支えて下さったすべての方に
感謝の気持ちを込めてここに記します。
●一絨毛膜一羊膜の双子を授かった
結婚して2ヶ月後、妊娠した。
独身の頃何度か婦人科に通っていた私にとっては、意外なほど早い妊娠だった。
妊娠がわかった一週間後には、つわりがはじまった。
その後一定時期までつわりはひどく、脱水にもなり、妊娠が発覚してから1ヶ月後には5キロ体重がおちていたほどだった。
妊娠がわかった同時期に家を買った。
出産は、なんとなく地元への里帰り出産かなと思っていたのもあり、分娩施設のない産婦人科をあえて選び心拍を確認後初の検診に行った。
すると、まーるいものが2つエコー写真に映った。
あっ、頭と身体がこうしてできてくるのかな⁈とみているも、なんだか先生が何度も何かを確認している。
そして口を開いた。
先生「双子ちゃんを妊娠されているようです。」
私「えっーっΣ(゚д゚lll)!!!!」
先生「たぶんですが、これは一絨毛膜一羊膜双胎の可能性が考えられます。次回から周産期医療センターのある病院に紹介状を書きますので行ってみて下さい。」
私「えっ、私里帰り出産したかったのですが、無理ですか?」
先生「無理ではないですが、この膜性の双子は珍しいので、とりあえず周産期センターの施設の整った医療機関での検診及び出産が必要となってきます。」と。。。
里帰り出産ができない?
周産期医療センターって何?
双子って…、えっ、なんで??
しかも、一絨毛膜一羊膜って何?
…不安と思いもしなかった事から、その日は、
よくわからないが涙が溢れた。
この日から不安な日々がはじまった。
一絨毛膜一羊膜双胎児を授かった事が確認されてから、あまりにも知らない事ばかりだったので、インターネットで調べた。
すると…、あまりにも希望を見出せない内容だった。
私が当時調べたものには、双子の約1パーセントの確率の膜性だという事、授かったとしても出生までたどり着くのは2割をきる事、妊娠高血圧症候群など妊娠した事でおこるすべてのリスクは非常に高い事。
多胎児特有の双胎輸血症候群なども起こりやすく、すべてのものを共有し育つ部屋も同じという事で、互いにへその緒を絡ませてしまう事もある事から、出生に至る確率はとても低い事。
たくさん調べた訳ではないが、
こんなにもハイリスクな双子を授った事で、授った幸せよりも、不安すぎて毎日ひどいつわりでトイレに吐いては泣いていたのを覚えている。
今思うと、笑ってしまうというか…、
なんてピュアだったんだと自身に対して思う気持ちと、ハイリスクな子供を授かった1人の女性として、抱きしめて少しでも不安な気持ちを共感しはげましていきたいと今率直に思う。
妊娠がわかってから1ヶ月半後ぐらいだったと思う。
●いのちの選択
主治医に、皆さんにこの時期に言わなくてはならない事ですので言いますが、今回のハイリスクな出産を継続するのか、それとも今回は諦めてあらたな妊娠に切り替えるのかを次回までに夫婦で話し合ってきて下さいと言われた。
その際に、このまま奇跡的に授っても流れてしまったり、死産してしまう可能性もぬぐえないですと。
ちなみに、妊娠12週以上の場合は死産となっても手続き上ですが、分娩費用はでますと。。。
…ハイリスクな双子を授った事を消化できぬまま、ママになるという実感をまだ感じているようないないような時、今思うとこの頃から消化不良のまま期日までに決断をしなくてはならない事がはじまってた。
その日にもらったエコー写真、ピーナツくんのような我が子がならんでそこにうつっていた。
はじめて、細胞のような姿から、なんだか人間の身体にみえてきた頃。
その日にまさか、妊娠を継続するのかしないのか、次回までに決めてきて下さいというのは、あまりにも残酷だった。
でも、あらためて私が授った子たちの命の選択を、この未熟な私がしなくてはならない事実がそこにあった。
ずっと泣いてた。
ずーっと泣いてた。
