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16/6/13

【第35話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

Image by Olia Gozha

父子家庭となり、子供たちと3人暮らしを始めてもう6年が経っていた。


上の子が高校生になり、下の子が中学生になった。


それぞれ進学し新しい生活をスタートさせたことは、非常に喜ばしい限りだったけど、やはり僕にはどうしても越えなければならないハードルがある。




そう、お金がないのだ。




仕事を掛け持ちして働いてみたものの、そのお金は当然日々の生活費となって消え、手元に残ることはなかった。


3つ違いの兄弟であるがゆえにこのようなことが起こり得るわけだが、2人同時に進学という現実が何を意味するのかといえば、途方もない金額のお金を用意しなければならないということに他ならない。


合格の余韻に浸ることもほどほどにしなければならず、合格のその日から金策に走らなければならなくなった。


その時まで全然知らなかったのだが、高校無償化と言っても、高校に通うすべての費用が無料化になっているわけではないということ。高校無償化期間中の県立高校だから、お金なんてそれほど用意しなくても良いと、勝手に思い込んでいたのだが、そうではなかった。


いざ合格し蓋を開けてみると、結構な出費があることに気が付いたのだった。


しかもその費用の支払いには期限があり、そこまでに支払いを完了しなければ合格を取り消すと書かれている。


いくら探してもわが家にそんなお金はない。高校の制服代とその他もろもろを合わせて、当面用意しなければならない費用はざっと20万強。


大した金額ではないかもしれないが、僕にとっては目ん玉飛び出るような金額。それを指定された期日までに用意しなければならない。


借りる当てもなし、今更宝くじが当たるとも思えない。


高校無償化というのなら、ぜひとも全額無償化にしてもらいたかった。これでは就学支援と大差ないではないか。


詐欺だと思った。


無職の時に生活費をつまんでいたクレジットカードで、仕方なしにそのすべての費用を賄うことにした。


クレジットカードキャッシングだ。


それまでにも生活費だったり、下の子の進学費用、制服代、体操服、靴、バッグなどをそろえ、20万円キャッシングしている。さらに20万上積みされるわけで、合計で40万円。


果てしない金額がカードローンの借金として、わが身に降りかかることととなった。


その他もろもろ兄弟合わせて進学にかかった費用と生活費の補填で、結局限度額いっぱいの50万円をすべてキャッシングして、なんとかすべての費用を捻出することが出来た。


することが出来たと言っても、所詮は借金。しかも利率の高いカードローンである。果たして今後生活していけるのかどうか、不安しかなくなってしまった。


よく考えるまでもなく、これが間違って私立高校だったりしたらと考えると、身の毛もよだつ思いだった。


一体、世の中のひとり親はどうやって子供を進学させているのだろうか、甚だ疑問である。




それでもめでたく二人とも進学させてあげることが出来たわけだし、上の子はアルバイトのできる年齢になり、アルバイトをしてお金を稼ぐことをとても楽しみにしている。


少しずつ手も離れてくるし、自立していくわけだから、なんとか3人で力を合わせればやっていけるに違いないと、この時は確信していた。


父子家庭になり6年の月日が経過して、いろいろあったけど子供たちも大きくなり、僕にはずっと心にひっかっかていたとある事柄が気になり始めた。


2人の進学を期に、その思いがふつふつと湧き上がってきたのだった。


それは、今までずっと会うことがなかった母親の事。


上の子は小学2年生だったから、辛うじて記憶の片隅にあるような無いような感じらしかったけど、下の子に関しては、もはや会ったことも無い赤の他人、それが彼らにとっての母親と言ってもよい。


この6年の間に子供たちには何度か「お母さんに会いたいか?」と聞いたことがある。


まだ幼かった頃は「会いたい」と言っていたこともあったけど、大きくなるにつれて「別に」となり、そのうち話もしなくなってしまった。


「いつか必ずお母さんに会わせてやるからな」と僕は子供たちに言っていたけど、実際は生きることに精いっぱいで、とてもそこまでの余裕が見つけられないまま何となく6年が過ぎてしまった。よく考えてみると、いろんなことがありすぎて、僕自身も離婚した当時の事などほとんど忘れてしまっていた。


