16/6/13
【第34話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

とても時給850円の昼間のバイト暮らしでは生活を維持できなくなっていた。それでなくても春には高校生と中学生に進学する。
一体どれくらいのお金がかかるのか、考えただけでも背筋が寒くなる思いなのに、何もせずに手をこまねいているわけにもいかない。少なくともある程度のまとまった金は必要だろう。
昼の仕事は遅くとも18時までで、そこからバイトをもう一つ増やすことは可能なのだけど、僕にはただ空いている時間に自分の都合で仕事を入れれば良いというわけにはいかない。
そのほかのことはさておいたとしても、子供たちに毎日ご飯を作ってやるという仕事は引き続きある。ここまで来たら、インスタントや弁当に頼るわけにはいかなかったし、父子家庭になって、どんなことがあってもこれだけは止めずにやってきたわけで、ここまできても生活の中心に考えていきたかった。
子供たちに手作りのご飯をどんな時でも休まず作り続ける。これは自分で決めたことだ。
何のためにやっているのか、どのような成果を見せるのか、子供たちの人生や人間性にどのような影響を及ぼすのか全く分からなかったけど、今更やめられない。
仕事が終わり家に戻るのが18時半、そこから晩御飯の支度をし、食べ始めるのが19時過ぎ。最短で19時半からなら仕事を増やすことが可能に思われたが、受験生を残して親がそんなに家を空けているというのも気が引ける。
後片付けをしながら勉強を見てやり、子供たちが各自の部屋に戻る21時までは家にいようかと考えた。
21時過ぎてしまうと、今度は収入が少なくなってしまう。まさか朝までは働けまい。
必然的に仕事を増やすとしても夜間帯から深夜にかけて。とりあえず21時から深夜1時くらいまでの仕事を探してみることにした。
仕事探しは主にレストランチェーンに限られた。今更新しい仕事を覚えられる気がしなかったし、体もそれなりに疲れているのだから慣れた仕事の方が良いと思った。牛丼チェーンやラーメンチェーン、ファミレスなど何社も履歴書を持って面接に行ったけど、時間帯が合わなかったり、年齢的な事だったり、昼間働いての夜のバイトということだったり、様ざまな理由はあったのだが、仕事を増やすということはなかなか簡単ではなかった。
時間的な制約がある上に、年齢はそろそろ40歳になろうとしていた。
どの店舗も高校生や若者が圧倒的で、仕事を探しながらだんだんとみじめな気持ちになっていくのだった。
僕はいったいいつまでこんな生活を続けなければならないのか。
それでも、生活のため、子供たちの未来のために仕事を増やさないという選択肢はない。お金がないのに四の五の言っている場合ではない。
夜の仕事を探しはじめて1カ月くらい経過したところで、とあるハンバーグチェーンで21時からラストまでというバイトにありつくことに成功した。仕事はシフト制で、2週間ごとにシフトが組まれる仕組み。その都度都合の悪いところはチェックしていく。ハンバーグチェーンの厨房で、高校生のバイトが帰る21時からラストまで。閉店の準備が主な仕事だった。
季節は真冬。2月の寒空の中、仕事終わりにせっせと家事を済ませ、身支度をして21時からバイトに出かける。
家に戻るのは深夜1時半。
寒い・・・
気が付かなかった。
仕事に行くときでさえ氷点下の北関東、帰りともなれば体は芯から冷え切ってしまう。わが家は経済的理由により、真冬でも湯船は溜めない。
シャワーだけで生活しなければならないことになっており、真冬の深夜のバイト終わり、冷え切った体を温める風呂はないのだけれど、シャワーなど浴びようものならさらに体が冷え切ってしまい、とても眠れたものではない。
仕事が終わって家に戻ってしばらく冷え切った部屋で炬燵にもぐり、ある程度体を温めてから思い切ってシャワーを浴びる。ガタガタと震えながら急いで布団にもぐりこむのだが、冷たいせんべい布団までもがささやかな体の熱を奪い取り、布団のなかで1時間うずくまって震え、ようやく眠りにつくようなつかないような。
ここまでは考えてなかった。
北関東の真冬の寒さを、想定に入れていなかった。
働ける時間が深夜帯だけだったからそこにバイトを入れてみたものの、その生活は過酷を極めてしまった。
昼間の老人福祉施設でのバイトは、3パターンのシフト制で、最も朝が早い早番というシフトの時は、朝6時から仕事が始まる。車で15分のところに職場があるわけだから、家を出るのは5時半過ぎ。ということはどんなに遅くとも5時には起きなければいけない。
