16/6/7
【第26話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

季節はすっかり夏になり、自転車での通勤も苦ではなくなったのだが、8月の猛暑の日などは、炎天下の午前中、40分自転車を漕ぐだけで汗だくになるのだった。
時給780円で週5日6時間。何だかんだ引かれて手取り9万円ちょっと。毎日自転車でせっせと通ってはいたが、この給料では子供たちにテレビなど買ってやれはしない。
転職して今よりも時給の良い仕事場を見つけ、長い時間働かなくてはならない。そうは言っても働ける時間帯が限られているので、その時間を目いっぱいアルバイトに充てられる仕事で、休みを週2日から1日にする。
これで何とか当面仕事をし少しずつお金を貯めるしかないだろう。そんな都合よく仕事が見つかるとは思えないかったけど、どんな時でも、今自分が置かれた環境でベストを尽くす。
子供たちに常々言って聞かせていることだ、やるしかない。
求人はあるにはあったのだが、そのほとんどが居酒屋かパチンコ屋かすでに面接で落ちているところで、僕の働ける条件という物を考えるとやはりそれほどの選択肢はない。新たな仕事場探しは想像通り困難を極めた。
毎日アルバイト情報誌を眺め、新聞の折り込みをチェックし、インターネットの求人サイトを閲覧した。
それでも転職をするという決断に至るまでの職を見つけることが出来ないでいた。
車がないというのが職探しの大きなネックになっており、自転車か徒歩で通える範囲の場所での求人は、そう多くはない。車がなければ生活していくことなどできないであろう程の田舎なのだから、当然誰もが車を持っている体で求人しているのだ。
ただ唯一今までの職探しと違うところは、安定というにはほど遠いが毎月僅かばかりの収入があり、明日もまた仕事に行くことが出来るということ。
アルバイトではあったが、仕事を持ちながら次の仕事を探せるという環境は、ほんの少しではあるが自分自身前に進んでいるような気がしていた。
うどん屋の仕事も最初は雑用しかできなかったけど、洗い場を任されるようにり、それもある程度こなせるようになったらうどんを打たせてくれるようにもなった。盛り付けや天ぷらの仕事もさせてもらえるようになったし、もともと高校を卒業してからというもの調理の仕事しかしてこなかったわけで、コツさえつかめばこの程度のアルバイトどうってことは無い。どんどん仕事を覚えさらに新しいことを教えてもらった。
数ある仕事の中でも、とりわけうどんを打つポジションは楽しかった。お客がひっきりなしに訪れるからとにかく大変だったけど、小麦粉を練ってプレスして裁断してうどんを茹でるという過程は集中を必要とし、ほんの一時ではあるが、時間を忘れて没頭できるこの仕事はありがたかった。絶えず頭の中は不安と迷いと焦りでいっぱいだったから、よい気分転換にもなっていたりもしたのだ。
そんなこんなしているうちに、うどん屋の仕事もだんだん慣れてきて、話ができる友達も見つかり、楽しくなってきたりもして、それはそれで落ち着いてしまっていた部分もあった。
このまま、ここでアルバイト暮らしでもいいのではないか、という疑問も絶えず持ち合わせていて、新しい職場に30半ばのおじさんが転職するということは、なかなか簡単なことではない。
仕事を探すだけでも相当のストレスだし、自分の環境でできる仕事がないという現実も受け入れがたかった。
うどん屋で仲良くなったおばちゃんたちから食事に誘ってもらったり、野菜を分けてもらったり、それなりに楽しくやっていたから、また仕事場を変えて新しい環境で仕事を覚え、新しい人たちと新しい関係を作っていくのが、今更なんだかとても面倒なことのように思えるのだった。
