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16/6/14

【第36話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

Image by Olia Gozha

ほどなくして、下の子は部活を辞めてしまった。


部活を辞めてからは悪い友達とつるむようになり、帰宅時間が遅れ、泊まり歩き、おあつらえ向きの路線ですっかり素行の悪い近所で評判の不良の出来上がり。


気は優しいいい子なんだけど、見た目が完全にまともではないために、悪のレッテルを張られてしまった。


子供を育てるということは、実に難しい。


社会のルール、学校のルール、それは分かる。


一生懸命やっているつもりなのだが、父子家庭のひとり親には酷なことが多すぎる。


金がかかりすぎるし、協力できる大人ありきのルールなど、そもそも守れるはずもない。


子供たちにとってベストな選択をチョイスしてあげられないという現実は、子育てのあり方を大いに考えさせられるのだった。




今までがひどすぎた。


子供達も我慢の限界だったのかもしれない。


自由になったお兄ちゃんを見て、我慢ならない気持ちもわかる。なぜ自分だけまだ我慢しなければならないのか、我慢の上に理不尽な大人の都合による制約があるのだから、中学生の下の子にはたまったものではなかっただろう。


ある程度一人でなんでもできる年齢になり、それなりに自由を覚え、行動範囲もひろがり友達も増え、下の子がタガを外したくなった気持ちが痛いほどわかるだけに、今後どう接して良いものか悩んでしまった。


そうは言っても中学生、心を鬼にして接するしかないのだが、これが父子家庭の、これが一人親の限界なのではないだろうかと思うのだった。


そしていつの間にか家族3人での、月1回の外食会も開かれることは無くなった。


老人福祉施設での仕事は、半年を過ぎても、さらに3カ月が過ぎても社員になれるような話はなく、挙句の果てには、今回の契約期間が切れたら次は契約をしないと通達される始末。


仕事は人並みにこなしたし無断欠勤や遅刻などはなく、なぜここまでされなければならないのか、よくわからなかった。


ささやかな安定さえも、いつも手の平から滑り落ちる。


今の契約が切れるのは1月後、もうカウントダウンだった。


震災から命からがら生き延びて、仕事を何度も失い、そのたびに職を探し、いつもあと一歩のところで困難が立ちふさがる。


もういいだろ、もう勘弁してくれ。


そんな気持ちだった。


今の職場も、人間関係でぎくしゃくしている以外不満はない。


給料が安いとか、仕事が給食のおばちゃんだとか、そんなものは我慢の範囲内。時間がきっちりしていて休みも取れるこの仕事は、子供を育てるにあたって実に好都合だったのに。


やっと仕事にも慣れ、子供達との生活も落ち着き、なんとかこのまま細々とでもやっていきたいと思っていたのに。


あと数年でいい、子供たちが自立できるあとわずか数年だけでもいい、仕事を変えずにやっていければと思っていたのに。


理不尽だ、理不尽すぎる。


自分の都合で仕事を選べない僕が、やっと長く続けられるかもしれない仕事を見つけ、それなりに頑張ってきたつもりだったけど、どんなに理不尽な理由であったにせよ、契約しないと言われたらそれまでだった。


約10カ月、長い方か・・・


確かに自分のやりたい仕事ではない、でも契約されないほどのご迷惑をかけたつもりは毛頭ない。


また仕事探しか。

借金もあるし教育費もかさんでいるのに、また仕事探しからやり直しだった。


疲れた、本当に疲れた。


僕が一体何をしたというのか、なぜいつまでたってもこんな仕打ちを受けなければならないのか、それはもはや、悔しいとか悲しいとかをはるかに通り越し、自分自身が哀れであり、死にたいほど惨めだった。


そんな親に一生を託さねばならない子供たちは、もっと惨めに違いないわけで、僕にとっては二重の苦しみとなった。


どうすればいいのか、どの道を行けば正しい場所に導かれるのか、もう全く分からない。


40歳になりさんざん苦労を乗り越えて、もうこれ以上の壁を登る気力など残ってはいない。


万事休すか、契約期間が残り1カ月を切ったというのに、とうとう仕事を探す気力すら湧かないのだった。




上の子が高校生になったことに伴い、毎日お弁当を作って持たせなければならない生活がスタートした。お弁当づくりなど子供たちが幼稚園生の時に何度かやっただけで、ここにきて仕事と家事をこなしながら毎日お弁当を作らねばならない生活が始まった。