夫は泣いている私のそばにずっといてくれた。
…2人とも苦しかった。
………。
日にちだけが過ぎていった。
夫と話し合った。
夫はふと…、産んでほしいと。
もしかしたら、障害とかあるかもしれないよ。と私。
夫婦になって数ヶ月だった私たちの不安は消える事はなかったが、…かといって中絶を選ぶ理由もそこにはなかった。
五体満足でうまれた私たちが考えられる精一杯の話し合いをした上で、妊娠を継続する決断をした。
もしかしたら、流産や死産してしまうかもしれない、産んだとしても五体満足ではないかもしれない。
でも、ただ素直に授った命を自らの決断でたつ事ができなかった。
未熟ながらも母となった私が精一杯できる事、それは授ったこの命の寿命を全うさせてあげる事だと思った。
今思うと、この決断がのちに大きな意味をもっていく。
そして、我が子が7歳になった今も、この決断は私にとってはよかったが、果たして夫にとって、我が子達にとってよかったのか…、今も毎日自問自答してしまうのが正直な気持ちなのだ。
命の選択は、いろんな角度でみてみると、一概に1つのこたえにならないと思う。
私が決断した選択も正解ではない。
産むまでも大変だが、産んだ後がとても大事だから、きれいごとでは育てられないから、…今もわからないのだ。
ただ…、未熟すぎる私ではあるが、命はとてもとても尊く大きなキセキ。だから、そのキセキを大切にしていける自分でいたいだけだ。
●弱々しい妊婦なのかもしれない
妊娠継続を決めてからの私は、卵を温める親鳥のように、基本トイレ以外は動かない生活をした。
引っ越ししたばかりの新築二階建ての自宅の二階には、出産した後まで一度もあがる事もなく、洗濯物も一階に干し(笑)、買い物も宅配サービスを利用した。
そして、基本布団の上でひたすら横になり、お腹に話しかけた。
するといつ頃からか、ボコボコと胎動を感じ始めた。
はじめは、右の子から…数日後左の子が動きはじめました。
あんなにもハイリスクな事ばかり告げられているのにもかかわらず、私はこの時根拠もないのだが、「この子たち、もしかしたら生まれてくるかもしれない。」と自分のお腹から感じる生まれてくるという強い生命力を感じた。
この時の私は、絶対生まれてきてほしいと母として思う事も正直躊躇していた。
なぜならば、何を背負ってくるのかわからなかったからだ。
妊娠を継続する決断はしたが、…かといって未知なるハイリスク出産にまだまだ心がついていってなかった。
胎動を愛しく感じるも、こんなにも未熟な私に何ができるのか、何をすべきなのかを我が子達に問いながら過ごしてたのかもしれない。
この頃から私は弱々しい母だったんだと思う。
いや、今客観的にみて、そりゃぁ、ビビるよなぁとも思う(笑)
同じような妊婦さんが目の前にいるなら、大丈夫だよという言葉よりも、寄り添う言葉をかけたいと思う。
●余談 〜 大丈夫という言葉 〜
自分が消化する為だけにここであえて
うちあけさせてくださいなのコーナー
子供を授かってから、大きく印象が変わった言葉。
「絶対大丈夫だよ」
確信ある素敵な言葉、大好きな言葉だったのに、
子供を授かり産んでから、どんなに身近な家族や友人に言われても、全く心を揺さぶられる事はなくなり、なぜか腹立たしく、相手への不信感につながってしまう事がしばしばあった。
逆に同じように障害や病気をもつ子供を産んだママに言われる「絶対大丈夫だよ。」は、心強く真っ暗なゴールのみえないトンネルに灯りがともされるような気持ちになった。
子供が7歳になる今も、昔ほどではないが、まだ相手への距離を無意識にとろうとしてしまう葉になってしまっている。
ただ、今現在少し自身を振り返る事ができるようになり思うのは、まず、自分が常に睡眠不足だったり、時間におわれたり、消化ができずにモヤモヤが残る出来事が続くと、相手の人間性はあまり関係なく(笑)、ただただ疲れと寝不足で頭がまわらない事だ(笑)