30過ぎのおじさんがアルバイトというだけでも、そうとう好奇の目で見られるわけで、根掘り葉掘り聞かれたらある程度は自分の素性を話さなければならないだろう。それを受け入れてくれる職場なのか、好意的に思ってくれる人たちなのか、そんなことを考えると、どんどんどんどん憂鬱になっていくのだった。
しかし、今のままの生活ではテレビも買えないどころか、いつかまた破たんしてしまうだろう。圧倒的に収入より支出の方が多いのだから。
環境を変えなければ新しい道が開けないのも、また事実だった。
僕のささやかな決断の一つ一つが、子供たちの人生を左右する。それがたった一人で挑んだ父子家庭という生き方だった。
誰に相談することも出来ず、どの道を進めば正しい道なのかもわからない。そんな暮らしの中で、どうすればいいのか、どの道を選択すれば子供たちのためになるのか、そればかりを考えていた。
新しい職場の候補地として、自転車か徒歩で通える範囲内から、思い切って隣町の水戸市まで広げてみることにした。
さすがに候補地が狭すぎていくら探しても埒が明かないということで、茨城県の県庁所在地水戸市に仕事探しを託してみるのだった。
運がよかったことに、自宅は最寄りの「勝田」という駅から比較的近いということもあったし、その「勝田駅」に向かうローカル線の駅が目と鼻の先というロケーションだったため、交通費の支給があるバイト先なら、電車に乗のってさほど苦も無く行けるのではないかと考えたからだ。
最近どうやら水戸駅の南口が再開発され、大きな駅ビルが完成したという噂は耳にしていた。
水戸駅内の店ならば、水戸に着いてから歩く必要もないし雨にも濡れない。駅ビルだから電車通勤にも便利なのではと思ったのだ。
僕はさっそく求人情報誌をめくり、水戸市のアルバイトを探し始めた。数件の求人があったのだが、どれも似たり寄ったりで決めかねていたのだが、そんな中で1件、僕の目に留まる求人があった。それは、水戸駅南の駅ビルに入る飲食店で、その求人には「新規オープンにつき追加スタッフ10名募集」といった感じで書かれていた。
僕の目に留まったのは、新規オープンの方ではなく、10名募集の方だった。
1名しか採用しないアルバイト先では僕が勝てる見込みは少ないだろう、しかし、10名となればチャンスありなのではないかと、淡い期待を抱いたからだ。
早速書かれていた電話番号にかけ、担当者に面接してほしい旨を告げると、曜日と時間と場所を指定され面接の運びとなったのだった。
自転車に乗っていても時たま秋を感じさせる涼しい風に吹かれるようになっていた9月の上旬に、水戸駅南口にできた駅ビルのレストラン街にある1つの飲食店に履歴書を持って訪れることにした。
まだうどん屋の仕事は続けていたので、休日を利用しての面接にしてもらった。
定食屋のような雰囲気、新潟から直送の米と魚を使った料理が売りでフランチャイズ展開を目論みながらの駅ビル初出店らしく、オーナーは新潟の米屋ということだった。なぜ新潟の米屋が水戸の駅ビルにテナントを出店しているのか甚だ疑問だったが、余計なことかと思い直した。
15時過ぎのお客が引いたタイミングで面接は設定されていて、到着するとすぐに奥の個室に通された。しばらく待たされた後、マネージャーを名乗る、年のころは僕とさして変わらないスーツ姿の男性が面接官として現れ、履歴書に目を通し、希望の条件を聞かれ、簡単にどのような仕事なのかの説明を受けた。父子家庭で一人で子供たちを育てていることも告げたし、これ以上遅くまでは働けないという時間も伝えた。それでいて週にこれだけの時間は働きたいとか、まだ仕事をしているのでその仕事を辞めるのに2週間程度の時間がほしいとか、こちらの個人的な事情もすべて話たうえで、意外にもあっさり話がまとまった。
マネージャーを名乗る男の人は、ひとしきり僕の境遇に感心しきりで、一定の理解を示してくれた。その上でできる限り協力したいと思いますなどど言われて、後日改めてご連絡いたしますとかいうことになり、数日後の電話をもらい晴れて採用の運びとなったのだった。