6年間、子供たちの生活費等のお金をもらったことは一度も無かったし、連絡を取ったことも無い。


離婚するときは、それはそれは揉めて離婚したのだろうし、実際子供たちを引き取って生活を始めてみたら、それは生活と呼べるような代物ではなく、ここまで来るのに苦労などという生易しい一言で片づけられるようなものではない。


感情的にはそれこそスパッと割り切れるものではなかったけど、それとは別に、子供たちにとって何が一番ベストなのか、ということはまた別の問題だった。子供たちから母親を奪ったのは、間違いなく子供たちの都合ではなく親の不始末である。だとしたら、被害者である子供たちに、いつまでも親の都合で母親を取り上げておくというのも、いかがなものなのかと常々思ってはいたのだ。


離婚の際「子供たちの面倒は見られない」と言い残して出ていった母親だったけど、自分のお腹を痛めて産んだ子なわけだから、それなりに気にはなっているだろうし、まさか憎いなんてことはないはずだ。


僕は子どもたちを育てる過程で、これだけは守ろうと誓ったことがある。


彼らの母親の悪口は、絶対に言わない。


子供たちにとっては、かけがえのない母親であることに間違いはない。僕が、僕の都合のみで母親像を語ってしまったら、それはルール違反だし、子供たちに対して失礼だと思っていた。


離婚して片親になってしまった原因の一端は、間違いなく僕にもある。彼女がすべて悪くて、僕がすべて正しいなどと言う気はない。


それはそれは口には言い表せないような事柄がもつれにもつれてこうなったわけだし、僕が彼らの母親をけなす権利などあるはずがない。


だから、神に誓って、子供たちに母親の悪口を言ったことは無い。


子供たちにしてみても、父親の口から母親の悪口を聞いた記憶はないはずである。


2人が、高校と中学に進学するというまさにそのタイミングで、母親を探して会わせようかと考えていた。子供たちももうだいぶ大人だし、自分の考えをもって母親と接すればいい。


嫌な予感も若干はあったが、子どもたちを信じることにした。


母親を探そうとネットを開き、旧姓のフルネームを検索に入れてボタンを押したら、すぐに見つかった。


フェイスブックのページがヒットし、いとも簡単に母親探しは終了した。


あまりの呆気ない結末に呆然としたのだが、フェイスブックのメッセージ欄にこう書いて送信した。


「お久しぶりです。子供たちも大きくなり、いよいよ春から高校生と中学生です。よかったら入学式に来て子供たちの成長した姿を見てやってください」


すると、あっという間に返信があり「ありがとう、ぜひ伺います」と書かれていた。


2人とも無事進学させられたことに、気が緩んだのかもしれない。子供たちへの頑張ったご褒美に、何かしてあげられないだろうかと考えたのかもしれない。


それとも、子供たちを育てることにすっかり疲れ果て、里心がついたのかもしれないし、子供たちの成長に伴い自分自身の肩の荷を一つ一つ下ろしたかったのかもしれなかったけど、こんな感じで長年引っかかっていた母親との再会を、実にあっけなく果たすことになった。


子どもたちには「お母さんとこれからは自由に連絡を取って、自由に会って、自由に行き来していいよ、君たちを産んでくれた母親なんだから、感謝の気持ちは忘れないように。そして、これから先、お母さんと自分がどのようにかかわっていけばよいのかは、自分で考えて自分で結論を出しなさい。パパは口出ししないから」


