父の葬儀の時、喪主の挨拶で私は不覚にも号泣しました。参列して下さった方は、よほど悲しかったのか?それとも、よほど申し訳ない事でもしたのか?とでも思ったのではないでしょうか。
しかしそうではありません。「感動」と「嬉しさ」と「感謝」の涙でした。
人は一編だけなら、どんな人間でも小説を書けるといいます。問題は、それが傑作か?駄作か?
このストーリーは、名も無き大工。本田八郎の物語です。なかなかの傑作と私は思います。
私が、父八郎のヒストリーを考えるようになったきっかけは、葬儀を行ってくれる福島県三春町の福聚寺に葬儀の打ち合わせに行った時からです。何時から葬儀をやって、いつ火葬場に行って。とか、喪主はこうしなさい。などと打ち合わせをする物だとばかり思っていましたが、違いました。
住職である玄侑宗久さんは以前から親交があります。芥川賞作家でもあり、福島県の震災復興委員もなさっている方ですので、ご存知の方も多いと思います。その宗久さんに聞かれたのは「八郎さんはどんな父親でしたか?」「どんな少年だったのでしょうね?」「仕事の事でのエピソードは?」「そういえば今年の正月に、餅を入れる箱を作って貰ったんですよ。それから、本堂の前にある腰掛も八郎さんが作ってくれたんです。それでね、お金を払おうとしてもほとんど材料費しか受け取らないんですよ」
そんな雑談のような話をしました。戒名を考える為、故人や遺族が喜ぶ戒名を付けるために色々な話をするのかな。と思いつつ父の人生を一から振り返る切っ掛けになった訳です。
「起・少年時代」
八郎は、昭和8年に8人兄弟の末っ子として9月15日の敬老の日に生まれました。当時は8人兄弟はさほど珍しい事ではなかったと思いますが、8人全員男と言うの珍しいのではないでしょうか?育ち盛りの頃に戦争、戦後だったため、兄弟では一番背が低く、奨学生の頃に父を、中学生で母を亡くし、一番上の兄が親代わりでした。この時代は皆そうだったかもしれませんが、当然のように貧しく、学校に行きたくても行ける環境にはない。そんな中でも明るく、年下の子供たちの面倒を見る少年時代だったと聞きます。川で泳いだり、山を駆けまわったり、そんな経験が80歳まで一度も入院した事が無い丈夫な体を作ったのだと思います。そして中学を出ると大工の修行に東京へと出る事になりました。
「章・青年時代」
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