16/6/17
【第41話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。~最終話まであと6話~

今までも、週末ともなればお兄ちゃんと連れ立って母親の家に泊まりに行くことはしばしばで、様々なものを買い与えてもらっているようだった。
それは知っていたけど、そこまで口出しするのも僕の流儀に反するわけで、子供達には自分で考え、自分の意思で行動してもらいたいと常々思っていたのだ。
下の子が自分で決めたのか否かは判断できなかったけど、母親が僕の前に直接現れることは無く、ある日、僕が仕事に行っている間に一緒に家から荷物を運び出し、それっきり下の子は家に戻らなかった。
母親の暮らす街は隣町の水戸で、家から歩いて5分のところに中学校があるにもかかわらず、母親に引き取られ、下の子は隣町に消えてしまった。
なぜ母親の家で暮らすと言い出したのか、その真偽のほどは定かではなかったけど、僕との関係を修復するのは困難で、やりたくないことをやらされるかもしれないリスクを冒してまで、ここにとどまる意味がないと判断したのかもしれなかった。
もしかすると、それほど考えもせずに決断したのかもしれない。思春期特有の無鉄砲さでいい感じに逃げ回りたいと思っていただけかもしれない。
単に楽な道を選んだんだのだろうと思ったけど、そう考えたくはなかった。
家を出ていく下の子の気も知れなかったけど、今更下の子だけを連れて行ってしまう母親にも理解できなかった。
それでもまだ「まあいい、そのうち飽きて帰ってくるだろう」そう考えていた。ほとぼりが冷めたら、母親の方も下の子をここに戻すのだろう。
こうして、いつの間にか3人暮らしだった僕たちは、一瞬家族の形態を変えたことをきっかけにして、どんどんと家族からの離脱者を増やす結果となり、相変わらず僕から金を借り、夜な夜な遊びまわる上の子との2人暮らしが始まった。
そんな中、上の子はバイトに明け暮れ、原付バイクを購入した。
バイクを購入するにあたって、僕は1円の援助もしなかった。そもそも原付に乗ることに反対だったし、そのうち車の免許を取得できる年齢になるまでしか使い道のない原付を買うということと、判断の甘い、ましてや糸の切れた凧のような暮らしを続ける思春期真っただ中で、もはや怖いもの知らずの上の子が原付に乗るという不安定さを危惧していたからだ。
親だったら、誰しもそう思うであろう忠告を、上の子は全く聞かなかった。
それまでも好き勝手に2年間ほどの時間を過ごし、一人で生きて行っているような錯覚も大きくなっていたのだろう、今更親の忠告など聞く耳を持たなくなった上の子は、僕には何の断りもなく、免許取得のために数回に渡り教習所に通ったらしく、その後勝手にどこからか原付を購入してきたのだった。
内心あきれていたのだが、年頃の男の子2人、それでなくても下の子との関係に気をもんでいる状態だったので、聞く耳の持たぬ上の子に関わる暇がなかった。
もう高校生なんだし、それなりに善悪の判断はつくのだろうと、一抹の不安はぬぐいきれなかったが知らぬふりを決め込むことにした。
「勘弁してくれ、どいつもこいつもいい加減にしてくれ」
本当はそう思っていたから、上の子の暴走を止めることをしなかったのかもしれない。
疲れていた。
父子家庭になってからというもの、様々な問題がわが身に降りかかるたびに、ストレスと格闘し疲れ果ててしまう。
もう、いい加減うんざりだった。
みんな好きにやればいいと、投げやりな気持ちが無かったわけではない。
大人になりつつある子供たちを前にして、いよいよこんな暮らし止めてしまいたいという欲求が、僕の中にもどうしようもないほどに膨らんでいた。
原付バイクの購入に気を良くした上の子は、弟の家出などどこ吹く風で、行動範囲の広がった遊び場で、自分勝手な青春を一層謳歌した。
40分かけて自転車で学校に通っていたのに、原付なら10分。高々の利便性向上を求めた挙句、さらに生活態度は悪化していった。