と伝えた。


高校生になった上の子は理解したかもしれないが、まだ中学生になったばかりの下の子には、荷が重かったかもしれない。


こうして、子供たちはそれぞれ母親と距離を縮めていった。


子供たちは、入学祝いだと言って母親からたくさんの服を買ってもらった。それからも個人的に連絡を取り、泊まりに行ったり買い物をしたりしていたようだった。


子供たちにたくさんのものを買い与えるのはいかがなものかと思ったのだが、我慢ばかりさせてきたこの数年間を思うと、見て見ないふりをしてしまうのだった。


子供たちにとっては突如欲しいものがなんでも手に入るバブルが到来し、急激に潤っていく様が見てとれた。


母親はそうすることによって子供たちとの距離を縮めたかったのだろうし、子供たちは母親に甘えることが出来なかった数年間を取り戻したいと思っていたのかもしれない。喜ばしい反面、ぼんやりとした不安もあったけど、子供たちを信じて見守ることにした。


何も言わず、子供たちが何を考え何を気付くのか、見守ろうと思った。


彼らの母親と数年ぶりに再会した時「今でもあなたのことを恨んでいる」と言われた。僕にはなぜ恨まれているのか見当もつかなかった。


感謝されて然るべきだと勝手に思い込んでいたから、意外な言葉に意表を突かれたのを覚えている。忘れてしまったことの方がはるかに多く、生活するだけにすべての精力を使い果たしてきたから、離婚当時のことがよく思い出せない。きっと僕が都合よく忘れてしまった何かについて言っているに違いないが、今更言い争うのは止めようと思った。


出来れば誰とも争わずに平和に暮らしていきたい。


だから、子供たちには母親と会わせたけど、僕はそれまでと同じようにあまり関わらないスタンスでいたのだった。


大丈夫、大丈夫。


これから先に対する不安はそれなりにあったけど、きっと大丈夫。そう思うことにした。




上の子は高校生活をスタートさせると、早速アルバイトに精を出した。


近所のセブンイレブンで夕方からバイトをし、稼いだお金で自分の好きなものを購入し、それなりに楽しんでいるように見えた。


近所のコンビニということもあり、こっそりガラス越しに仕事をしている姿をのぞいたりした。


自分の子供が働いているという姿はなんとも新鮮で「大人になったんだなぁ」と感慨に浸るのだった。


下の子は中学生になり、ずっとやりたいと言っていたバスケ部に入部した。頭はいまいちだったけど、体力と運動神経はよかったので、部活に励んでくれればいいと、それぞれ新しい生活を謳歌してもらいたい切に願った。


それぞれの新生活のためにかなりの出費がかさみ、これからは返済しなければいけなくなったわけで、何とかしなければ借金地獄で首を吊る羽目にもなりかねない。


昼間の老人福祉施設での仕事は、3カ月の試用期間を過ぎても社員に登用されることは無かった。

契約の期間は3カ月単位で、契約の延長は出来たのだが社員になれるかどうかは分からないままだった。


社員になるためには上司の推薦が必要で、いじめられっ子の僕は一向に陽の当たらない裏街道を歩かされることになっていた。


時給850円から月給15万ちょっとの固定給になったことのみが、辛うじて仕事を続けるモチベーションだった。固定給はありがたい、時給より気持ちの余裕が生まれる。


相変わらず仕事場で気軽にしゃべれる人はなく、一人黙々と仕事が終わるまでじっと我慢していた。


15万ちょっとの固定給になり、労働環境にもだいぶ慣れ、生活のリズムも落ち着いてきて、返済も月々少しずつだけどしていった。


毎月生活費として使えるお金は微々たるものだったけど、支払いの類も遅延することなく支払いが出来たし、仕事の時間が限られていたことで、子供達との時間も増え、それぞれ成長してくれたおかげで、今まで皆無だった自分の時間という物も、わずかではあるが持てるようになった。


今まで満足に食事もさせてあげられなかった子供たちのために、毎月10日の給料日には3人で外食をした。


ちょっと前に比べたら、なんという飛躍的進歩だろう。


この行事は毎月恒例となって、それぞれ時間が合わなくなってしまった僕たちの貴重な3人での時間となった。月に1度、子供たちが食べたいという物を食べに行き、ゲームセンターによって一緒にゲームをしたりした。