深夜のバイトが終わり家に戻るのが1時半、そこから炬燵で体を温めてからのシャワーを浴びて、さらに布団で1時間震えるわけだから、ようやく眠りについたとしても深夜3時半とかになっている。
仮に熟睡したとしても、僅か2時間。
とうてい熟睡などできるはずもなく、深夜のバイト終わりで次の日が早番とかいうとんでもないシフトの時は、ほぼ眠ることなく仕事に向かった。
真冬の朝は夜明けが遅い。
真っ暗闇の深夜1時半に帰宅し、真っ暗闇の朝5時半に家を出る生活。
ひどく体は疲れていた。
どちらの仕事も始めたばかりということもあり、仕事の都合をうまく調整して2つの仕事のシフトを組み込むことが出来ない。
だから時折こんなことになってしまう。
ハンバーグチェーンのバイトは難しかった。
体が疲れ果てていたからなのか、年齢的なものなのかは分からないけど、とにかく仕事を覚えられない。慣れているはずの飲食店での仕事が、全く覚えられなかった。
20代前半の店長に怒られながら、高校生のバイト生に仕事を教わり、ベテランパートのおばちゃんにここでも嫌味を言われる日々。
チェーン店ならではの細かなマニュアルであるとか、豊富な商品であるとか、見たことのない機械であるとか、昼間の仕事でもはや手一杯の状態だったのに、さらに覚えることが山のように出てきてしまった上に、年下のどう考えても僕より料理は出来ないだろと思われる人たちに怒られる毎日。
正直、これには傷ついてしまった。
家に帰れば体を温めることも食事をとることも、眠ることさえままならない。
昼間の仕事でも、毎日しゃべる相手もいないストレスや厳しく指導され嫌味を言われる日々、頭の中がパンクしそうで気が狂いそうだった。
お金がないというのは、これほど悲惨なのか。
死んでしまった方がマシなのではないかとも考えてみるのだけれど、そう簡単に死ねないことはもう知っている。
ほとんど寝ていない頭と体を引きずって、毎日どうにかこうにか生きていたけど、その仕事の両方でミスが続き、仕事は覚えられない上に迷惑をかけ続けていた。
子供たちのことも見ていられる時間がほとんどなくなって、顔を合わすのは晩御飯のみ。昼間の仕事が早番や中番の時は、朝ご飯を用意して僕の方が先に仕事に出かけてしまうので、顔を合わすことがない。
朝から深夜まで休む暇のない生活。それでも稼げるお金は深夜のバイトでせいぜい4万円。
朝から晩までせっせと働いて20万円も稼げない。体はボロボロだけど何をどうして良いのか分からなかった。
とりあえず、我慢。
父子家庭になってずっと言い聞かせてきた呪文のような言葉。
いつか必ずいいことある、だから、ガマン、ガマン。
せっかくうつ病を克服したというのに、またしても僕の精神は崩壊寸前だった。
我慢の限界など、とうに過ぎている。
思春期を迎えた子供たちとの会話もだんだんと無くなり、昼間仕事に出かけてもしゃべる相手はいない。
深夜のバイトでも、なぜ40男が深夜のバイトなどしているのかという部分の説明なしでは、誰かと打ち解けるなど無理だ。
僕は孤独だった。
誰にも頼らないと決めたけど、ボロボロになった体を引きずり、孤独な毎日はまたしても精神を蝕むのだった。何かで気分転換を図らなければ、いつまでたっても同じことの繰り返しだ。
数年前から気の向くときだけ、子供たちの成長の記録にとブログを書いていた。
特に意味のない暇つぶしの一環。
そのほとんどは今日作ったご飯の写真と簡単なレシピを載せるだけのもの。特に誰かが見ているわけでもなく、自己満足なだけのブログを書いていた。
誰かと会話、というわけではないが、このブログを書くときだけが唯一1日のうちでだれかと話をしているような感覚。もちろん独り言には違いないのだが、今日自分が思ったこととか、子供たちに対して感じたこととか、正直な気持ちを綴っていたのだ。
ほとほと疲れ果てた僕は、息抜きというか気分転換というか、ストレス発散というかただの愚痴というか、自分の中で溜め込んでいる負の感情をどこかに吐き出したいと思うようになった。
そこで思いついたのが、ほぼ誰も見ていない自分のブログ。
どうせ誰も見ていないんだ、ここに毎日の愚痴を書きなぐってやろうと思った。
ブログというのは、見ようと思えば世界中の人が閲覧可能なわけで、考えようによっては、全世界に自分の気持ちを発表しているに等しい。
ただ、誰も見に来ないだけだ。
