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16/6/17

【第40話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。~最終話まであと7話~

Image by Olia Gozha

季節はすっかり夏になり、仕事も順調でお金もそこそこ稼げるようになり、生活も安定し始めていた。


下の子の受験勉強は中学2年生になったこの夏が勝負だと思った。


何せ、今までの怠けっぷりは常人の域をはるかに逸脱している。


どうしても下の子に努力して勝ち取る喜びを教えたかったし、その上で将来につながるような人生のスタートラインに立ってもらいたかったわけで、親としても、彼にとってもベストな選択であると考えていた。


目標に向かって努力して、精いっぱいの力を尽くしてダメならば仕方ない。でも、与えられた環境でベストを尽くすことなく諦めたのでは、先が思いやられる。


結果がどうであれ、自分の力で道を切り開いていけるような人生を、子どもたちには望んでいた。


親が片親で貧乏だから、子供にまともな教養がないと思われたくはなかった。

父子家庭にもプライドはある。


高校がすべてだとは決して思っていない。だけど、自分が選ぶ人生のその第一歩で、どこでもいいとか、なんでもいいとか、どうでもいいなんて言う決め方を、してほしくなかったのだ。


子供たち2人を高校に入れて、卒業させる。


その後、自分たちの進みたい道を選択し、自らの意思で進んでいけるように。


上の子の受験勉強である程度をコツつかんでいた僕は、自分なりにもっと早いタイミングで勉強を始めれば、違った選択肢が増えたに違いないと、多少後悔していた。


上の子の時は、生きるために他にやらねばならぬことが多すぎて、あまり勉強を見てあげることが出来なかったことに、悔いが残っていたのだ。


もっとやれたに違いない、あの時もっともっとやってあげられたのではないのか。


時が過ぎれば、必ずそう思うことを知った僕は、下の子の時はそんな後悔をしないように、してあげられることに時間を使ってあげたいと思っていたのだ。


今までは、それどころではなかった。


埋めきれない心の隙間を、下の子の受験勉強に付き合うということで、僕は勝手に埋めようとしていたのかもしれない。


いずれにせよ、勉強に励んでマイナスになることはあるまいと、夏休みになったその日から、下の子との勉強をみっちり見てやろうと決めた。下の子もやればできるし、そのうち自分の知らないことを知る喜び、何かを覚える楽しさを分かってもらえると信じていた。


夏休みの宿題を基本に、近所の本屋で選んで購入した問題集、それらを夏休みの期間毎日少しずつやろうと決めたけど、下の子は全く気が乗らない様子であいまいな返事を返していた。




北関東の茨城県といえども、真夏ともなれば気温35度を超え、うだるような暑さになる。


いくら生活が多少安定したとはいえ、数年前に壊れたままのクーラーを買いなおすほどの余裕はなく、小さな扇風機1台で過ごしていた。


日中は仕事があるので、夕方帰宅してご飯を作り食べさせて、後片付けをした後に勉強の時間となる。


すっかり陽の落ちた夜でさえも、風が吹かない日などは気温が下がることは無い。


汗が止まらぬリビングで、上半身裸になって勉強をした。


ただでさえ集中力のない下の子は、この暑さも手伝って、とてもやる気があるようには見えないのだった。やる気がないのは彼自身の問題だけど、クーラーが買えないのは、僕の責任だった。


勉強など、覚えようという気がなければ絶対に覚えられないもので、惰性で時間だけ過ぎるのをやり過ごしていてもそれはその場しのぎに過ぎず、自分の身にはなっていない。


教えては忘れ、同じことを何度も何度も繰り返し、先に進むことなく足踏み状態で夏休みの時間は過ぎていった。


何回教えても、何度同じ問題をやっても、中学1年生の初めのはじめ、Be動詞から先に進まない。


何が理解できないのかさっぱりわからないのだが、いつまでやってもBe動詞の渦の中に飲み込まれていた。


諦めて先に進んでみるのだが、やっぱり最初が分からなければそのうちいつかつまずきが出て、最初に戻らなければ先に進めなくなる。


夏休みの半分が過ぎても一向に覚える気配のない下の子に、とうとうしびれを切らした。


やる気がないなら、いくらやっても仕方がない。


自分の人生のために、自分が頑張らなければならない時があるということを、下の子は知らねばならぬと思った。


何度も何度も繰り返したBe動詞の同じ問題。


「問題集の見開き1ページを、今から明日のこの勉強の時間までに必ず覚えてくるように」


これが出来なければ、もう勉強は付き合ってあげないと告げた。


自分の為にやりなさいと下の子には言ったけど、これは親としての命令であり、必ず遂行しなければならない任務に違いない。相手の思いに応えることで、何か変わってくれるに違いないと、すがる思いだった。


「お前はこの程度も出来ない人間なのか?このままやらずに逃げ出すのか?その程度なのか?」


と、彼の自尊心を揺さぶり、なんとかやる気に火を灯そうと思った。




正直、やると思った。


高々問題集1ページ、それも夏休みに入ってその半分の時間を費やし何度も何度も繰り返してやった問題である。


覚えられないほうが、どうかしていると思ったくらいだ。


夏休みに入ってからというもの、毎日こんなことに付き合って、下の子の理解しがたい行動に日々悩み、アルコールの量も増え、僕自身も情緒不安定になっていて、下の子にもきつく当たっていたということも確かに否めない。僕の接し方に問題があったと言えば、それはそれで無かったとは言えないと思う。