本当に実は単純な理由が多いf^_^;)
でも、あえて感ずる事を言うのならば、
大丈夫という言葉というよりも、その奥にあるみえない励まし、尊敬、相手の可能性を信じる心がある発信は、その時にはすれ違ったようにみえても必ず相手の心に残り、やがて花を咲かせる大きなチカラになると私は思う。
私もまだまだ励まされたプラスの言葉より、負の発信をしてしまう事が多々あるがf^_^;)、
信じてくれている方にいつの日か恩を返していける自分に成長していってみせる。
そしていつか、大丈夫だよといってくれたすべての方に、笑顔で
「本当に大丈夫でした。
あの時は励まして下さり、ありがとうございました。」とお礼をいいたい。
●管理入院
妊娠24週を過ぎた頃だったと思う。
少しお腹が張るような気がして迷ったあげく、急遽その日に病院を受診した。
すると、子宮頸管が急激に短くなっており、診察室でそのまま車椅子に座り即管理入院となった。
あまりにも急な入院、しかも1日でも多く…お腹の中に子供を入れておく必要があるプレッシャーで泣きながら夫に電話をしたのを覚えてる。
どうして子宮頸管がこんなにも短くなってるのだろう。
前日に10分駅まで歩いたのがいけないのか。。
内心自分を責め続けた。
入院した病院は、通常は3~4人の大部屋なのですが、ハイリスク出産という事でトイレも部屋に備え付けの1人部屋で、大部屋とはかけ離れた場所にぽつんとある感じでした。
入院した際に、テレビカードを廊下をまたいで販売機に買いに行っただけで、立ち歩いた事を怒られてしまったくらい、かなりの絶対安静でした。
隔離された部屋での唯一の楽しみは、3食のご飯と1日2回のおやつの時間でした。
また、数時間ごとに行われる胎動の確認も、我が子達が無事でいる事がわかる楽しみでした。
こうして私の管理入院は24週目よりはじまった。
管理入院での目標は1日でも多くお腹に胎児を入れて育てる事。
主治医より、説明を受けた。
目の形成の為にまず28週までが目標。
28週未満で生まれた場合、未熟児網膜症の発症率が高くなる。
そして、28週を過ぎたら次は32週を目標。
妊娠28週を過ぎると器官の成長はほぼ終わっているはずだが、肺の形成はまだされていない。
もしもの備えの為に28週までいけたら、ステロイドを母親に打ち、肺機能の形成を補助できればと。
説明を聞き、そして同意書にサイン。
処置の説明の理解はしてのサインをするも、状況に心がついていけない事ばかりだった。
でも、母親となる自分にできる精一杯の事をしたかった。
ちなみに、夫はほぼ毎日お見舞いにきてくれた。
笑顔で毎日はげましてくれた。
慣れないながらも、必要な妊婦用品を毎々自ら買いに行き、私の洗濯物も毎日持って帰って洗ってくれた。
本当に夫には感謝している。
共に私とすべてを同感してくれていた。
感謝しかない。
あらためて、となりで寝ている夫にありがとうの気持ちが溢れる今日この頃だ。
管理入院して、なんとか28週7日目の夜。
はじめの目標28週を越した事で、次の32週に向けて当直医より念の為ステロイドを2回に分けて打ちましょうとの説明があった。
そして、その夜1度目のステロイドを肩に注射。
32週に向けて1日でも長くお腹で育てるぞと意気込んでました(^^)。
ステロイド剤1回目を投与した翌日、
朝ごはんをしっかり食べ心拍確認と診察。
子供2人が体重が1キロ超えてきただろうとの事。
お昼前にも心拍確認。
その際に若干左側の子の心拍が弱くなっているとの事だったと思う。
主治医や助産師さん、看護師さんに見守られながらも、昼ごはん時間になり完食。
時計を確認すると、13時25分。
お昼寝でもしようかなと思っていたら、なんだかバタバタ私の部屋へ出入り。。
午後入ってきた助産師さんが、
助産師さん「聞きました?今日出産です。」
私「えっーっ!!!∑(゚Д゚)」今日っ?