たまにはカラオケに行ったり、日帰り温泉施設に行ってみたり。


子供たちは大きくなったけど、僕が誘えばついてきてくれる。


万が一また貧乏のどん底に叩き落されないとも限らない、いつまでこんなことしていられるのか分からなかったから、この給料日のお楽しみはかけがえのない時間だった。


子供たちの娯楽のためにお金を使ってあげられる自分が嬉しくて「よくがんばったな、ここまで」と感慨に浸るのだった。


外食の際はいろいろな話をした。


学校の事や友達の事、勉強の事や部活の事、バイトの事や、好きな音楽、今子供たちが興味があることを聞いたりして、くだらない話でゲラゲラ笑って、店員にかわいい女子がいると男3人で盛り上がったりした。


子供たちは友達も多く、学校に馴染んでいてるようだったので安心だった。


上の子は「高校受験で苦労したから、大学受験でバタバタしないように、今からコツコツ勉強するんだ」と意気込んでいたが、半年もたてばバイトで稼いだお金で友達と遊ぶのが楽しくなり、いつの間にかいつも通りになっていた。


下の子はそれに輪をかけて勉強が嫌いだったので、早いうちから勉強を教えといてあげようかなと、中学に入学したすぐ後から、本屋で適当な問題集や参考書などを買い、晩御飯のあと一緒に勉強する時間とかを作ってみたのだが、いくらやっても一向に身が入らなかった。


上の子も下の子も、遊ぶ時間だけが増え、何かに打ち込んでいる様子は無かった。


打ち込むものと言えばもっぱらバイトと部活だったのだけど、バイトはダルイときは休んでみたり、部活も行ったり行かなくなったりになり、いい感じにだらけるようになってしまった。


これが成長の一段階なのか、思春期特有の思考なのか、一難去ってまた一難、このまままともに成長してくれるのかと、小さい時とはまた違った種類の子育ての悩みが発生していた。


上の子に関しては、ある程度自由にさせた。


今まで口うるさく言ってきたことや、行動や言動で目に余ることだったり、日常のささやかなことに至るまで、一切口出しをするのをやめた。


自分で考え、自分で行動し、自分で決める。


何が正しくて何が間違っているのか、とにかく経験して失敗して間違って、早いうちに思い知ればいいと思ったからだ。

そうやって自分自身の身をもって体験することでしか得ることができないものは、間違いなくある。


高校生になってからというもの、僕は上の子を一人の大人として扱うことにした。


下の子に関してはまだ中学生だったから引き続き気になったこといちいち口を出したし、間違っていることをしたら厳しく叱った。


下の子は「お兄ちゃんは何やってもいいのに、なぜ自分だけこんなに言われるのか」と不公平を訴えることもあり、一人親で男の子2人兄弟を育てるという難しさを感じるのだった。


それとは別に、たった一人しか大人がいない父子家庭という環境であるからこそ、厳しく接することが出来ないという場面も、逆にあったりもする。


それは、下の子が部活に行かなくなってしまった理由にも、なっていたのだと思う。




バスケ部に入った下の子は、最初のうちは楽しく部活に行っていて、家でもバスケの話ばかりしていた時期もあった。


下の子が3歳の時、お兄ちゃんが補助なし自転車に乗っている姿を見ていただけで、その日のうちに自転車に乗れるようになってしまったほど、もともと運動神経がよく体つきも恵まれていたから、1年生ではすぐに一目置かれる存在になり、試合などに出る機会もあったりしたのだ。


僕も中学の時は陸上部に所属し、3年間部活動をしたのだから、ある程度部活という物がどのようなものかは知っているつもりだった。


僕の時代は、特別親の出番など無かったと記憶している。


どこに行くにも自転車で行っていたし、部活動をするあたって親に何か特別な協力をしてもらったという記憶はない。せいぜい大会の時にお弁当を作ってもらった程度。


ところが、これが時代なのだろうか。


中学校の部活動と言えども、遠征があったり、絶対に車でなければ行けないようなところで大会が開かれたり、そのたびに親が車を出し送り迎えをする、現地集合現地解散方式。


それが、かなり頻繁にあったりする。


大人が僕しかいないわが家のような特殊な家は、そのような時は顧問の先生に送り迎えをお願いするか、仕事を休むかの2択。


現実問題として仕事をしなければならず、部活の練習や大会、遠征のたびに仕事を休むわけにはいかない。顧問の先生に頼むと言っても、実際それを頼む特殊な環境の生徒などいなくて、ほぼほぼ誰か家の人が車を出し送り迎えをする。