自分でも拍子抜けするくらいあっけなく転職先が決まり、どうせ落とされるだろうと思っていたので慌ててうどん屋の店長に9月いっぱいでアルバイトを辞めたい旨を伝え、10月頭から新しい職場へと転職することにした。
震災で仕事もお金もなく、子供2人を抱えた父子家庭の30過ぎの僕みたいな物に仕事をくれて生活をさせてくれたこのうどん屋と若い店長には感謝して余りある。ただ、このままここにとどまってもいられない。どうしても先に進まなければならない事情が僕にはあるのだった。
うどん屋の仲間は、みんな寂しがってくれて「別なところ行っても頑張るんだよ、子供たち大切にね」と声をかけてくれた。
長袖を羽織らなければ肌寒くなってきた10月の頭から、新しい職場での生活が始まった。
それは高々、時給にして70円アップのための転職だった。
勤務地が水戸ということで、勝田から水戸までの電車賃は交通費として全額支給してもらえることになった。あわよくばと思い、勝田駅まで通っているローカル線の電車賃も交通費として認定してもらおうと思ったのだが、さすがにそれは認められなかった。
勤務時間はシフトになっていて、基本的には10時から17時まで。土日祝日とかその他繁忙期は9時から17時、または18時までの勤務。お昼はメニューの中のものなら何割引きかで食べられると言っていたが、何割引きでも数百円はしたので、食べないことにした。
時給は850円。
ざっと計算しても月10万はもらえるだろう、ほんの少しずつではあるが収入はアップしている。これでいい、少しずつでも前に進めればそれでいい。
仕事の内容は厨房内での作業で、入社当初は洗い場だったが、数日もしないうちに調理担当の一角を任されるようになって、魚を焼いたりから揚げをあげたりした。
新潟から直送だというホッケと黒酢をベースにしたタレを絡めたから揚げが一番人気で、1日中魚を焼きながらから揚げを揚げていたりもした。
仕事は単調であまり面白くはなかった。
厨房には僕以外に2人の男性がいて、2人ともオープンから働いているのだそうだ。どちらもアルバイトらしく、1人の人はいずれ自分の店を出すためにいろんなところで働いてみながらお金を貯めていると言い、もう1人の人は司法書士になるために日々勉強中なのだそうだ。2人とも僕より少し年上で、慣れて来たらよく面倒を見てもらった。
他にもパートのおばちゃんや若い高校生のバイトなどたくさんの人が働いていたが、僕と同時期にアルバイトとして入社してきたものはなく、10名募集の求人はいったい何だったのかと思った。フランチャイズ展開を目論んでいる割には管理がずさんで、本社から派遣されてきている店長は、料理未経験の人だった。
働き始めてすぐから、なんだかおかしなところがちらほら見受けられる店だったが、まあ、こんなもんかとあまり気にもしなかった。どうせ長くいるつもりもないし、しばらく働いてまた落ち着いたら仕事を探し転職するつもりでいた。僕にとっての興味は、時給が850円ということと、希望通りのシフトに入れるという点のみだったので「こんな店でも駅ビルのテナントに出店できるんだなぁ」などと大きなお世話も感じていたのだが、正直そんなことはどうでもよかった。
食材の仕入れや管理もいい加減で、作っている料理も素人感覚、仕事中の飲み物は炭酸水なら飲み放題で、とことん環境に流されるタイプの僕は気合入れず仕事は適当にこなしていた。遅くても18時までの勤務だったから見たことは無いのだけど、夜になると居酒屋風に営業形態を変えるらしく、お酒も充実していた。ウイスキーと炭酸水のサーバーが備え付けられていたので、仕事中にいつもこっそり飲み放題の炭酸水の中に少量のウイスキーを入れたハイボールを、勝手に作って飲んでいた。
仕事にもすぐに慣れ、一緒に働いている人たちとも問題なく打ち解けた。働く時間が長くなったし、距離も遠くなったから体もきつくはなっていたけど、こうして仕事があるだけで感謝するべきだと思っていた。