個人的に紙媒体を使って日記を書くのとは違う、一応世界中に発表しているという体が、なんとなくストレス発散しているような勝手な満足感で、良い気分になるのだった。
誰も見ることのないところで一人愚痴っているわけではない。全世界に発表して愚痴っているのだという男らしさの爽快感が、なんだかだんだん気持ちよくなってきて、僕は毎日せっせとブログに日々の愚痴を書き込みストレス発散していた。
大の男が正当に愚痴を言う理由付けを、自分の都合よく解釈しただけだ。
「誰も聞いてくれなくてもいい、俺は言いたいんだ、ここで言う権利があるんだ、俺には」と。
そんなこんなでブログで子育ての愚痴や仕事の愚痴、日々の出来事やその日作った食事などを載せ毎日更新した。
これがこの時、僕の唯一社会とつながっていると感じさせてくれるツールで、つながっている感はあるけど僕がどこの誰かも分からないわけだし、誰も読みはしないのだから、思っていることを正直に書くことが出来た。
おかげで、精神のバランスは徐々に保てるようになってきたのだった。
やはり愚痴を溜め込むのは体に良くない、ブログに書くだけでもだいぶ違う。
毎日訳の分からない愚痴を書き連ねていたら、なぜかそれを読んで応援してくれる人がちらほら出てきたりした。
世の中というのは不思議なものである。
父子家庭というキャラクターも珍しかったのだろうけど、僕はひょんなことからネットでちょっとした有名人になった。
毎日愚痴をこぼし、毎日手作りの食事をアップした。
たったこれだけの事だったけど、1日のアクセスは500くらいになって、コメントなども日に何件ももらえるようになった。批判的なコメントも多々あったけど、おおむね応援してくれる人の方が多くて、見ず知らずの人に励ましてもらったりした。ひとりじゃないということは、こんなに心強いものなのか。僕は毎日ブログで誰にも言えない胸の内を書き連ね、ストレスを発散することにしていた。
それに伴い、次第に読者も増えていった。
ブログを書いてストレスの発散にはつながっていたのだけれど、40歳を目前にして体力の衰えは否めない。どんどん大きくなる子供たちにも手を焼いていたし、さすがに昼間と夜のバイトは体に悪い。10代や20代のひとり者でもあるまいし、こんな生活ができると思った自分が馬鹿だった。
考えてみたら、もう40歳になる。時間は確実に流れているのだ。
深夜のバイトは2カ月で辞めた。
辞めたというか、辞めてやった。
真冬に仕事を掛け持ちし、ご飯は1日1食で休む暇もなく、冷えた体を温めることもままならなかった僕は、何年かぶりに体調を崩した。
具合が悪くなったらだけで生活が出来なくなるのだから十分注意はしていたつもりだったけど、それを上回るハードスケジュールと精神的苦痛によって、体調を崩したと思われた。
下痢と発熱と嘔吐、おそらくインフルエンザかノロウイルスの類だったと思う。
老人福祉施設は体調不良を理由にお休みを頂いたのだが、深夜のバイトはそうはいかなかった。
老人福祉施設もバイトの身分で有給があるわけでもなく、欠勤となると収入が減るから嫌なのだが、とても仕事などできる健康状態ではなかった。
にもかかわらず、だ。
その日は運悪く21時からバイトのシフトに入っていて、どう考えても仕事にいけるような体調ではない。30分に1回嘔吐と下痢を繰り返し、冷や汗をかきながらガタガタ震えている有様。
やっとの思いで携帯を持ち出し、ハンバーグチェーンの20代の店長に電話してこう言ってみた。
「す、すみま・・・せん、た、体調が・・悪くて・・今日のしご、仕事を・・・休ませていただき・・たいのですがぁ・・」
息も絶え絶えである。
そしたら、こともあろうにその店長、こう僕に言い放った。
「休むのは構いませんが、代わりの人を自分で見つけてください。こっちとしても急に言われても困ります」
と。
「いやぁ・・・バイト先で・・連絡先、知ってる人・・・いないんで・・・」
深夜のバイトでは、誰とも口をきいたことも無い。
「それは知りません、代わりを見つけられないようなら出勤して下さい」
「はぁ・・でも、感染症・・・かもしれません・・よ。嘔吐と下痢と・・・」
言うが早いか店長は
「僕は今日は出勤日ではありませんので、お願いします」
と言って電話を切った。
あ、そう・・・分かったよ、そこまで言うなら行ってやるよ。
代わりなんて見つけられないんだから、どうせ。
こっちはインフルエンザかノロだぞ、どうなっても知らないからな。
猛烈な吐き気の中、車に乗って出勤した。