それが普通なのだ。


ごく普通の光景に違いない。


僕にはそれがしてあげられなかった。


上の子は美術部の幽霊部員だったからこのような問題には気が付かなかったけど、今の中学校の運動部は、親の協力がないとやっていけないらしい。


初めは顧問の先生の車に乗って行っていたのだが、下の子も気が引けるのだろう、そのうちそれらの行事には参加しないようになり、それがもとで部活そのものにも足が向かなくなっていった。


もちろん、本人のやる気の部分も多々あるとは思うが、原因の一端に、もしかしたらこの父子家庭というものがあるのだとしたら、なんて不公平な世の中なんだろうと思った。




僕は下の子の部活で、忘れられないシーンがある。


それは今でも瞼の裏に焼きついて離れないし、今思い出しても申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだ。


週末に、自転車で40分程度のところにある運動競技場まで行って、部活の練習試合があるという日。


下の子は部活に行く用意をして、家を出たのが朝8時。庭に置いてある自分の自転車にまたがりいざ出発というときに、自転車がパンクしていた。


見てみると、後ろのタイヤがパンクしていて、空気はすっかり抜けている。空気入れを持ってきて入れてみるもまったく膨らむことは無い。空気が抜けているのではなく、完全なるパンク。修理をしなければ乗れるような状態ではない。


僕が仕事に行くために自宅を出なければいけないギリギリの時間が、8時20分。


今からパンクを直す時間はなかった。


下の子は「まあ、いいよ。仕方ないからこのまま行くわ」と言って自転車に乗り学校へ向けて自転車を漕いで行ってしまった。


「今から部活休むわけにいかないから」


と言っていたけど、見送る後ろ姿は、明らかに空気の入っていない後ろのタイヤが不自然に歪み、自転車に乗っているという爽快感はみじんも感じられないようなお粗末な光景。


右に左に蛇行しながらゆらゆらと進む自転車を眺め、悲しい気持ちと、申し訳ない気持ちと、悔しい気持ちでいっぱいになった。


僕は仕方なくその後ろ姿を見送り、仕事へと向かった。


家には上の子の自転車があり、週末ということもあったので「お兄ちゃんの自転車乗っていけば?」と提案してみたのだけど「指定の自転車じゃないと乗って行けないんだよ」とのこと。


自転車通学の生徒だけではなく、部活で使う個人の自転車も中学校に登録を申請し、許可シールが張られたものでなければ使用禁止のルール。


自転車自体も学校指定の物があったのだが、自転車通学でもないのに5万円もする指定の自転車など買ってあげられない。何とか頼み込んで、学校指定以外の自転車で登録をしていた。


「自転車なんてなんでもいいだろうがよ・・・」


僕は下の子のユラユラ不安定に走る自転車を眺めつぶやいた。


何なんだ一体。


中学生で運動部に所属する家庭は、ある程度の収入があって自転車も買える、頻繁にある大会にもせっせと送り迎えが出来る大人が必ずいて、不測の事態にも常に対応できるご家庭のご子息様に限らせていただきます、みたいなルールにでもなっているのかよ。


世の中が平和なのか、一通り裕福な家庭しか存在しないのか、そもそも一人親の家庭を想定していないのか、学校や部活動のあり方に甚だ疑問を感じたのだった。


そろいのユニフォーム、そろいのTシャツ、そろいのウインドブレーカー、クソ食らえだよ。


そんなものなくたって、部活やらせてくれよ。


買えないんだよ、そんなこと言われても。


不公平だ、理不尽だ、世の中間違っている。


その日は1日下の子の後ろ姿が瞼に焼きついて、仕事が手につかなかった。

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