・*はじめに*・
私は2年前に発達障害・自閉症スペクトラムと診断されました。
最近、発達障害者が増えていることから、”発達障害”という言葉を耳にしたり目にしたりするようになったと思います。
しかし、学生の発達障害者当事者のブログや体験談はあまり見かけません。学生・新社会人という一番悩む時期だからこそ、経験や体験談をリアルタイムで共有していくことの必要性を感じたこと、体験談やアドバイスを共有していくことで周りの発達障害への理解が少しでも進んだら・・・という期待を込めて、ここで発信・共有しようと思います。
また知的障害を抱える弟を持つ私にとって、相模原の事件はショックでショックでたまりませんでした。障害者、そして、障害者のいる家族への理解の輪がこれからもっともっと広がることを祈っています。
・*あらすじ*・
小さい頃から、発語のない弟を理解したい!と思うようになり、大学ではアメリカに渡り、脳神経科学・言語心理学を主に勉強し、今年卒業したところです。
私自身が病院で自閉症スペクトラムと診断されたのは2年前、大学を休学して日本で働いていた時でした。診断される前、様々な困難をどうやって潜り抜けてきたのか?そして、診断後、自分の特性を受け入れるまでについて書いています。
・*家族*・
小さい頃、母がよく泣いていたのを覚えています。
母が泣いていた理由を教えてもらったのは、私が小学校3年生の時でした。
それは弟が「知的障害を持っているから」でした。
その時、私が
「普通の兄弟のように外に遊びに行けないの?」
と聞くと、母は
「わからないけど難しいと思う」
私の目を見つめて、涙を浮かべながら言いました。
当時、私にはその現実の重みが当時あまりわかっていませんでしたが、何となくとても大変なことで、悲しいことなんだと理解していたように思います。
今でこそ分かりますが、私の両親もまさか自分の子供が障害を持って生まれてくるとは思いもしておらず、受け入れることは決して容易なことではなかったと思います。
そして、その頃恐らく弟の検診か何かで一緒に病院に行った時、誰に言われたのかまでは覚えていないのですが
「君は、お母さんのお腹で育って、いいところを全部取って生まれてきたから、弟くんが障害になったのかもしれないね。君は特別なんだよ。だから家族を支えてあげてね。」
と言われました。
その時、おそらく、その人はただ私に家族をサポートしてあげてねと伝えたかったのでしょうが、私のせいだったの?とひどくショックを受けました。
というものの、確かに弟には手がかかりました。
一人で食事もできないし、トイレにも一人で行けない、突然パニックになって泣き出したり・・・。
そんな両親の苦労を一番身近で見てきて、私が家族のためにできることは
「自立すること、そして、私のことで迷惑をかけないようにすること」でした。
なので、遊園地へ行ったり、自転車や一輪車を習ったのも家族ではなく友達や友達の家族とでした。時々、家族と行きたいなぁと思った時もありましたが、
あの時言葉を思い出して
「私はいい子じゃないといけない。弟の分も私が家族を支えなければいけない。」
と思い直し、一生懸命背伸びをしたように思います。
また、両親は忙しい中でも、両親は私がやりたいことを何でもやらせてくれました。
例えばパラグライダーや山籠りの修行、月1でキャンプなどなど・・・普通やらないような体験も率先して沢山させてくれました。
そういった体験や経験をさせてもらうことで、色んなバランスを保っていたのだと思います。
後々分かった事ですが、
両親は、私に色んな体験をさせることで、「弟が障害児だから」と引け目を感じたりせず、何事にも屈することなく、挑戦していく前向きな姿勢と自信を得てくれれば・・・と思っていたそうです。
実際、いろんな経験をさせてもらったことで私は怖いもの知らずでした。
弟と歩いていて、弟が奇声を上げて、周りの人に見られても
「ただ障害者を見るのが珍しいだけなんだなぁ」
と思ったり、
「障害者だから可哀想って思われてるだろうけど、私の家族はめちゃくちゃ仲良いし、幸せです。それに弟が生まれてきてくれたから、得ることも沢山ありました。私は弟の笑顔は周りを幸せにすると信じています。だから、可哀想と思わないでください。」
とまで思っていたりしました。
私の家族は弟がいることで、とても大変なこともたくさんありました。
けれど、弟がいることで家族が一致団結して、お互いを支えあい、思い合えたのだと心から思っています。私の家族に生まれて来てくれた弟には本当に感謝しています。
確かに小さい頃は
私の誕生日会に、弟が泣き出してめちゃくちゃになってしまったことがあったり・・・
正直、「弟のせいで!」と我慢したこともたくさんあって嫉妬していたこともありました。
しかし、いつしか
発語のない弟は毎日きっと我慢の連続で
私の何倍も伝えたいことが伝えられていないんじゃないか?
弟は話せないけれど、この家族に生まれてよかったと思ってくれているのかな?