夜遅くまで遊び歩くのは相変わらずで、わずか10分で行けるようになった学校に通うために、朝は遅刻すれすれまで睡眠し、朝ご飯も食べずにお弁当だけを持ちバイクに乗って学校に通った。
バイク通学禁止の高校だったので、学校近くのアパートの駐輪場に無断駐車をし、そこから徒歩で学校へと行き、あたかも電車通学を装っての登校スタイル。
歯止めのきかなくなった青春は、とどまるところを知らない。
そのうち学校など遅刻の常習犯となり、1日学校に姿を見せないなんて日も、増えていった。
バイクに乗って、本来学校とは反対方向の水戸に行き、昼間から遊び歩く。
悪い友達とつるんで、やりたい放題だった。
それでも僕は何も言わず、ただただ毎日お弁当を作り続けた。どこで食べているのかは知らないけど、お弁当は毎日空になって返ってきた。
今さらごちゃごちゃ言っても仕方ないし、聞くとも思えない。下の子の家出で悩みが増えただけでなく、上の子の生活態度の悪化。
もはや万策尽き果てた感は否めずに、嫌々ながらも静観の態度を貫いた。
そうは言っても、高校くらいはちゃんを卒業するくらいの器量は持ち合わせていて、上の子は上の子なりに考えて生活しているのだろうと、それでも信じることにした。
そう思わなければ、生きた心地がしない。
奥さんと揉め、奥さんの実家と揉め、下の子と揉め、上の子と揉めるのは時間の問題だったけど、それはそれで仕方ない、上の子も母親のところに出ていくというのであれば本人の意思に任せよう、そう思った。
どうしても目に余る態度や行動があった場合は、遠慮なく上の子にも言ってやろうと思うことで、多少精神の安定を保っていた。
どこかで手綱を引き締めなければならない時期に差し掛かっていることは、理解していた。
思春期真っただ中、やりたい放題の17歳に小言を言ったら、間違いなく揉めるだろうことは分かっていたけど、分かってもらえないのだとしたら仕方がない、もはやここまでだったのだと、諦めようと決めた。
ここにきて、この10年近く続けてきた父子家庭生活、いや、子育てそのものを止めたいと、切に思っていた。口では言い表すことのできぬ感情がこみ上げ、悔しいやら悲しいやら、思い通りにならない人生を、恨んでいた。
なぜ、ここまでして頑張ってきたのだろうか、いったい自分は何をやっていたのか。
10年という途方もない時間が、無情にものしかかる。
もう無理だ、止めたい。
日に日に感情は膨れ上がり、このままみんな僕の元からいなくなってしまえばいいと、考えていた。
そんな感情とは裏腹に、出て行ってしまった下の子のことは毎日気がかりで、高校受験の大事な時期なのに、こんなことをしていていいのだろうかと心配になった。
親ごころという物は、複雑だ。
下の子を家に連れて帰ることは簡単だったかもしれないけど、詫びを入れるまでこっちから連絡は取らないでおこうと決めた。反省し、改心し、素直な気持ちで詫びることが出来なければ、恐らくここから先に進むことはできない。
中学2年生の彼にとって、それは簡単なハードルではない。
下の子が出ていき1カ月が過ぎたけど、一向に戻る気配はない。
学校には行っているような感じだったけど、どんな暮らしをしているのかはわからなかった。
上の子との2人暮らしも慣れてきて、朝ご飯とお弁当は作ったけど、晩御飯は数日に1度作ればよくなり、自由な時間が増えた。
自由な時間が増えたからといって、今更何をして良いかなど分からなかった。
10年もの間、子供たちを育てることのみに全神経を集中し、自分の許す限りの時間を使って子供たちのためだけに生きてきたと言っても、決して過言ではない。
好きなこともやりたいこともせず、ただひたすらに子供たちの生活だけを考えていたから、今更一人にされても、どうやって生きていけばよいのか分からなかった。
時間を持て余すだけで楽しいことなど何一つないし、やりたいことも思いつかない。
子供たちの成長を喜ぶ暇もなく、共に過ごす時間もあまりなかったけど、家にすら戻らなくなってしまったら、顔を合わせることさえなくなってしまった。