4月から新学期がスタートし早速お弁当を持たせるわけだが、どのくらいの量を持たせればよいのか、おかずは何を入れれば良いのか、いまいちピンとこない。


手探りで始めたお弁当作りだったけど、毎日どんなことがあっても作り続けた。


慣れるまでは時間もかかるし、おかずのレパートリーもなく、隙間なくお弁当を詰めることも上手にできない。


おかずは上の子の好きなものを中心に入れたけど、毎日のこととなると、そのうち同じものの繰り返しになってしまう。


スーパーには、おあつらえ向きの惣菜やレトルト、冷凍食品の類が山積みになっていて、忙しいお母さま方の強い味方と言ったところなのだろうけど、僕はそれらの食品をなるべくお弁当に使わないように心がけた。なんて便利な世の中なのだろう、一切食材に触れることなく、火を使うことも無く、一通りお弁当が完成してしまうこの時代に、それらの食品を使わないというのはたいそう難しかった。


なるべく手作りのおかずをと思うのだが、仕事が忙しかったり、朝が早かったりしたら、それらの食品に頼ってしまうことも、初めのころはしばしば。


仕事に行って帰ってきて、買い物して晩御飯を作り、朝ご飯を作って弁当も作る。


仕事が早番の時は、朝6時前に家を出なければならないので、朝ご飯とお弁当の支度をするとなると、1時間は前に起きる必要がある。


1時間前というと、朝の5時前。


夏場はまだしも、真冬ともなると夜は明けておらず、深々と冷えるリビングでストーブもつけずにキッチンに立たなければいけない。


一人の時に暖房器具を付けないのは、長年しみついた習慣だ。


前日の夜に上の子のバイトが終わるのが22時とかになると、そこから晩御飯を作り食べさせ、その日着ていて脱ぎ散らかした服の洗濯をして干してからでないと眠ることが出来ないので、24時近くになってしまう。


朝早く起きてのお弁当作りも楽ではなかった。


父子家庭になったばかりのころも同じだったけど、コツをつかむまでにしばらく時間を要する。


時間の配分、手際といったものが頭に入っていないので、余計に時間がかかってしまう。


睡眠時間もそこそこに朝早くからのお弁当作りは、お弁当を作って持たせるということに趣を置くと、どうしても冷凍食品やレトルトに頼らざるを得なくなっていた。


それでなくても、体は毎日疲れている。


子供たちはそれぞれ成長し、時間もみなバラバラになった。


まだ小さかった頃は、ご飯の時間もみんな一緒で1回で済ませられたのだが、成長してそれぞれの生活スタイルが出来てくると、いつ帰ってくるかわからない子供たちのために、ご飯を作って待っていなければならない。


下の子が帰ってきてご飯を食べさせ、上の子が帰ってきてまたご飯を食べさせた。


毎日2度手間になった。


作って置いておけば良いという意見もあるとは思うけど、自分が家にいるときは子供たちに作りたての温かいご飯を食べさせたかった。


今となっては、この手作りの晩御飯だけが子供たちとのつながりであり、どんなに忙しくてもどんなに子供たちが自分勝手に振舞っても、してあげたいという気持ちがあった。


それにしても、大変だった。


毎日のらりくらり生活する下の子と、いつバイトで何時までバイトなのかもわからない上の子、帰ってきてもご飯を食べるのか食べないのかも分からなかったけど、毎日とりあえず作って待つ。


作って待っていても「今日はいらない」とか「食べてきた」とか平気で言ったりする。


寂しい気持ちはこみ上げてくるけど、それを指摘しても仕方がない年頃だ。


時間はどんどんずれ込んで、僕がやらなければならないことの時間の幅は、だいぶ膨らんでしまっていた。


やることは変わらないけど、手間ばかりが増えていく。


学校に着ていくワイシャツや体操服、バイトの制服、子供たちは時間などお構いなしに洗濯物を出してくるし、明日の朝までに乾かさなければならないものがあったら、洗濯が終わるまで眠ることが出来ない。