仕事でいくら大変だとか体がきついとかいっても、5年間もたった一人で子育てをしてきた僕にとって、仕事などどれをやってもむしろ楽なくらいだった。
休憩時間はただぶらぶらして過ごした。お金もないから駅ビルの別のテナントをぐるぐる回って見たり、電気屋のマッサージチェアで居眠りをしたり。時たま天気の良い日などは外に出て学校帰りの高校生とか、サラリーマンをずっと眺めていた。椅子に座り、ただぼんやり時間を過ぎるのを待つだけの休憩。行き交う人たちがみな幸せそうに見えた。こうして一人で街を眺めるなんていつからしていないだろう。
華やかな服を着て、みんな楽しそうに大声で笑いあっている。そういえば最近あまり笑っていない。駅ビルの並びには映画館もあり、その建物の壁には大きなモニターがあって、そこには最新映画の宣伝や、流行りの歌手がリリースしたPVなんかが流れていて、それを眺めてみたりする。テレビの無い生活をしている僕にとって、流行りの歌手も最新の映画も、初めて見るものばかりだった。
特にこれといって楽しいことも無いのだが、一人になれる時間は貴重だった。
一人の時間は僕にそれなりの安らぎを与えたはくれたが、街を行き交う人々とはやはり住む世界が違うように感じられ、自分ひとりだけが世の中から取り残されてしまったかのような錯覚を覚えるのも事実だった。
目に見える範囲だけでもたくさんのお店があり、食べるものも飲むものも娯楽商品も、見飽きるほどあるのに、そのどれもが僕には手の届かない物であり、水戸駅南口のロータリーの角にあるパン屋さんと向かいの喫茶店から漏れるいい匂いに、改めて空腹が身に染みるのだった。
ガラス越しに見える喫茶店でお茶を飲みながらケーキを食べる女性客と僕との間には、いったい何があるのか、なぜ自分だけがこんな暮らしをしなければならないのか、考えても無駄だということは分かっているのだが、空腹の中で考えれば考えるほど、街の景色がぼやけて見えるのだった。
ご飯はおろか、飲み物を買うことすらできない。のどが乾いたらトイレに行って水を飲んだ。
みんな死ねばいい。
空腹で朦朧とする頭で、いつも思っていた。
仕事の行き帰りが電車になったので、その時間は本を読んだ。
テレビがなくなってからというもの、図書館で本を借りてきて読み漁っていた。もともと本を読むのが好きだったので、家にいてふとした時間とか、行き帰りの電車の中とか本を読んだ。いままでダラダラテレビを見ていた時間を使って読書をする。これで時間を有効利用しているのだと、テレビの無い生活を自分なりに肯定したりしていた。
本当は本屋に並んでいる新刊を買って読みたいところだが、そんなお金はない。話題の新刊はもっぱら仕事の休憩時間に立ち読みすることにして、普段は図書館で借りた昔の名作を読んだ。
なにか少しでも毎日自分のためになるようなことをしなければいけないと思っていた。そうでもしなければ、社会の一員であるということすら忘れてしまいそうで、いつの間にか自分が自分でなくなってしまうような気がしていたからだ。
他人と関わることが特別好きなタイプではなかったし、関わったとしてもお金がかかるだけで、今の僕には人付き合いさえぜいたく品だった。だから電車の中で物思いにふけって読むこの読書の時間が、意外と気に入っていたのだ。
仕事の時間が長くなって、行き帰りにも時間がかかるようになったので、子供たちの晩御飯の時間が遅れるようになってしまった。
駅から自転車での帰り道、途中何時ものスーパーによって買い物をして子供たちにご飯を作る。18時まで仕事が入っている日は、家に着くのが19時過ぎ。そこから晩御飯を作りだして食べるのは20時。洗濯物を干してしまわないと寝ることが出来ないので、毎日23時ごろまで家事に追われた。