一人で好き勝手に振舞う子どもたちとは別に、僕だけが置いてけぼりを食らわせられたようで、戸惑っていた。
子供たちを育てるために失ってしまった物があまりにも大きくて、それらを埋める術を知らない自分に、今更ながら気が付いたのだ。
そういえば、自分の人生など考えたことも無かった。
父子家庭になって子供たちを引き取り、一人で育てると決めてから、自分の人生など子供たちにくれてやると、そう思ったのだ。
自分の人生などどうなっても良いと腹をくくらなければ、とてもここまでたどり着くことは出来なかっただろうけど、自分の人生という未来と引き換えに手に入れた現実は、あまりにもみじめで納得しがたいものだった。
ある日突然娑婆に放りだされた囚人のように、突然わが身に訪れた自由を、持て余していた。
自由と言っても、やらなければならないことはまだある。
お弁当を作り、掃除洗濯をして、お金を稼ぐ。
これらは引き続きやらなければならなかったけど、一時に比べたら、多少の小銭もある、家事や育児のコツもつかんだ、時間もうまく使える。
いつかこれらもすべて、僕はその役割を終えるのだろう。子供たちはいずれ自立し巣立っていく。そうなった時にあたふたしないように、これからは自分の人生をしっかり考えなければならないと思い始めていた。
まだ僕だって41歳だ。
多少毎日のプライベートにおける仕事量が減ったおかげで、すっかり怠け癖がつき、毎朝のお弁当作りがとても面倒なものに思えてきた。お弁当さえなければ、あと1時間は多く寝ていられるし、お金もかからない。
一度楽を覚えるとずるずるとそちらに流されてしまうこの傾向は、上の子の原付と同じだった。僕だって、人のことを言えた身分ではない。
慣れてきたとはいえ、朝5時に起きて作るお弁当は憂鬱だった。
上の子は相変わらず人の苦労も知らないで、毎朝必ず当然のように作られてあるお弁当を持って学校に向かう。
原付のおかげで寝坊の常習犯となり、作って置いておいた朝ごはんには一切手を付けずに出かけることもしばしば。
報われない感が半端ではない。こっちは朝の5時から起きて作っている。
ましてや、自分が食べるわけでもない食事をだ。
一体誰のために朝も早くからこんなことしているのか、少しは考えてもらいたいものなのだが、そんなことを考えてくれる気配はみじんもない。一向に報われることのない子育てに苛立ち、思春期と反抗期のダブルパンチで苦しめられ、感謝のかけらもされることのないお弁当を作る。
理不尽ではないのか。
自分の人生と引き換えに手にれた現実がこれでは、あまりにも理不尽すぎる。
だからと言ってお弁当作りを止めるわけにはいかない。下の子が高校に行くのかどうかは分からないけど、2人とも高校3年間は休まず手作りの弁当を、どんなことがあっても作ろうと決めていた。
3年間休まず作り続ける手作りのお弁当が、いつか必ず子供たちの心に響くときが来ると信じていたし、そうであってほしいと、切に願った。
今は分からなくても、この記憶は彼らにとっても思うところが大きいに違いない。そう信じて作りつづけた。
それにしても、毎日張り合いがない。
男の子ということもあるけど、男子高校生が望む弁当など肉一辺倒の茶色一色であり、彩りに野菜など入れようものなら、スペースの無駄だと言われる有様。
変化がほしい、お弁当を作る楽しみというか、リアクションが欲しいのだ。
小さいころは、貧しいなりにも僕の作る毎日のご飯を「おいしい」といって食べてくれていたけど、ここのところ、顔を合わす機会すら減ってしまった。
幼かったころの面影と、朝早くから起きてせっせと作り、持たせるお弁当が感謝もされなくなってしまったという日常が、感情的にどうしても相いれないのだった。
子供たちにご飯を作るのは、楽しかった。
喜んで食べる子供たちの顔を見るのが、何よりの楽しみだった。
それが生きるというモチベーションであったことは、今更言うまでもない。
だから、自分の食事を摂らなくても、どんなにお金がなくても、子供たちにご飯を作り続けることが出来たのだ。
あの頃のように、僕の作ったご飯で楽しい思い出や、家族の絆やつながりみたいなものを、もう一度感じることはできないのだろうか。