子供たちの成長は、体が大きくなって態度がでかくなって、口のきき方が悪くなって、行動範囲が広くなったおかげで帰宅時間が遅くなっただけで、これと言って精神的な成長の跡はあまり見られなかった。


それよりも、今までできなかったこと、我慢していたことをこれでもかと謳歌しているように見えて、喜ばしいような、悲しいような、複雑な気持ちになり苛立つのだった。


正しいか間違っているかは別にして、やりたいようにやりたい年頃なのかもしれない。


「もう少し家の事手伝ってくれよ、ガキじゃないんだから」という気持ちももちろんあったけど、子供たちが自由気ままに生きている姿を見て、今までが今までだっただけに、それとは裏腹に感慨深い思いもあるのだった。


気持ちは複雑だったし、言って聞くような年は過ぎた。


どちらにせよ僕の仕事量は増え、子供たちに対する不安材料も小さかったころとは比べ物にならないほど増えたのだけれど、やっぱりできることは精一杯やろうと、それだけを思った。


ここまで来たんだ、後ひと踏ん張りと思って日々耐えていた。


どこにいても、何をしていても、自分の置かれた環境でベストを尽くす。


明日に続く道があるのだとしたら、それはその先にあるものなのだと信じている。


バイトの帰りが遅い日の次の日が早番の時の弁当作りは大変だったけど、時たま冷凍食品の力も借りつつ、何とかお弁当を作っていた。


冷凍食品とレトルトのおかずがぎゅうぎゅうに詰まったお弁当箱は、悲しかった。


お弁当としての体をなしてはいたけど、そこに親としての責任もコックとしてのプライドも反映されていないような気がした。


朝早くから起きて何とか形にはしたけど、激しい自己嫌悪に襲われ、気が滅入ってくる。


ご飯はいつも手作りと、自分で決めたことだったのに。



遅番の時以外は、お弁当と2人分の朝ごはん、例えば土日とかにそういう日があると、ここにお昼ご飯も加わる。これを朝の5時前から起きて作って置いておかないといけないわけだから、大変である。


仕事から帰って家に戻ると、相変わらずの洗濯物と汚れた食器の山、部屋は散らかり放題。


「これも成長の過程だ」


腹立たしくて憤慨する自分に言い聞かせて家事をしたけど、今の僕が彼らにしてあげられることは、所詮この程度の事だけなのだろうかと、落ち込みもした。


子供たちが成長するに伴い、今までうまくいっていたこともうまくいかなくなり、コントロールが効かなくなったおかげで、ストレスは増す一方だった。


仕事でもストレスを感じ、家でも子育てでもストレスを感じる。


散らかった家に帰ってくると、憂鬱な気分になり気が滅入るのだった。


仕事でどんなに疲れていても、家で休むことはできない。散らかり放題の部屋を片付け、洗濯物を干し、晩御飯の支度をする。


言うことを聞かなくなった子供たちと接するのは歯がゆかったけど、子供たちの行動を把握できず交流の時間も持てない自分自身にも、強烈な歯がゆさを感じていた。


毎日口では言い表しがたい倦怠感と疲労感。積もり積もった10年近くの父子家庭生活で、拭いきれない何かが憑りついているようだった。


仕事をして家に戻り、家事と育児の繰り返し。


毎日特に楽しいこともなく、子供たちに食べさせるご飯と生活に必要なもろもろの出費で給料の全ては消える。自分のために使う余裕のあるお金など、どこを探しても無い。気分転換ができるわけでもなく友達もいない。