しっかりお昼ごはん食べたんですが、オペ可能なんですか?」と質問した事を覚えです(笑)
左側の子供が心拍が若干下がってきている事。
子供が1キロのってきているので、あとは母親のお腹ではなく保育器でがんばって育てていこうとの事だった。
えっ、まだ1キロなのにと思ったが、
一絨毛膜一羊膜双胎で29週まで育った事がすごい事なのだから、驚く事ではない。
覚悟してたじゃないか。
やっと我が子たちに会える。
やっとこのしんどい妊娠生活が終わる。
子育てが思う存分できる。
そう思うと恐怖よりも、わくわくしていた。
そして、夫に連絡。
私「今何してる?」
夫「今食事してるよ。」
私「今から出産だって!」
夫「えっ、まじで。。…じゃぁ、会社に言って向かうよ。」
…こんな感じであっという間に帝王切開の準備となりました。
今日が子供の誕生日になるって事なんだ。。
あっという間に帝王切開の準備が終わり、夫も高速で病院に到着。
あまりにも急な出産に、互いの両親や兄弟にも連絡取れずにそのまま手術室にむかった。
手術室に向かう私のそばに、夫は言葉なくいる。
本当に夫はいつも優しく私を大切にしてくれた。
感謝が溢れてくる。
こうして、年を明けて1月末が予定日だった我が子たちは、11月中旬がが急遽誕生日となった。
●母の根拠のなき自信
帝王切開が無事終わり、意識が朦朧としながらも、病室に戻った。
意識はあるが、喋れないし動けない。
みんなの会話は聞こえるけど、反応できない。
…その中でも、夫が…NICUの先生から夜お話があるみたいと言って席をたった。
そうなんだ…。。。
話があるんだ…と思いつつも、ハイリスク出産の双子を産んだ喜びと、ホッとした安心感でいっぱいだった。
まさか、…これから想像を絶する育児と介護がはじまるなんて思いもしなかった。
喜びでいっぱいだった。
NICUの先生から話を聞いた主人が戻ってきた。
「1人目の子は…、小腸閉鎖なんだって、だから明日手術してつなげる事が必要なんだって。。あと、もろもろ…2人ともあるみたい。
生まれて72時間がとても大事らしい。
黄疸や未熟児網膜症、心臓にも…いろいろ。
でも、ゆっくり今日は休んでね。
明日来るから。」
「…えっ、小腸閉鎖って何??
手術??
…つなげたら治るの??
…いろいろあるけど、生まれてきた我が子。
絶対大丈夫。」
出産が終わった後の私は、
なぜか根拠なき自信があった。
…今思うと、正直そんな自分の純粋さが可愛らしく思う。
無知というのはこんなにも強い事を思うのだ。
…それは、強さというよりも、
生命にたいしてピュアだったんだと思う。
…育児をしはじめた数年間の私だったら、
このピュアさに腹立たしく思っていたと思う。
無知だったなぁと。。
でも、今子供が7歳になって、
はじめて…根拠なき母の確信は、
実はなにものにも崩す事のできない
大切な確信なんだと思うようになった。、
今でも育児に悪戦苦闘しながらも、
すべての出来事を意味あるものにしたいと思うようになれた。
現実はまだまだだけども、今の自分には胸を張れる人生があると思っている。
●出生時の異常
〜 五体満足満足ではなかった 〜
のちに母子手帳に書いてあった。
次男
早産児、極低出生体重児、一絨毛膜一羊膜双胎、
新生児呼吸窮迫症候群、動脈管開存、尿路感染症、慢性肺疾患
長男は、その後入院が半年以上続く事もあり、母子手帳への記載も無かった。
記載はなかったが、のちに、小腸閉鎖、ヒルシュスプルング病、髄膜炎、右耳の軽難聴など背負っていく事となる。
また、2人は身体以外にも発達の遅れがあり、2人揃って軽度知的障害とも診断される今がある。
あの日あの時、私が選んだ生命の選択は、我が子達にとって、結果的に多くの課題を背負わせてしまったのか…。私の生命に対する無知なピュアさは、本当に間違っていなかったのか。。