若干給料が上がったとはいえ、日々の暮らしは一向に楽にならなかった。
それは、子育てにおいての方向性が変わってきつつあったから。
どんどん成長する子供たちによって、生活パターンが変わってしまうのだった。
上の子は中学2年生になって半年が過ぎ、学校生活にも慣れて、すっかり成長期というか思春期というか反抗期にさしかかり、自分を監視する唯一の大人である父親が毎日仕事でいない、帰りの時間はだいたいこれくらいだと分かるようになると、一通り悪いことをし始めるのだった。
今までは僕の顔色をうかがいながら、言いつけはいつも守っていたし、こちらもこちらで何かあったら注意したり怒ったりすることによってコントロールすることが出来ていたけど、中学生になり行動範囲も交友関係も広がり、興味も好奇心も旺盛な年頃で、体もどんどん大きくなり、僕の言いつけなどどこ吹く風で暮らしていた。僕の言うことが絶対でなくなったら、他にクッションがまったくない関係性であるわけで、家族がうまく機能しなくなってきていた。父親が怒れば問題が解決する時期は、終わったのだ。
学校に呼び出されるなんてことはしょっちゅうだし、警察沙汰で身柄を引き受けに行ったり、僕にとっては新しく、そして面倒な手間が増えていた。
仕事から帰ると学校から呼び出され、その間下の子は家で一人にさせなければいけないし、先生の説教を聞き終わるころにはすっかり夜も更けて、そこから改めて晩御飯の支度をするのだが、もうほとほと疲れてしうのだ。
そうかと思えば今度は警察が家に来てなにやら事情を聞いていったりする。
土日祝日は仕事が休めないので、上の子は朝から出かけては友達と一緒に悪いことをしては警察に補導され、仕事中にもかかわらず電話がかかってきて身元を引き取りに行かなければいけないこともあった。
そんな時は無理言って仕事を早退し、上の子のいる交番に向かうのだった。
時給で働いているわけだし、そもそもアルバイト店員なのだから、急にしかも土日に早退などしていたらいつクビになってもおかしくはない。
「クビになったらお前たちもご飯食べたり学校行ったりできなくなるんだぞ」という言葉が毎回ここまで出るのだが、僕は何も言わなかった。それは、親として父親として、何も言わずに自分の背中で子供たちに生き様を・・・などと言うかっこいいものではなく、ただでさえ毎日毎日歯を食いしばって我慢して生活しているのに、ちょっとでも気を緩めてネガティブなことを口にしてしまったら最後、もう二度と元には戻れないのではないかと思うほどに、知らず知らずのうちに追い詰められていたからだ。
もうやめたい、もう嫌だ、お前たちのせいで俺の人生が、などと、思っていても決して口に出してはいけない。口にしてしまったら最後、すべてが音を立てて崩れてしまいそうな動揺が、僕の中にはあった。
勘弁してくれよと思ってみても、子供たちに不憫な思いをさせてしまっているのは間違いない。子供たちも好き好んでこんな生活をしているわけでは決してないだろう。欲しいものも食べたいものもやりたいこともすべて、すべてにおいて我慢させてしまっているのも事実だった。もしかしたら僕よりももっともっと子供たちは我慢しているのかもしれないかったし、それは分かっていた。
そんな暮らしを強いられるのも、僕の子供として生まれてきてしまったからで、もがいても出口を見つけることが出来ないでいるのは、きっと子供たちも同じことなのだろう。子供たちには、その表現方法が無いだけなのかもしれない。
全ての原因を作っているのは僕なのではないだろうかと考えると、情けないやら悔しいやらで胸が締め付けられると同時に、何が正しいかわからぬこの生活に嫌気がさすのだった。
僕達が向かおうとしている未来そのものまでが、間違っているような気がしてならない。
お互い不平や不満を口に出さぬことによって、ひびが入ってしまったけど割れるにまでは至らないガラスのように、辛うじてそのままの状態を維持させていた。
