、単に問題を先送りしたに過ぎず、決して本気で自分の人生を考えたからではない。
これが富岡ちゃんの言うところの、僕の性格や言動を形成したと思われる環境であるけれど、この時の僕には、なぜその日に限って野球ゲームでわざと負けてやろう思ったかまでは、考えが至らなかった。
ただ、富岡ちゃんの腕時計を見つめながら、そうすべきではなかったとのだという事だけははっきり分かったのだった。
僕はそれを拾い、着ていたTシャツの裾で、アナログの針が見えているガラスの表面をこっすって拭いた。
道端につけられた街灯の下まで行ってその時計を見てみたら、ガラスの表面にはひびが入り、投げつけた時の衝撃でバンドの部分にも少し亀裂のようなものが見て取れた。
街灯の下で富岡ちゃんの時計についた汚れをきれいに拭き取り、秒針がまだ動いていることを確認してから、ジーンズのポケットにしまった。
この時計は、富岡ちゃんに返さねばなるまい。