16/6/18
【第42話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。~最終話まであと5話~

今回のいたずらの一件で、上の子に対してはまだもう少し泳がせようと思った。
自分で善悪の判断をしてほしかったし、間違ったり道を踏み外したとしても、まさか犯罪者になるほどではあるまいと、確信したからだ。
今しかできないいろいろな経験を、出来る限りやらせてあげよう、いざとなったら助けてあげられるように準備だけして、その時は手を差し伸べてやればよい。
男の子だ、自分の人生くらい自分の力で切り開いてくれるに違いない。
時間はかかるかもしれないけど、やっぱり信じようと決めた。
下の子に関しては、相変わらずなんのコンタクトも無く、母親からの連絡も無かった。
家出をしてから2カ月が過ぎようとしていて、街はすっかり秋の気配。
今年もそろそろ終わるけど、きっとこのままでは3人での年越しは難しいなと思い始めていたとき、予想もしていなかった出来事が起こった。
自宅の郵便受けなど滅多に開けない僕が、何日にかに1度の郵便物チェックの日、見知らぬ茶封筒が入れられていることに気が付いた。
その茶封筒はA4サイズの用紙を三つ折りにしてぴったり入る大きさのもので、厚みもなかなかの物。
あて名は間違いなく僕の名前で、住所も間違いない。
差出人は、水戸にある家庭裁判からで、見知らぬ差出人にいささかの不信感と、不安をぬぐいきれずに封を開けると、中には何枚かの紙が。
よく見てみると、こう書かれていた。
「親権者変更による調停の申し立て」
親権者変更?調停の申し立て?
離婚協議の時に調停をした時にも、確か同じような用紙をいただいた気がする。懐かしい気もする調停申し立ての意見書には、申し立ての理由が書かれていた。
「子供を育てるうえで、福祉上問題がある」
申立者は母親で、親権変更の対象者は下の子になっている。
中学2年生になっていた下の子は13歳。自分の意思が尊重される年になっていた。
急に何の前触れもなく送られて来た、親権者変更の申立書。
何かの間違いではないのかと目を疑ったのだが、どう見てもこれは、お弁当箱とは違い何かのいたずらというわけではなさそうだ。
だとすると、今になって、このタイミングで、下の子だけの親権者変更の調停を申し立てた、ということなのだろうか。
下の子が家出をしたからと言って、その原因は大したことではない。よくある親子の、それも思春期の子供とならなおさらで、どこの家にでもある食い違いではないか。
母親の方とはあまり連絡を取ってはいなかったけど、それにしても10年もほったらかしにした挙句に、いまさら親権者の変更の調停など、しかも、その理由が福祉上の理由である。
あたかも、僕が子供たちを虐待しているとでも言っているようではないか。
思い当たる節がない。
福祉上の理由・・・虐待・・・
口に出して言ってみるものの、なんの実感も無い。
仮にそれらの事柄が僕やこの家にあるのだとしたら、なぜ下の子だけなのか、なぜ10年ほったらかしにしたのちの今なのか。
上の子は引き続き僕が育ててこの家で暮らしていても、福祉上問題はないということなのだろうか。
「子供たちの面倒を見ることはできません」
と言って居なくなった母親が、いまさら親権者の変更など聞いてあきれるわと一笑に付したのだけれども、もしこれが現実に起きたことで、いたずらでもドッキリでもないのだとしたら、このまま放っておくことは出来まい。
国家権力である家庭裁判所からの呼び出しに応じないということは、出廷できない理由があり、且つ申し立ての内容を認めると言っているに等しい。
まずは、この申し立ての真偽のほどを確かめなければなるまい。
茶封筒表面下部に書かれていた裁判所の電話番号に電話をかけ、担当者だと書かれた名前の人物を呼び出した。
「すみません、ちょっと確認したいことがあるのですが」
この申し立ての件を確認してみたのだが、確かに母親から親権者変更の調停申し立てが出されています、ということだった。
「いや、でも10年も子供たちと接してなくて、僕が育ててるんですよ、10年。なぜ福祉上の問題があるなんてこと今更言われないといけないのでしょうか」
そう問いただしてみたけど
「私に言われても困ります、当日調停員にお話しください。それでは来週の金曜日ですけど、お越しになられるということでよろしいでしょうか」
と言われる始末。
一体、何がどうなっているんだ。
なんで今更こんな目にあわされなければならないのか。
今までの苦労と、自分の人生で失ってしまったものと、否が応でも乗り越えなければならぬ困難の数々が、どうしても釣り合わないような気がしてならなかった。
生活がある程度軌道に乗って、そちらの悩みが少し減ったと思ったら、今度はこっちか。
降ってわいてくるような数々の困難に、ほとほと嫌気がさしてきた。
いつになったら終わるんだ、いつになったら落ち着くんだ、いつになったら報われるんだ。
一体いつになったら、心穏やかに、誰とも揉めることなく生きていくことが出来るのだろうか。