などと考えるようになりました。
伝えたいことがうまく伝えられないのにも関わらず、
それでも私たちに笑顔を向けてくれる弟を思うと、頭が下がります。
そうして、弟の存在の大きさに気付いていき、発語のない弟の気持ちを理解したい!もっと弟が生きやすい社会を作りたいと思うようになりました。
・*学校生活*・
我が家は基本、自由な方針だったので、両親から勉強しなさいと一切言われたことはありませんが、勉強して、いい成績をとると両親は喜んでくれたり褒めてくれたりしたので、それなりに勉強しました。
しかし、
今振り返ると、私の能力の偏り・空間認識の弱さは顕著でした。
どう頑張っても空間図形の問題や天体に関する問題、とても苦手で何度やっても理解できず同じような問題をほぼ丸暗記して対応していました。
(私の一般職業適性検査: General Aptitude Test Battery: GATBの結果です。C:100が平均です。空間認識が著しく低いのが分かると思います。)
さらに中学・高校になって電車・バス通学するようになり、方向音痴でよく迷いました。
けれど、何となく友達についていって迷っても助けてもらったり、迷子キャラとしてネタにしたり、苦手な図形問題は得意な部分で点数を取ってカバーできていました。
その頃もまだ、弟がいるからこそ私がしっかりしなければいけない、私が迷惑をかけるわけにはいかないと無意識的に思っていて、あまり深く考えないようにしていたのかもしれません。
大学では、親元を離れて海外の大学(アメリカ)に進学したのですが、方向音痴でほぼ毎日迷子になっていました。キャンパスは広く、教室にたどり着くのが本当に大変でした。
それでもアメリカで脳神経科学の研究・勉強をして弟が少しでも住みやすい、家族が安心して暮らせる社会を作りたいと思って、必死に頑張りました。
そうしているうちに、私自身何かよく分からない目に見えない困り感・しんどさを抱えるようになり、パニック発作が起きるようになっていました。とにかく走り続けないといけないという強迫観念に近いものがずっと私を付きまとっていました。
さらに、両親が弟に手がかかって忙しい時、初孫の私をとても可愛がってくれていた祖母が亡くなったショックが重なり
日本に一度帰国し大学を休学してインターンをすることにしました。
・*休学*・
日本に帰っても、最初はテクノロジーで効率的に誰もが住みやすい社会作りができないだろうかと東京にあるIT系の会社でインターンをしていました。
しかし、東京の通勤が思った以上に苦しく、パニック発作、特にバットで殴られるような頭痛が激しく頻繁に起こるようになり休息が必要だと言われたこと
また、一度ちゃんと立ち止まって
「家族の幸せ・自分の幸せ」に向き合って、きちんと考えたいと思い、実家に戻ることにしました。
実家で亡くなった祖母の生前の日記を読んでいると、
「孫に会いたい」と書いてありました。
涙が止まりませんでした。
家族の幸せを思って大学留学して頑張っていたけれど、死に目にも会えず、ずっと会いたいと思ってくれていたのに会えなかった・・・
私の選択は間違っていたんじゃないか?
何度も自分を責めました。
「もっと頑張らなければ!」
「もし会えていたら、祖母のために何ができていただろう・・・?」
そうして、その時、ITも大事だけれど、もっと物理的で直接的なわかり易い形の経験が
今の私には必要だと思い、介護施設で働くことにしました。
・*介護施設*・
そこで現実を突きつけられ、自分の出来なさに愕然し、絶望しました。
忙殺されるような業務内容でマルチタスク、メモを取る時間すらないので聞き取って優先順位をつけてすぐ行動する、利用者さんの表情を読み取って介護する、利用者さんの移乗、病室回り。
アメリカの大学に通っている大学生が休学して、いきなり介護施設で働き始めるという他人から見れば謎すぎる行動だと思うのですが、
事情を説明すると、分かって下さり、
職員さんや一緒に働いていた方々は、社会経験がない私を優しく受け入れてくださり、丁寧に指導してくださいました。
「不慣れでご迷惑をかけている!」と思い、
一生懸命率先して仕事をしていき、タスクを学んでいきました。
介護職自体は好きでした。
いつも弟の面倒を見ていたことが活かせる仕事でもあったからです。
例えば、靴の中に石が入っていないかを確認してから、弟に靴を履かせたり、
水を入れたコップを渡す時、コップの取っ手を必ず利き手の方にして渡したり・・・
弟のおかげで身についた癖が介護職ではとても役に立ちました。
しかし、
個室を回ったり、備品用具を取りに行ったり・・・・
それらの場所へは施設内で何百回も行ってるのにも関わらず、何度も迷子になり、たくさんの方々に迷惑をかけてしまいました。
介護職が大変なのを差し引いても、道を覚える努力は人一倍しているはずなのに全く出来ず、
「なんで?」
ここで私の空間認知能力はやはり異常だったのが明白に分かりました。
しかし、努力すればきっと出来るようになる!乗り越えられるはず!と必死に食らいついていました。
が、ある日仕事場で気づくと過労で倒れていました。
それからドクターストップもあり、休職させてもらい、家で落ち込み続け、パニック発作に耐えていましたが、もう無理だ・・・と思い、母に打ち明けました。
・*診断*・
本当は私自身、パニック発作が始まった頃から分かっていたのです。