生活に余裕を持ち、子供達と関わる時間も減ってしまった今日この頃、お弁当を通じて生活に変化をつけてみたいと、ある日僕は考えた。
上の子と会話をしているとすれば、今となってはこの毎日のお弁当のみだ。
そもそも、子供たちは感謝の気持ちが足らないのだ。感謝の気持ちが足らないから、上の子は学校も行ったり行かなかったりで、下の子は家出をするに違いない。
こうやっていられることが当たり前だと思っているのなら、それは違うということを教えてやらねばなるまい。
お弁当を作るという行為自体になにか変化を付けられないだろうかと考えた僕は、お弁当という密室の性質を面白いことに利用できるのではないかと気が付いた。
上の子が学校に持っていくお弁当は、お弁当箱をバンダナでくるみ、お弁当用の小さなバッグに入れる。この状態で、朝リビングのテーブルに置いておくのだが、それをそのままカバンに入れ、お昼休みにカバンから出す。
毎日お弁当を作ってくれて、大好きな肉ばっかりの弁当であるという思い込みがある限り、お昼休みまでお弁当を開けることは無いのだろう。
そして当然のように弁当を平らげ、カバンにしまうのだ。
感謝の気持ちが足らない、感謝のかけらもないから、当然のようにお弁当を食べてしまうのだ。こんなことが続いたら、由々しき事態を引き起こしかねない。
このお弁当の密室性を最大限利用し、僕は上の子のお弁当にいたずらを仕掛けてみることにした。
開けてびっくり玉手箱だ、ざまあみろ、世の中の厳しさを教えてやろうではないか。
それまで使っていたのは、男子高校生にぴったりの大容量の弁当箱で、そこに何種類かの肉を入れてお弁当を作るのだが、まず、お弁当箱をクリーミーマミに変えた。
近くの雑貨屋で、クリーミーマミの二段重ねのお弁当箱を1600円で購入、いたずらのために1600円はなかなかの出費だ。
一昔前では考えられない。楽しいことの何もない僕の人生にワクワクを与えてくれる投資なのだと考え、迷わず購入した。
小学生の女子が使うような、かわいらしい2段重ねのピンクのお弁当箱に、プロの技をふんだんに散りばめた、色彩豊かなお弁当を詰めた。
ミニトマト、ブロッコリー、チーズ、大好きなお肉も入れてやったけど、サラダ菜を下に敷いてかわいらしくアレンジ。
白米を下の段に詰めたら蓋をして、いつものようにバンダナでくるみお弁当用のバッグの中へ。
このお弁当を学校で開けた時の、あいつの驚く顔を想像したら、もうすでに笑いが止まらない。
せっかくいたずらをするのだから、手を抜かず、いつもより豪華にすべて手作りで完成させた。
高校卒業以来ずっとコックである僕は、本来ご飯を作るという作業は嫌いではない。色彩豊かに見た目でも楽しめて、味のバランスも考えたお弁当は、料理人冥利に尽きた。
出来上がったお弁当を自画自賛して、一人ほくそ笑んだ。
学校で開けて、びっくりする顔が浮かぶというものだ。
せっかく作っても学校に行かなかったら意味がない、学校で友人の前で開けてくれなければ、楽しみも半減してしまう。
絶対に上の子が学校に行かなければならない日を選んで、決行した。
いつものようにリビングにお弁当を置いたままで、仕事へと向かった。
何てすがすがしい朝だろう、楽しいことが待っている人生というのは、こんなに素晴らしいのか。
生きている実感すら湧いてきて、夕方家に戻るのが楽しみだった。
仕事中もクリーミーマミのお弁当箱が気になって、一人笑いがこみ上げる。
もしかしたら17歳の男子高校生、激怒する可能性も無いわけではなかった。それを思うと一抹の不安がよぎるのだが、まあ大丈夫だろう。
もしこの冗談が通じず激怒して来たら「小さい男だなぁ、どんな時でもピンチはチャンスなんだからよ、このピンチを笑いでチャンスに変えてみろよ」と説教してやろうと思っていた。
昔はよく3人で、冗談を言い合って笑った。
どんなに辛いことがっても、笑って過ごしてきたのだ。
大震災の時も、テレビがなくなった時も、お金がなくて食べるものがなくなってしまったときも、いつも冗談を言って笑っていた。