仕事に入るや否や、トイレに駆け込み嘔吐を繰り返す。厨房に入っても立っていられないし、とても仕事どころではない。何度も何度もトイレに入り、下痢と嘔吐を繰り返していたら、さすがに見かねたパートのおばちゃんが「後はなんとかするからとっとと帰れ」と僕に言った。
とにかく、言われた通り責任は果たした。周りが受け入れなかったから帰るだけだ。
帰り際「そんなに体調悪いのに仕事なんかに来ないでよ、ここ飲食店だよ」と怒鳴られた。
ごもっともだ。
その点に関しては異論のかけらもなく、まったくの同意見である。
僕はこうして、この日を境にこの理不尽な、そして不衛生で利己的なハンバーグチェーン店を辞めた。
体力も続かなかった。
ちょうど上の子の受験と下の子の中学進学が重なり、学校に行って面談をしなければいけなかったり、準備するものや決めなければならないことも頻発し、それどころではなかった。
お金は必要だけど、お金を稼ぐことよりも、子供たちの人生に悔いを残すのはそれ以上にやってはいけないことだ。
受験生ともなれば三者面談は毎月のようにあるし、成績如何によって進学先の高校も決めていかなければならない。年明けには受験する県立高校を確定させなければならず、それと並行しての夜中の仕事掛け持ちは、現実的に無理があった。
昼間の仕事と夜のバイト、家事をこなしながら学校にも行かねばならない。
せっかくやる気になっている上の子のためにも、出来る限りのことをしなければいけないだろうし、それが出来るのは僕だけなのだから。
出来る限りのこと、といっても、実際には僕にできることなど限られていた。
お金がなければ、学校にも行かせてあげられない。
上の子の高校受験の年は、民主党政権による高校無償化政策最後の恩恵の年で、是が非でも県立高校に進学してもらわねば困る事情だった。
これは、明らかに親の、個人的事情である。
下の子は中学進学を控えていて、進学に伴いそろえなけければならないものがあり、そちらもおろそかにはできないし、3年後にはやっぱりまた高校受験で進学という流れは目に見えていた。
上の子に比べて勉強嫌いな下の子は、県立高校に行けない可能性は無きにしも非ず、仮に私立に通わせるとなると、その莫大な授業料をどうやって賄うのか。
先を考えれば果てしなく不安になり、大学進学、専門学校・・・もう気が滅入りそうだった。
おまけに仕事は先の有様で、金を稼ごうにもうまくいかない。
かくなる上は、まずは上の子だけでも高校無償化の恩恵に授かりたく、進学の県立高校選びも、担任の先生が「ここなら大丈夫」と言ってくれるところまでランクを下げざるを得ないのが現状だった。
本当に、可愛そうな話だ。
僕は親として子供たちに、思いっきりチャレンジさせてやることもできないのか。
挑戦をして、挑んで、それに向かって努力をし打ち勝った者だけが味わうことの許される達成感、その感動を、親の懐事情で子供に味あわせてあげることも出来ない。
情けない話である。
たった一人父子家庭として子供たちを育てていく中で、自分の無力さや惨めさを思い知らされる瞬間は山のようにある。
そのたびに落ち込み、悩み、詫び、子供たちとどう向き合い、どう育てていけばよいのか熟慮してきたつもりなのだけど、先立つものも協力者もいない僕にとって、それは永遠に答えの出ない難問だった。
「お前は全然頑張ってない」
そう言われればそんな気もしてくるし、自分なりに精いっぱい頑張ってきたと思えば、そんな気もする。
でも、どんなに頑張っても現状お金はなく、援助してくれる人もいない。
「こういう時って、親としてどうすればいいのかな」
と聞く人さえいない。
本当にごめんねと心でつぶやき、何度も何度も心で詫びて、上の子には第一志望の県立高校は断念してもらった。
僕の下した決断は、親として失格だろうか。
なんてひどい親なんだと考える人もいるに違いないが、この決断以外に生きる道は無いように思えたのも、また事実だ。
当時上の子が第一志望にしていた県立高校は隣町水戸の高校で、今の成績からしたら合格率は50パーセントと言われていた。人気のある高校だったために、志望する人数も多く、成績も微妙なラインだったために、回避せざるを得なかった。
上の子は、僕の申し出を了承してくれた。
このころになると、わが家の経済事情も何となく把握できる年頃だったのだろう。上の子は自宅から自転車で通える、第一志望の高校から3ランク下の県立高校を受験すると言った。
彼なりに考えての結果だったと思う。中学3年生で考えなければならぬ事情ではなかったにせよ、投げやりになることなく、前向きに決断してくれた上の子には感謝してやまない。