けど、だ。


思うけども、そこはやるでしょ、実際。


下の子は、それっきり勉強のテーブルに着くことは無くなり、家に帰る時間も守られることは無くなって、とうとうすべてを投げ出したようだった。


あっさりしたものだ。


初めからこうなることを期待していたのかと疑うほどに、それっきり下の子は勉強などしないと決めたようだった。


予想外と言えば予想外であったし、予想通りといえば予想通りで、この一件を期に、下の子との関係はさらに悪化した。


連絡もせずに遅くまで遊び歩いて、家に帰ってこないこともしばしば。


そっちがその気なら、こっちにも考えがある。


以前から約束していたにもかかわらず、それでもなお分かっていながらもそういう態度に出るのであれば、こうなったらもうご飯抜きのカードを抜くしかない。


仮にいつもの食事の時間に帰ってきたとしても、帰宅の時間が守られなければ下の子のご飯は作らなかった。


僕は僕なりに「約束を守らなければ、これからもずっとご飯は作らないよ」というメッセージを込めているつもりで、いつか下の子に伝わると信じていた。


下の子も、初めのころは僕に詫びを入れたりして、晩御飯を食べたりしていた。

詫びて反省すればノーサイド、ご飯を出して一緒に食べた。


少しずつでもそうやって前に進み、そのうち気持ちを入れ替えてくれれば良いと考えてはいたのだが、その舌の根も乾かぬうちに、また遊び歩き、約束などどこ吹く風で生活している。




それは夏休みのBe動詞のように、やってもやっても先に進まぬ問題のようだった。


そのうち下の子は家に戻る回数が減ってゆき、そろそろ夏も終わろうとしていた。


ほんの少しでも下の子の力になれればと思って、夏休みを使って勉強に付き合ってみたのだがなんの成果もあげることが出来ず、さらに状況は悪化の一途を辿っているようだった。



下の子をいじめたいわけでもなく、僕にとってはむしろ子供たちにご飯を作ってあげるということは、すなわち生きているということに他ならず、ここを止めてしまうことの方が辛いことだった。


だから、いくら下の子が滅茶苦茶な生活をしていたとはいえ、学校に行くのに朝ごはんも食べさせないでは、気が引ける。

2人揃って家にいるときは、ちゃんと2人分の朝ごはんを作った。


上の子のお弁当と、2人分の朝ごはん。


早番の時は朝5時前に起きて、せっせと作った。


お弁当作りもすっかり慣れたもので、ほとんどレトルトや冷凍の食材を使うことなく完成させられるようになった。朝ご飯はお弁当の残り物とか、昨日の晩御飯の残り物とかだったけど、これは最低限親としての役目だろうと、眠い目をこすりながら毎日作っていた。


上の子も下の子も、学校に行っているのかいないのか、さっぱりわからない。


時たま先生から「学校に来ていません」なんて電話を貰っていたから、2人とも行ったり行かなかったりだったのだと思う。


それでも一人親の身寄りのいない僕にとって、子供たちを監視することなど不可能で、やっぱり子供たちを信じるしか手立てがなかった。


仕事をしていても毎日子供たちのことが気がかりで、どうか道を踏み外しませんようにと、祈るような気持ちで暮らしていた。


年頃の男の子である以上、ある程度の覚悟はこの先必要だろうということは、自らの人生を振り返って気が付いていた。頼むからおとなしく学校くらい行ってくれよと、担任の先生から電話を貰うたび憂鬱な気分になり、生きることに対しての前向きな気持が削がれるのだった。




どんなことがあっても生きて帰ってこいと、小さいときから子供たちには言ってきかせていたけど、毎日こんなにやきもきさせられるとは正直思ってはいなかった。




朝起きて学校に行って、勉強して帰ってくるだけだろうがよ。


下の子のいない食卓は寂しくて、帰ってくることを信じて用意した下の子の分の食事を、遅くに自分一人で食べる夜は虚しかった。

晩ごはん抜きと言ったはいいが、やはりご飯を食べてもらいたくて、毎日一応はご飯を作って下の子の帰りを待った。


少し前は子供たちにご飯を食べさせるために必死になって、自分の食事を削ってまで食べさせていたのに、今となってはどうだろう。


せっかく用意したご飯を、食べてくれることも無い。


僕はと言えばすっかり食事抜きの生活に慣れてしまって、何かを食べたいという欲求そのものさえもなくなってしまっていたのに、なぜかここにきて、子供たちの口に入ることのなかったご飯をひとり食べている。


何ということだろうか。


今まで信じて生きてきたものがすべて間違いだったような、すべて嘘だったような空虚な気分。


上の子が帰ってきて食べてくれる時はまだよかったけど、遅くまでバイトをして、そのまま家に戻らず遊び歩いているような日は、せっかく作った食事も誰にも手を付けられることがなく、そのまま冷蔵庫に入れられることもしばしば。


あれほどまでにすがっていた手作りの食事も、誰も食べてくれないのなら何の意味もなくなってしまった。


確かに、子供たちにとってベストな環境で生活させていたかと言われれば、積極的に肯定は出来ない。だけど、自分の置かれた環境でベストを尽くさなかったのかと言われれば、僕にとってこれが考えうるすべての力を使ってベストを尽くしてきたのだと、酩酊する頭でぼんやりと考えた。


食べられることのない食事を冷蔵庫にしまい、独りぼっち、浴びるように酒を飲んだ。


歯車が一つ狂い始めると、それは雪だるま式に狂った歯車の連鎖となり、僕達の生活を飲み込んでいった。




新学期が始まり少したったころ、下の子は突然「母親の家で暮らす」と言い出したのだった。





~最終話まであと7話~

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