特に私は脳科学を専攻していたから、発達障害に遺伝関係があることも知っていました。
しかし、私が自閉症だと両親が将来を悲観してしまうんじゃないか?と思ったりして考えないようにしていました。
クリスマスイブの日、知能検査を含めた発達障害の診断のための検査を受けました。
それは明らかでした。
空間認知能力の問題の出来なさは特にひどく、サンプル問題ですらも解けませんでした。
あまりの出来なさに正直ショックを受けましたが、
後日改めて、正式に自閉症スペクトラムと診断されて
「あぁやっぱりか・・・」と少し気持ちが楽になったのを覚えています。
・*診断された直後*・
診断された直後は、確かに「ああ、やっぱりそうだった」と安心しました。
しかし、診断されたからと言って、特に変わることはなく、魔法の薬もありません。
診断されても今ある問題は変わりません。
診断されてホッとしたのと同時に、これからこの苦手さをずっと感じて生きていかなければいけないことに対して、絶望感でいっぱいになりました。
また、診断されてからの3日間は
一気に「障害者」という重い現実を突きつけられ、不安が襲いました。
なんて最低な人間なのだろうと思うのですが、障害者である弟を助けたいと言いながら、自身が障害者になることに対しては恐怖心があったのです。そんな自分が情けなくて、悲しくて、自分を責めるほかありませんでした。
さらに、
自閉症スペクトラムの過半数は統計的に、就労するのが難しいというデータがあります。
「私は1人で生きていけるのだろうか?」
「就職できたとしても、普通に働けるのだろうか?」
「通勤は無理じゃないか?」
「将来、両親が亡くなって、私は弟をみながら、自分のこともやっていけるのだろうか?」
一気に将来が不安になりました。
診断されたことで、当事者になったことで、一気に数字やデータがリアルに感じました。
しかし、「不安になっても、何も変わらないじゃないか」と思い、
その3日後には
自分のできないこと、パニックになりやすい要因を見つけるために
”当事者”の視点で自閉症・アスペルガー関連の本を読み始めました。
立ち直りの早いせっかちな性格にこの時だけは感謝です。
・*気づき*・
今まで見えていなかった様々な認識のズレが少しですが見えるようになってきたように思います。
たまに自分が自閉症スペクトラムであることを打ち明けたりしていますが、
私は人と話すことができるし、周りから見ても一瞬では私が自閉症であることは明らかには分からないでしょう。
しかし事実、特に私の苦手な部分である空間認識に関しては、新しい場所に行く時、ものすごく恐怖や不安を感じますし、それが原因でパニック発作になることもあります。
そういう意味で、目に見えない障害に対してリアルに感じられることができ、そういうような視点を持って考えられるようになった気がします。また、改めて、みんなそれぞれ抱えているものが各々にあるという前提で話ができるようになった気がします。
正直、診断されてからも、受け入れようと思ってからも、
「なんで私が・・・こんな苦手なんてなかったら!」と思うことも何度もありました。
例えば、面接よりも面接場所にたどり着くことへの不安が大きかったり、就職活動でも一番行きたかった会社に内定をもらったものの、出張が多いと聞いて断念することになったり。今でも悔しい思いをすることもないわけではありません。
しかし、
嘆いても落ち込んでも、何も変わらないし、
何よりも私のことを私と認めてくれている家族や友人のサポートを無駄にすることにもなるし、
結局、自分は自分でしか納得させることはできません。
私が私でいることには変わらない。
むしろ、診断されたことで自分のことがもっと分かったような気がします。
・*診断されて 受け入れること*・
診断されて、自閉症という自分の一面を知ったことで
新たな自分の取り扱い説明書を手に入れ、少し生きやすくなったのだと思うようになりました。
私にとって発達障害は
「簡易な自分の取り扱い説明書」であり、少し生きやすくするためのものだと思っています。
また、この葛藤を通して、弟のことがもっと理解できたような気がしているし、当事者になったことで同じ視点で障がい者支援ができることは良かったと思っています。
人と違うところを持つのは新たな発見があり、ユニークな体験であり、私の強みだと思っています。これで得た経験や新たな視点は価値があるものだと思うし、私自身の強みになると信じています。
今ようやく、ありのままの全ての自分自身を受け入れ、自分なりに楽しんで生きている気がします。
今まであまり自分のことが分からない状態で全力疾走していましたが、今いい感じで肩の力を抜いて一歩一歩、少しずつではあると思いますが、着実に進めているような気がしています。
今月大学を卒業して、もう少しで新社会人になり、
これからも困難なことはあると思いますが、
少しでも障害者への理解が進むように、誰もが安心して暮らせる社会を作るため
両親をはじめとする友人や周りのサポートしてくれる方々に感謝しながら、
精一杯頑張ります。
これが今の私の気持ちで、診断される前とされてからのリアルな体験談です。
*今後アメリカの大学の障害者支援のプログラムなどシェアできたらと思います。障害があってもなくても留学は可能だということを伝えていきたいと思っています。