担任の先生からは「成績から考えるに、よほどのことがない限り落ちるということは考えられません、普通にやれば100パーセント合格でしょう」と言われた。
1年前までは悪事の限りを尽くし、高校など夢のまた夢だった上の子が、1年後には高校を選べるまでに努力してくれた。
親の事情で志望校は変えたけど、僕は彼が誇らしかった。
「本当に、これでいいか」
あえて、念を押した。
それは、父子家庭というへんてこな人生を選んだ僕が学んだこと。
どんな時でも、どんな状況でも、自分で考え自分で決め、自分で責任を取らなければ先には進めず、仮に不本意だとしても、今置かれている環境でベストを尽くす。これが出来なければ、いつか必ず後悔することを僕は知っている。
勝手な言い分かもしれないけど、人のせいにして嘆くだけの人生を送ってほしくはなかった。
彼が選んだ人生は仮に不本意なものだったとしても、自分で決めたという覚悟、そして自分で決めたということに誇りを持って、どんな時でも諦めることなく前に進んでもらいたかったし、そんな人間になってほしかった。
いつか必ず一人で生きていかなければならなくなる彼らに、自らの決断に自信を持ち、胸を張って生きて行ってもらえるように。
県立高校の受験日は仕事を休んで送り迎えした。担任の先生には100パーセントと言われていたけど、何があるか分からない。祈るような気持ちで試験が終わるのを待っていた。
15時半過ぎに試験が終わり、校舎から出てくる上の子を見つけ手を振った。
「どうだった、試験は」
至って冷静に、あえて興味もなさそうに聞いた。
父親と息子は、この程度の距離感がちょうどいいと、僕は信じている。
「あぁ、出来たよ、受かったと思う」
上の子もさして興味はなさそうに装って、言った。
「そうか、よく頑張ったな、ま、たとえ落ちたとしても私立行かせてやるから、金のことは心配するな、俺がなんとかするから」
「ありがとう、でも、受かってるよ」
上の子は自信満々に言い切った。
聞けば、英語の長文が完璧に読解できたというのだ。試験終わりに同級生に聞いてみても「今回の英語は難しかった、特に長文は難しかった」と言っていたというのだ。
なのに自分は手に取るように長文が理解できて、答えも全て分かったとのこと。
「パパに長文読解教えてもらってて、よかったよ」
何気ない一言だった。
瞬間、車の中で涙がこぼれそうになったけど、歯を食いしばってこらえ、場違いな冗談を言った。
歯を食いしばってこらえる涙は、何回も経験したことがある。辛くて悲しくて悔しくて、こぼれそうになる涙をまだ大丈夫だと言い聞かせて、歯を食いしばってこらえてきた。
でも、これは違う。
心の奥底からこみ上げる涙は心地良い感覚で、失くしてしまった、とても大事にしていた宝物が見つかった時のように、ありがたく、温かいものだった。
この暮らしをして初めて味わう感覚が、僕に大切な何かを思い出させた。
生きることのすばらしさ、子供を育てる壮大さ、そして何よりも、成長するという偉大さ、自分が誰かの役に立っているという喜び。
もしかしたら僕はそのすべてを独り占めできる、世界で唯一の人間なのかもしれない。
父子家庭になって、考えられるすべてのものを失った。何もかもを失い、それでもはいつくばって生きてきた。
心の中は隙間だらけになって、まともな感情さえもよくわからなくなってしまったけれど、もしかしたらこれからは、こうして子供たちが少しずつ、僕の忘れてしまった感情を拾い集めてくれるのではないのだろうか。そう思えたことで涙がこみ上げてどうしようもなかったけど、なんとか歯を食いしばってこらえた。
父親と息子は、このくらいの距離感がちょうどいい。
県立高校には無事合格した。
合格発表の日、車で一緒に高校まで見に行った。
駐輪場の前の掲示板に張り出された白い大きな紙に、合格者の番号が張り出されている。
僕は車の前で待っていて、ひとりで見に行かせた。
合格していたのに、上の子は僕を驚かせようとわざと肩を落としてこちらに歩いて戻ってきた。
「どうした・・・ダメだったのか・・」
いつの間にか遥かに身長の大きくなってしまった上の子は、恐る恐る聞いた僕の肩に手を置き、
「合格しました」
とおどけた。
驚いた顔をしてから安堵の表情に変わった父親の姿を見て、満足げに笑った。
何年ぶりだろうか、上の子の体を抱きしめ「よく頑張ったな」と声をかけた。
その時はお互いの顔が反対側を向いていたので、僕はほんの少し涙をこぼした。