僕が東京に出てくる際に持ってきたものは勉強道具と寝具と衣類のみで、電化製品の類を一切所有していなかった。
部屋探しも4月に入ってから始めたくらいだったので、ここで1年間暮らすための準備という物はほぼしておらず、着の身着のまま、数枚の衣類と布団と勉強道具のみで瀬尾宅に乗り込んでいた。
だから自分の部屋では、勉強するか寝るかの2択のみで、富岡ちゃんと連れ立って遊びに行くことのない日は、暇だった。
せっせと録りためたカラオケの録音テープも、僕の部屋では聞くことはできなかった。
瀬尾宅の下宿には、お互いの部屋を行き来してはいけないというルールがあったのだが、間抜けなカラオケの録音テープを聞きたい一心で、僕は富岡ちゃんの住む母屋の2階へいつしか通うようになっていった。
富岡ちゃんの部屋には、実家から持ち込んだ最新鋭のラジカセがあった。
瀬尾宅で最も居心地が良いとされる浪人生の下宿部屋は、母屋の2階の2間で、ここは母屋の2階というだけあり、普通の部屋だった。
この2部屋には、2浪目の市田さんと富岡ちゃんが住んでいて、僕を含めたそれ以外の4人は母屋に隣接する浪人生の下宿部屋として建て増しされた形の、築20年は経つであろう粗末な2階建てに住んでいた。
自分の部屋にいても一向に落ち着かない恵まれぬ境遇も大いに手伝って、そのうち暇さえあれば富岡ちゃんの部屋に入り浸るようになっていった。
富岡ちゃんの部屋は大きな窓が壁に切り取られていて見晴らしもよく、8畳ほどの広さがあるので2人でいてもゆったりしている。
学習机と炬燵テーブル、衣類をかけるパイプハンガー、本棚、テレビはなかったけどダブルデッキのラジカセがあった。
富岡ちゃんの部屋にたどり着くためには、母屋のキッチンの真裏につけられた下宿生専用の古びた鉄製の階段を上っていかなければならない。
今でいう2世帯住宅のような作りになっていて、直接階段を上ると小さな玄関があり、そこで靴を脱ぎ部屋に入っていくような作りになっている。
一応大家さんと顔を会わせることなく部屋に入れるのだが、僕の場合は他人の部屋にお邪魔しているわけで、なおかつほかの浪人生同志との交流も部屋の行き来も禁じられている以上、絶対に見つかるわけにはいかない。
20年近くは雨ざらしにされていたであろう鉄製のさびれた階段は、それを見透かしたように、一歩足を踏み出すたびにギシギシと軋むのだった。そのため、サンダルを脱ぎ忍び足で上り、富岡ちゃんの部屋に入ってようやくホッとするという、彼女の家に夜這いするかの如く緊張する行為なのだった。
そういえば、こんな感じで高校時代付き合っていた彼女の実家に夜中に忍び込んだりしてたっけな、みたいななんとも言えない思い出がいつも頭をよぎったりした。
富岡ちゃんの部屋のドアを開けると正面には大きな窓があり、この部屋に長年つけられたままなのだろうか、趣味の悪い緑色のカーテンが引かれている。
窓に向かう形で学習机が備え付けられており、その上には参考書の類やマンガ本が乱雑に積まれていていたのだが、一番場所を取っているのは当時最新型のラジカセだった。
部屋に遊びに行くと必ずラジオの深夜放送が流されていて、かなり深い時間まで深夜ラジオを聞くのが楽しみなのだと言っていた。
「東京はFMもよく入るから、ラジオ好きはたまらいわ」という彼のラジカセのアンテナは、窓に向かいまっすぐに伸びていて、この部屋でベストの角度に調整されている。
部屋の真ん中には炬燵テーブル、真夏だというのに炬燵布団がかけられたままで、テーブルの上には、何万年も時間をかけて作り上げた洞窟の岩のような形になったタバコの吸い殻が、灰皿に押し込まれている。
飲みかけのコーヒーカップ、開いたノートと予備校のテキスト、百円ライターにタバコ。