ふと、調停になど行かずにこのまま知らぬふりを決め込もうかと、そんな考えも首をもたげるのだが、やっぱりそうはいかない。
下の子の人生を考えた時に、一人だけ親権を変更することによるメリットが、全くないように思えた。
下の子に関して言えば、逃げて逃げて逃げまくった挙句、引くに引けなくなっている様子は手に取るようにわかる。10年も一緒に暮らし、普通の人では考えも及ばないほどの苦労を共にし、辛いときも苦しい時も、一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に生きてきたのだ。
これが、真意でないことくらい、僕にはわかる。
だとしたら、やはり助けてあげなければなるまいと、思うのだった。
ケンカして出ていった下の子だったけど、生意気な態度をとると憎たらしくてイライラするけど、僕にとっては、2人の子供たちは人生そのものと言っても過言ではない。
自分の人生と引き換えに育てた2人の子供のうち1人を失うということは、僕の人生の半分を失ったに等しい。
いくらなんでも、それはあんまりだ。
なぜ今更こんな仕打ちをされなければならないのか、これは僕の生き方そのものを否定されたと同意である。
今は意地を張って分からないことがあっても、成長を重ね大人になるにつれて、いずれ分かることもある。その時に、自分ひとりだけが肩寄せ合って生きていた家族の一員でなかったとしたら、それは下の子のこれからの人生にとっても、大きなマイナスに違いない。
「3人で力を合わせれば」
そう、どんな時も言って聞かせたのだから。
何をもって「福祉上問題がある」と言っているのか分からなかったけど、実際、10年間一人で子供を育ててきたわけだし、確かにお金は無かったけど、虐待の事実などあるはずがない。
下の子の自分勝手な物言いを、鵜呑みにしているに過ぎないのではないか。
調停に出廷し、事実関係を説明すれば分かってもらえるに違いないと、そう信じていた。
そして下の子も、これに懲りたら帰ってくるだろう。
家に帰るきっかけをつかめずに、母親に気を使った結果のような気がした。
はっきり言って、調停など1回で終わると思っていた。その理由は、申し立てに書かれているような事実がないから。
10年前に訪れた時と同じ、裁判所4階の調停室に向かい、事務所で名前を告げると番号の書かれた札を渡された。
申立した側とされた側が顔を合わすことがないように、長い廊下の端と端に分かれて部屋がある。
その中央に調停室があり、交互に呼ばれて3人いる調停員に主張を聞いてもらい、事実関係を明らかにしていく。
調停自体は2度目だったので、勝手は分かっていた。
金曜日の午前中にセッティングされた調停のために、仕事の休みを替わってもらった。
貴重な仕事の休みを、こんな不毛な話し合いに費やさねばならないことは、痛恨の極みだった。
細長い小さな部屋に、長椅子が4つ。
申し立てされた側の部屋に入り、背もたれも無い椅子に座った。
面白くもなんともない雑誌が数冊無造作にラックに入れられていて、ブラインドの下ろされた窓の隙間からは、水戸の街並みが見えた。
部屋の窓の下には業務用の暖房器具が置かれていたけど、スイッチは入っていなかった。
窓から見える景色は、隣のビルの側面と、色づいた葉が揺れる銀杏。
音のないこの小部屋は、僕をとつもなく憂鬱な気分にさせた。
「番号が呼ばれるまで待っていてください」
そう言われたけど、今ずぐ家に帰りたい気分だった。
目の前にあった雑誌を手に取ったが、読むに値する記事はない。すぐにラックに戻し、壁にもたれかかり目を閉じた。
10時30分からの予定は、申立者が先に話をするためのもので、調停自体は10時から始まっている。
申立者である母親の主張が長引いているのか、携帯の時計は10時40分になっていた。
待たされることは好きではないけど、仕方がない。
さらに5分程度時間が過ぎ、入室してきた年配の女性に番号を呼ばれ、調停室へと向かった。
調停室には大きなテーブルが1つあり、広く切り取られた窓のおかげで明るい印象を受ける。
3人の調停員は男性が2人で女性が1人。
テーブルをはさんで向かい合うように座り、僕の左側面には記録係兼進行役のような女性が一人座っていた。
面倒くさかった。
こんなところで事情を一から話すのが、面倒だった。
よく考えてみれば、今までだって僕たちの生活の状況を誰に説明してみても、一向に伝わったためしなどない。どうやって話せば、どの切り口で話をすればより理解してもらえる可能性があるのか、ここ数日間で考えてはみたのだけれど、全く思いつかずに一向に考えはまとまらなかった。
調停員から名前を呼ばれ、住所と職業を聞かれた。
間違いがないことを確認し、申し立ての内容の趣旨説明が行われる。
封書でもらったものに書かれていたことと同じ内容のことを、調停員はもう一度僕の前で読み上げた。
「ということになっておりますけど、何か間違いありますか」
3人並んだ中央に座る初老の男性が言った。
くすんだグレーの背広にノーネクタイ、白髪交じりの髪に深く刻まれた皺。