話相手すらいない僕と、大人になってすっかり関係性が希薄になってしまった子供たち。


仕事場でも、家でも、どこに行っても一人ぼっちになった。


子供たちがまだ小さかったころ、目が離せず、手がかかっていたときは、それはそれで大変だった。


どこに行くにも子供を連れて、子供中心生活。


今はそれほど僕の手を必要としなくなって、それはそれで喜ばしいことのような気もするのだが、ぽっかり心に穴が開いたような気分にもなる。


早く大人になって自立してほしいと思っていたけど、その気持ちとは裏腹に、急に必要とされなくなったことで、自分の立ち位置が分からなくなってしまった。


子供を育てることか、子供と接することでしか、この10年生きていない。


孤独で寂しくて、それでいて毎日ストレスで、お金もなくて楽しいことも無くて、何のために生きているのか、それでもまだ生きていかなければならないのか、あとどれくらいこんな思いをしなければならないのか。


子供から必要とされなくなった自分には、これから先何が残るのだろう。


無我夢中で生きていたころは気が付かなかったけど、ほんのちょっとのゆとりを貰い、急に切なくなってしまった。


お金を稼いではすぐになくなり、子供たちは勝手気ままに生きていて結局ここまで来ても家族など、どこにもないような気がしていた。


成長に伴い知恵を付けた子供たちは、僕の目をごまかしながら好き勝手に振舞い続けた。大人は僕しかいない。それは子どもたちもよくわかっている。僕がいなければ、子供たちを監視する人は誰一人としていない。


仕事に出かけてしまえば、決められた時間まで決して帰ってくることのないたった一人の監視役など、年頃の男の子にとっては無いも同然。僕の目を欺くなどたやすいことだ。


仕事で月に4回宿直をこなさなければいけない僕は、週1回は、朝仕事に行ったきり次の日の夕方まで家に戻らないことが確定する。宿直は、誰もやりたがらない週末によく回ってきた。


そうなったらしめたもので、子供たちは自宅にそれぞれの友達を呼び、朝までどんちゃん騒ぎ。


誰も監視するものはいない、これはまさにこの世の天国。


僕が嫌がることだろうと、お構いなし。父親が帰ってこないことを良いことに、わが家は無法地帯と化していった。


僕が仕事から戻るころには一応それなりの体裁を整えておくのだが、そんなもの見れば一目瞭然なわけで、文字通り子供だましの取り繕いが、余計腹立たしく思えるのだった。


仕事をしなければ生きてはいけない。子供たちにご飯を食べさせ、学校に行かせてあげることが出来ない。着る服も無ければ、履く靴も無い。


一生懸命仕事をしても、自分の食事や着るものや履く靴は買えない。せめて子供たちだけにでもと、右往左往しながら職を転々とし、やっとたどり着いたこの場所も、探し求めていた安住の地とは言えないような気がした。


僕はいったい、どこに向かっていたのだろうか。


監視するものがいないという現実は、どうにもこうにもならなかった。生きていくために、子供たちを生かせていくために、この部分に目をつぶらなければならないということは、子供を育てるうえで本末転倒のような気がしてならなかった。


よく、テレビのドキュメンタリー番組で、母子家庭で子供を育てている貧しい母親が、昼夜問わず仕事をし、どうにかこうにか生計を立てているような暮らしの中で、子供たちを家に残し母は働くのだが、子供たちは決してグレることなく、母親の手伝いや家事を分担し、挙句の果てには、爪に火を点すような暮らしの中で、夢に向かって何とか続けさせた野球でプロになったり、起業して若くして大金持ちになったり、そうして母に恩返しをして、ハッピーエンドなんて番組見たことあるけど。


僕は心の底から言いたい。


「本当?本当にこれやったの?たった一人で・・・どうやったら、こうなるのよ」


教えてほしい。どうやったらこんなことになるのか、ぜひ教えてほしい。


全く真逆になってしまった僕の生活と比較して、どこをどうしたらこうなるのか分からなかった。


父子家庭となり子供たちを引き取った時は、たった一人で子供を育てるという意味を知らなかった。だからこそ、何となくやれるような気がしていたし、3人で力を合わせれば、どんな困難でも乗り越えられると思っていた。