たばこ、バイク、喧嘩、万引き、自転車泥棒。
友達が増えていくたびに、僕の面倒も増えていったのだけれども、それは思春期の壁であり、大人になっていくうえでは必要な過程である。自分もそうであったように、子供たちもそうなのだ。
そのうち一通り経験したら、落ち着くだろうと腹をくくった。
ただでさえ毎日仕事で、家に戻れば家事や育児は終わることがない。相変わらず洗濯物は山のように積まれているし、部屋は散らかり放題、友達と遊びに行くだの、新しい服を買いたいだのと言っては予定外の出費がかさみ、成長の過程だから仕方がないと自分に言い聞かせてみるのだが、できればもう少し大人しく協力的にいてくれないものだろうかと、悩みは尽きなかった。
まさか金がないから友達と遊ぶなとは言えないし、着る服だって、履く靴だって自分の好みのものを身につけたくなる年頃だろうし、散髪に行く回数は増え、シャンプーやリンスにこだわりを持ち、ヘアワックスとドライヤーが必需品になり、それらを購入するための資金の出どころといえば、やはりどう考えても僕の財布しかなかった。
それに伴い、電気代やら水道代やらもかさむようになり、月に数時間程度働く時間を増やしたからと言って生活環境が改善されることはなく、むしろ出費がかさむようになっていくのだが、子供たちにこれ以上の我慢も強いることが出来なくなってしまったために、生活の困窮はますますその度合いを増していった。
大好きだった毎日の散歩も、だんだんと行く回数は減っていった。
新しい仕事場では、僕が父子家庭で子供を育てているということは伝えていたのだが、具体的な生活環境などはお茶を濁していた。言っても伝わらないだろうし、細かく説明するのも、もう面倒だった。
同情されるのは嫌だったし、仮に助けてくれるとしても、すんなり心を開いて「助けてください」と言えるほど、僕の精神状態はもはや健全ではない。
そうは言っても一人で抱え込むには重すぎて、誰かに話を聞いてもらいたいという欲求も絶えずあったわけだが、その機会に恵まれることはなかった。
お金がなければ何も始まらない。世の中というものは、そういうものだ。
仕事の同僚達とは仕事中に口をきく程度で、プライベートでの付き合いはなく、仕事が終わればまっすぐ家に戻っての繰り返し。誰かと遊ぶわけでもなく、特段親しい友人関係になる人もいなかったし、そうならないようにむしろ距離を置いていた。
それでいいと思っていた。
ある日、僕が仕事を終えて家に帰ろうとすると、一緒に働いたこともなければ口をきいたことも無い系列店の店長から声をかけられたことがあった。
その方は何年もそこで働いているかなりのベテランだということで、僕が働いている店舗にもちょくちょく顔を出したりはしていたので、知ってはいたのだ。
その方が、僕の仕事終わりを待って、こう言ってきたのだ。
「よかったら今から少し飲みに行きませんか」と。
あまり気が進まなかったけど、系列店の店長さんから直々に声をかけられたら無下にするわけにもいかず、子供たちに連絡し少し遅れるからと告げ、ご飯は今日だけ適当に冷蔵庫の中のもの食べるようにお願いした。
この職場に来てから、こんなお誘いを受けるのは初めてだったし、ましてやしゃべったことも無い人だったので多少戸惑ったのだが、この日は少しだけ、誰かとしゃべりたい気持ちが僕の中で大きかったのかもしれない。口をきいたこともない人から飲みに誘われるということが、一体どういうことを意味しているのか分からなかったけど、まさか焼いて食われるわけでもあるまいと、流れに身を任せることにした。
店長さんも僕と同じ隣町から電車に乗って通勤しているということらしく、2人で電車に乗りお互いの自宅がある街に戻ってきて、行きつけだというとあるスナックに僕を連れだしたのだった。