物が置けそうなスペースである学習机と炬燵テーブルの上は、それらのもので埋め尽くされていた。
僕が遊びに行くと、炬燵テーブルの上に開いていたノートとテキストを閉じ、学習机に放り投げ「勉強全然はかどらないわ」と富岡ちゃんは言う。
何度かそのやり取りを繰り返しているうちに、富岡ちゃんは尋ねてきた僕に気を遣っているのだという事に気が付いた。
浪人生というのは大学に入らなければその存在意味はない。だとするならば、人生で最も貴重な時間を有していると言っても過言ではない。浪人生に与えられた時間は大学に入るために勉強に充てる時間であることは言わずもがなで、寸暇を惜しんで勉強しなければ「受験戦争」とまで言われた競争に勝てるはずもない。ましてや富岡ちゃんが狙うのは国立大学であり、勉強する教科数も多く、やらねばならないことは山ほどあるわけだ。
理数系が致命的に不得手であるために国立大学など夢のまた夢であった僕は、早々に私立文系にドロップアウトしただけでなく、2年目の受験生という立場に早くも疲れの色を見せ、大学に入るという意味や、そのために必死で勉強しなければならない必要性もすっかり見失っていたのだ。
なぜ大学に行かねばならないのか、将来何になりたいのか、そしてならねばいけないのか。自分自身がどこに向かって進んでいけば良いのかさえ、ここまで来てもまだ、僕には分からないままだった。
自分が大学に行って何がしたいのかなんてことは考えれば考えるほど分からなくなっていたのだから、将来の自分の成るべき姿など、思い描けるはずもない。
富岡ちゃんはいつも、遊びに来た僕にインスタントのコーヒーを入れてくれる。
学習机の隣に置かれたカラーボックスの一番下の段には、お気に入りの銘柄のインスタントコーヒーの小瓶が数本並べられていて、その日の気分によっていろいろなコーヒーを振舞ってくれる。
キリマンジャロ、モカ、ブルーマウンテン・・・
コーヒーがあまり得意ではない僕だったが、富岡ちゃんのコーヒーへの愛情とそれにまつわる蘊蓄を聞くたびに、いつまでもコーヒーが苦手であるという事実を伝えそびれてしまうのだった。
「本当はインスタントじゃなくて豆から入れたいよね」
コーヒー好きの富岡ちゃんにはインスタントでは物足りないようだったけど、だからと言って豆からコーヒーを入れるだけの装備をそろえることは不可能だった。
「豆から入れるとやっぱ違うのかい」
天然の岩の間にタバコの吸殻を押し込んでみたけどうまく消えず、しばらくの間煙が立ち上っていて、灰皿は噴火直前の活火山のようだ。
「全然違うよ、そりゃあ」
ゼンゼン、という部分を大げさに強調して見せた。
「駅前にモーニングやってる喫茶店あったんだよなぁ、予備校行く前に通るといつも気になっててさぁ。明日土曜日だし行ってみない?」
富岡ちゃんは目を輝かせて、早くも喫茶店のコーヒーに思いを馳せていた。
「別にいいけど、せっかく駅前まで行くんならその後図書館行って勉強でもするべ」
それほど受験勉強に対して前向きではなかったけど、いつも勉強を途中で中断させてしまうお礼に、僕は図書館に誘った。
「いいねぇ、じゃあ、決まり。明日は駅前の喫茶店でモーニング食べて、その後練馬の図書館だね」
僕はモーニングという物を知らなかったけど、喫茶店で食べる朝食の事だろうと考えた。
土日祝日、つまり予備校が休みの時は下宿での一斉の朝食はなく、各々で朝食を食べねばならず、土曜日のモーニングというのは僕たちにとって都合の良いタイミングだった。
僕はこたつテーブルの上に置いてある参考書の類とか、赤本と呼ばれる過去の入試問題集をペラペラとめくりながら、富岡ちゃんにずっと気になっていることを聞いた。
「なんで、太郎っていう名前なの?」
単刀直入に聞いてみた。