17歳になっても、僕の冗談で笑ってくれたらいいなと切に思った。
冗談を言って子供たちと笑いあえる人生は、素晴らしい。
仕事のお昼休憩は13時からで、もうお弁当を食べた時間だろうに、上の子からは特に携帯電話を通じてのコンタクトは無かった。
「今日は何かがあって、食べていないのだろうか、はたまた、あまりの怒りで打ち震えているのだろうか」
そんなことを思いながら、夕方恐る恐る自宅へと戻ってみた。
僕が仕事から帰る方が早く、上の子はまだ家に帰ってきてはいなかった。
晩ごはんの支度をしながら待っていると、上の子が爆音を轟かせ原付で帰ってきた。
家の玄関を開ける上の子にいつもと変わらぬ雰囲気で、何食わぬ顔でこう言った。
「お帰り、どうだった今日は」
すると上の子は、しばらく僕の前で見せることのなかった満面の笑顔で
「参ったぁ、このぶっこみは最高だったわ」
と言ってゲラゲラ笑い、今日の出来事を僕に話してくれた。
朝、弁当を持った時にいつもよりも軽いことに違和感を覚えたというのだが、気のせいだろうと思い、そのまま学校へ行ったという。
なるほど、弁当の重さまでは気が付かなかった。
お昼休みにいつものメンバーでお弁当を食べようと、カバンから出してバンダナを解くと、ピンクの2段重ね、小学生女子が持っているようなクリーミーマミのお弁当が出てきて、一瞬状況が理解できなかった。
間違って違う人のお弁当を開けてしまったと咄嗟に思った上の子は、慌ててお弁当をカバンにしまってみたのだが、いや待て、そんなはずはないと、恐る恐るもう一度出して確かめてみたが、いつものバンダナにくるまっているし、いつものお弁当用のバッグに入っている。
他人のお弁当と間違えるはずもなく、間違いなくこれは自分のお弁当なのだろう。
頭をフル回転させ、これは父親のいたずらだと気付くまでに数分かかったが、お弁当箱のチョイスと、中身のクオリティーの高さに、クラスメイトみんなで爆笑した。
携帯のカメラで写真を撮り「父親のいたずらのクオリティーが凄い」と付け加えSNSに拡散、大反響をいただいたということだった。
「いやぁ、笑ったわ、ありがとう、おかげでツイッターで超人気者になった」
と、大げさに笑いながら上の子は話し、身支度を整えてそのままアルバイトへと行ってしまった。
どうやら、今回のいたずらは大成功で、笑ってくれたようだ。
上の子があんなに楽しそうに話す姿を見たのは久しぶりなような気がして、ほんの少しだけ昔に戻ったように、一緒に笑った。
男子高校生のお弁当にクリーミーマミをぶっこむといういたずらは、僕にほんの一時楽しい時間をくれるとともに、上の子の成長を知る良い機会となった。
突っ張って尖がって毎日暮らしているように見えても、素直に育ってるんだ。これは一時のことで、本質は昔のままの気さくな男の子だったのだ。
怒られたらどうしようと思ったけど、それは考えすぎだった。
そして、自分の身に突如降りかかる困難に対する回避能力、対応力は備わっているようだった。
生きるか死ぬかの生活を長く続け、欲しいものも手に入らず、好きなことの一つ出来ず、どん底の状態でいかに心折れずに生きていくのか。その答えはただ一つで、明日への希望を失わないように、どんなことがあっても笑うこと。
笑うことで、今その瞬間が明日へと繋がっていく。
「嫌なことや辛いことがあったら笑うんだよ、3人で力を合わせれば絶対に大丈夫なんだから」
そう、小さい時から子供たちに言って聞かせた。
母親を失った子供たちに、生きる希望を失わせないように。
大きなって父親の僕にさんざん迷惑をかけるようになった上の子だったけど、小さいころに言って聞かせていたその生き方は、今でもちゃんと守ってくれていた。まだまだ大丈夫だ。根っこまで腐ってしまったわけではない。
上の子が出してきたクリーミーマミの空っぽのお弁当箱を洗いながら、僕は満足だった。下の子と一緒に3人で笑えたら、どんなに楽しかっただろうと、今、どうしているかもしれぬ下の子を思った。
最終話まであと6話