流れに身を任せるとは言っても、念のため電車に乗って移動しているときに、父子家庭であるためあまり遅くまでは付き合えないということと、申し訳ないのだがお金がないので今すぐ飲み代をお支払いすることが出来ませんと伝えてみたのだが、特にお驚く様子もなく「今日は誘ったんだし僕がおごりますよ」と言ってその人は笑った。
がっちり体系のずんぐりむっくり、顔は少々強面、電車の中で自己紹介をしてもらい、結婚して子供がいるんだとか、そんな話をした。
外で酒を飲むのは、本当に久しぶりっだった。
行きつけだというスナックは、カウンター4席と4人掛けのテーブルが2つあるだけの小さな店だった。僕達の他に客はいて、カウンターに一人とボックス席に2人。狭い店内はまあまあ混みあっていた。よく聞く懐メロがカラオケから流れ、仕事帰りのサラリーマン風の男性が気持ちよさそうに歌っていた。
カウンターの中には店員の女性が2名いて、そのうちの一人はどこかで見覚えのある顔だった。
「ほら、見たことあるでしょ、一緒に働いてる誰々ちゃんだよ」
と店長さんが言ったので、なるほどと思った。そういえば昼間の時間帯でたまにお見かけする、ホールで働いている女の子だった。
聞けば、アルバイトを2つ掛け持ちしていて、昼は水戸のレストラン、夜はスナックで働いているのだという。同じ職場だと言われば、確かにそんな気もする程度の面識で、口をきいたことは無かった。
店長さんとその人は昔から一緒に働いていたらしく、そんなわけでここが行きつけのスナックになったらしい。キープされていて店長さんのボトルとサービスしてくれたビールを飲みながら、久しぶりに外でお酒を飲んで時間を過ごすということをしてみたら、意外と楽しかった。
一緒に飲んでいる2人は今日がほとんど初対面みたいな人たちだったのだけど、僕の話を聞いてくれて「たまには息抜きしないとね」と声をかけたりするのだった。
僕が父子家庭だということや、子供たちを一人で育てているということも、このスナックの女性店員から聞いていたらしく、せっかくだから飲みに誘ってみようということになったと言うのだ。
やはり新しい仕事場でも父子家庭という話題性は抜群で、みなそれなりに気にはなっていたらしい。
「何でも好きなもの頼んでいいよ」と言われたけど、お金も持っていない分際だったので遠慮していたら、店長さんは適当に食べきれないほどのおつまみを注文した。
自分だけこんなことをしていていいのかと、子供たちの顔がちらついて申し訳なく思った。どこで何をしていても、心からリラックスすることはできないような気がした。
21時を回ったところで、店長さんは気をきかせて僕のためにタクシーを呼んでくれた。
店長さんはまだ一人でここで飲んでいるということだったので、僕だけ家に帰らせてもらうことにした。
このお付き合いがきっかけとなり、僕はたまに店長さんに連れられて酒を飲むようになった。それは僕にとって日々の生活からほんの少し解放される息抜きの時間となり、多少なりとも精神バランスの維持に重大な要素を担ってくれていたのだった。
こうして友達も増え、新しい職場での立ち位置も居心地は良くなっていった。
新しい職場に転職して1カ月目、給料は予定通りアップして10万円を少し出る程度で、使えるお金は若干増えたのだが、支出の質が変わってしまったために生活は安定せず、目標であるテレビの購入のための貯金など、できるはずもなかった。
仕事と家事と育児と、日々の生活は落ち着かず、やりたいことも出来ず目的も果たされず、イライラやストレスが募っていき、逃げ出したい衝動を必死で抑え、毎日何とか生きていた。
ただ、友達もでき仕事にも慣れつつあったので、このまましばらくここでアルバイトをし、一旦落ち着ちついてから次のステップをと考えていた矢先、僕達にまた新たな試練が舞い込むのだった。
それは、信じろと言ってもそう簡単に信じることが出来ないような、漫画か、はたまたテレビのドッキリでしかありえないような出来事だったろうと思う。