何かあれば排除していく事が幸せには絶対につながらない。
けれども、五体満足で産めなかった事を、
心から申し訳ないも思ってしまう自分がいた。
我が子達のような障害や病気を持って生まれてきた子にも、使命が必ずあり生をうけたと思うのに、心に浮かぶ感情は、真反対のような申し訳なさでいっぱいなのだ。
なんとも、矛盾した母親である。
●長男の手術
帝王切開での出産から翌日、長男の小腸をつなげる手術だった。
まだ子宮収縮や痛み止めの点滴をしたまま車椅子で、手術に行く時と終わった時、待機室で待った。
当時の自分はとても元気と認識していたが、
待っている間の待機室で目眩がして…、待機室から廊下に車椅子を出してと旦那にすごい勢いで頼んだのを覚えている。
手術が終わった我が子は、まだ手を握る事もできない低出生児用の処置ベットに覆われており、心拍を確認する音が病院の廊下に響いていた記憶しかない。
まだ意識がもうろうとしていた翌日。
きっと、一番この日不安や心配、突然昨日親となった夫が苦しかったと思う。
私の身体を気遣いながらも、医師から次々と2人分説明され、同意書にサイン。
本当に戸惑ったんだろうと思う。
産後ママを世間の人は、大事に思ってくれるが、
突然父となった旦那さんにも、もっと敬意を表するべきだと私は思う。
●我が子を抱かずに授乳
帝王切開の傷の痛みもある程度となり、入院中も退院に向けてのメニューをこなしていった。
私が出産した病院は、基本的に出産し問題がなければ、母子一緒で、授乳の時は授乳室に行き授乳の練習をする。
私は、我が子達は一緒にいなかったので、通常よりも母としての実感はまだ薄かったのかもしれない。
ただ、実感とは逆に自分の身体は初乳を出す準備をしはじめていた。
時間になると、授乳室にいった。
手元に子供がいない母親は、自らの手で用意された哺乳類に直接初乳をしぼり、それを冷凍しNICUに届けるのだ。
なかなか出ず、痛くてたまらなかった。
同じ時期に出産を終えたママさん達も、
それぞれの授乳のタイミングで授乳室にくる。
私「こんにちは。」
授乳室にきたママ「こんにちは。」
私「赤ちゃん、よく寝てますね。」
授乳室にきたママ「あら、なぜ注射器に授乳するんですか?」
私「通常よりも小さく生まれた双子なので、今NICUでがんばってくれてて、その場合は冷凍して持っていくらしいです。」
授乳室にきたママ「あっ、そうなんですか。。」
そして、それぞれせっせと自分の授乳に集中する。
お互い深い話をする訳でもなく、淡々と授乳と向き合う。
特に相手に対して特別な感情話をなかった。
自分にたいしてもだ。
すべてはじめてだから、こんな感じなんだと流れに身を任せてこなしていく。
ただ、今思うと私は母親になったんだと実感が湧かなかった。実感したいのに、我が子が抱けないので、戸惑っていたんだと思う。
母親になったからできる事をと、せっせとしていた。
でも、今思うと、そこから産後の孤独はあったのかもしれない。
●長男の大きな傷口
1日一回我が子に会いに、NICUへ。
まだまだずっと眠り続けている我が子に声かけて自分の病室に帰る。
…手術を終えた長男の傷口は思った以上に大きなものだった。
長男は、生まれて24時間も経たずメスを入れた為、傷口のない身体は一度も見ることはなかった。
大きな傷口と、生まれて数日で体重が減り1キロ満たない身体となった我が子達をみて、話しかけながらも…、どうしていいかわからなかった。
NICUという今まで縁をした事のない空間にいる自分。
そして、自分の知っている乳幼児とはあまりにも違う小ちゃな我が子達をみて、毎日我が子達の経過の説明を聞く。
話についていけなかった。
いろいろ言われても、知らない事ばかりで。。
でも、まだ手元にいないからこそ、実感もなく無知で説明されても、理解しきれない。
まだ自分も産後数日。
なんにも悩んでなかった。