何もかもが気に入らなかった。
「何か間違いありますか」だと。
ばかばかしくて、反論する気にもなれない。
何をどのようにどの順番で話せばよいのか、苛立つ頭を整理するために、両手で顔を覆い目頭を押さえて深呼吸した。
「大丈夫、落ち着け」
何に対するものか分からぬ怒りが込み上げ、気分は最悪だった。
「申立人が言っていることに対して、すべて事実ではありません。事実ではないということを証明するために今日は来ました」
淀みなく言えたことで、言葉が堰を切ったようにあふれ出す。
それは10年もの間、言いたくても言えなかった、誰にも聞いてもらえなかった、誰にも伝えることが出来なかった思いがあったからに違いない。
離婚するに至った経緯から、子供を引きとることになったいきさつ、この10年間の暮らしと母親との関係、子供たちの性格や成長過程の行動、下の子が家を出るきっかけ、その後の展開。
言いたいことは山ほどあったけど、言いたいことが多すぎて、支離滅裂だったに違いない。
一から筋道立てて話すなど不可能に違いなかったけど、何が間違っているというのか、これのどこが間違っているというのか、否定できるなら否定してみろと、そう思っていた。
あふれる思いをつたない言葉で追いかけてはみるのだが、どうしてもこの10年で起こった出来事を、他人に分かるように、経験していない人でもわかるようにリアリティーを持たせて話すことは難しい。
10年の積み重ねが説明できなければ、この状況に至る経緯も真実味が増すことは無い。
それが出来ない僕の人生は、一部分だけを切り取ることだけでは、説明の仕様がなくなるほどに入り組んでしまっている。
切り売りされた人生は、子供のころふざけて作った福笑いのように、いつしかいびつな顔をした滑稽なものになる。
順を追って説明してみたつもりだったけど
「すみません、お父さん。今回の件のみでご説明いただけないでしょうか」
と言われてしまう。
今回の件って言われても、どこからのことなのか判断できなかった。
自分の顔にとりあえず他人の顔のパーツを張り付けてしまえば、一見顔としての体はなすかもしれないが、それは本来の自分の顔とは程遠い。
ポイントだけを強調して説明すると自意識過剰になり、一部分だけを切り取ると意味不明になる。
調停員として座る2人の男性は、そもそも父子家庭という存在自体を理解していないようで、福祉上問題があり、下の子を虐待しているという申し立て内容に関しては、このような解釈だった。
「元奥様がおっしゃるに、あなたはお子さんにご飯を食べさせていないようですね、それに関しては虐待と取られても仕方がないのではないでしょうか」
ご飯を食べさせないという一部分だけを切り取れば、確かにそういう見方も出来なくはない。
僕にとってはそこに至る経緯を知ってほしいわけで、下の子にだけあえて、ご飯を食べさせないわけではない、ご飯を食べさせないということが目的なのではない。
ご飯を食べさせていないという申し立ては、ある一部分にすぎず、そうなるに至る過程については、どこまでさかのぼっても説明できるような代物ではなくなってしまっている。
「ご飯を食べさせないというのは、事実ですね」
たたみかけるように初老の調停員は僕に詰め寄ったけど
「事実ですけど、事実ではないです。そうなる経緯を、過程を、生活環境を説明させてください」
と言うのが、精いっぱいだった。
時間がなさ過ぎた。
持ち時間は1回30分。それを数回交互に繰り返し、お互いの主張を精査して真実を導き出すわけだが、1回目の持ち時間は、そんなこんなであっという間に終わり「もう一度元奥様をお呼びして、その後もう一度お話を」と言っていたけど、とてもそんな気力は残っていなかった。
「今日は気分が悪いので、次回にしてください。もう家に帰って休みたいです」
そう告げて了承を貰い、次回の出廷の期日を決めた。
駐車場に向かって車に乗り込みエンジンをかけた。
「どこまで俺に迷惑かければ気が済むんだ、あいつらは」
誰に言うことも出来ぬ愚痴がこぼれた。
長引くんだな、この調停は。
そう思わざるを得ない結果だった。
物事を説明するにはどうしても順序が必要で、筋道立てて話を組み立てなければ、相手に伝わることは無い。それは、どんなことに関してもそうだと思うのだが、相手に伝えるために立てなければならない筋道が入り組んでいて、うまく整理できない。
今までだって、関わった人たちにどうにか分かってもらおうと、いろいろと試してみたけれど、分かってくれた人などいなかった。
そして、みんな僕から離れていった。
ついに下の子までいなくなり、10年ぶりに再会のおぜん立てをした母親には親権変更の申し立てをされている。その理由が、僕の虐待というあらぬ言いがかりによるところも納得できなかったが、高校2年生になる上の子は毎日好き勝手に遊び歩いているし、仕事もしなければならないし、親の仇のごとく山積みされる洗濯物と格闘し、学校に呼び出されれば仕事帰りや休日に出向かなければいけないし、残りの休日も不毛な調停の話し合いに充てられる。
ストレスはピークだった。