非常に安易な考え方であることは、今になって分かる。


でも、出来ると思っていた。


子供達もそんな僕を見て、出来る限りの協力をし、たった一人で自分たちを育てる父親の負担を減らそうと率先して家事を手伝い、言うことを聞き、勉学にいそしみ、成績優秀品行方正、苦学生の鑑のような子供に育つと、なぜか勝手に思い込んでいた。




だが、実際ふたを開けたらどうだろう。


食うに困るほどの極貧生活、仕事は何度もクビになり、テレビも車も失い、電気や水道も止められて、挙句の果てには未曽有の大震災に見舞われる。どうにかこうにか高校生と中学生になるまで育て、よし、ここからは子供たちの協力を仰ぎながら、まともな仕事に就いて生活を安定させ子供たちに感謝しながら手を取り合って生活しようと、思っていたのに。


ここにきて、どうも雲行きが怪しい。


現実は厳しかった。


どうにかこうにかガマンにガマンを重ね、やりたいことも出来ず理不尽な仕打ちを受け続けた子供たちは、やがて大きくなり、父親の苦労など顧みることなく、自分勝手、自由気ままに振舞うようになった。


食費を削って、借金をして捻出した学費もどこへやら、すっかりさぼり癖がついて学校には行ったり行かなかったり、バイトで稼いだお金で朝まで遊びほうける始末。友達の家を泊まり歩いて家には戻らず、家にお金を入れるどころか、僕の財布から金を盗んでいく。


どうなっているんだ、いったい。


子供2人を抱えて、父子家庭というまともではない生き方の末に、人並みにまともな暮らしを求めてしまった僕が馬鹿だったのか。


安心して仕事をすることすらできない上に、子供たちの心配事は増えるばかり。


たった一人の監視役である僕が、思春期の子供たち残して丸2日は家に戻れないことがあるのだから、こうなってしかるべきなのだろうか。


考えが甘かったのかもしれない。


テレビの話とは、だいぶ違う。


もしかしたら、安定とか目先の小銭に目がくらんで、大事なものを見て見ぬふりしてしまっていたのかもしれない。


子供たちが大きくなったから、もうこの辺でいいだろうと、どこかで勝手に思い込んでしまっていたのだろうか。


生活していけないほどの給料では意味がないし、バイト暮らしはいつ職を失うか分からない。


40歳をすぎて、これ以上職を転々とする暮らしもさすがにしんどい。


今の仕事も、消去法的な選択肢で選んだもので、決して前向きなものではない。


生きていくために、子供たちを育てていくために、この仕事なら大丈夫かと思っただけだ。


生きていくために、多少の不都合は目をつぶるしかない。


だがどうだろう。


結果は、この有様。


家族がバラバラになり、親の仇のごとく散らかった部屋を片付け、子供たちは家にほとんどいないくせに洗濯物だけはいつも山積みで、食べるか食べないか分からないのに買い物をしてせっせと食事を作っている。


家を空けているときは、それでも子供たちを信じることしかできず、当然のように裏切られ続けた。


宿直明けに、脱衣所に置かれた2日分の洗濯物を見ると、涙がこぼれる。宿直して次の日も仕事をして、この光景を見せられるのはつらかった。


洗濯を回して干す程度の事、考えつかないのだろうか。部屋を散らかさないようにできないのだろうか、食べた食器を洗って片づけることが出来ないのだろうか。


考えれば考えるだけ虚しくなって、結果父子家庭として育ててしまったこの10年に跳ね返ってくるのだった。


本当は、何もしてあげてなどいないのかもしれない。


子供たちを育てるなどとたいそうな事言ってはいるけど、実際はご飯を食べさせるだけのためにはいつくばっている。


情けない話だ。


やめよう・・・もうやめよう。


やめたい、もうやめたい。


どうせ仕事もクビになるのだ。


もう何もかもやめて、子供達には一人で生きて行ってもらって、それでだめならそれまでだ。


よくやったよ、ここまで。


頑張ったよ。


自分を納得させるように、言い聞かせた。


もう嫌だ、こんな生活、もううんざりだ。


一体、俺が何したっていうんだ。


勘弁してくれ、もううんざりなんだよ。

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