16/6/5
【第22話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

その日はいつものように仕事があって、仕事場である近所のショッピングモールまで車を走らせていた。
時刻は午前10時半。
11時からバイトだったので、いつもこのくらいの時間には車に乗っていた。その日は良く晴れていて穏やかな朝だったのを覚えている。
車のガソリンメーターを見るとエンプティーマークが点灯したところだったが、バイトの時間に遅れそうだったのでガソリンを入れるのは仕事終わりにしようと思った。
ガソリンスタンドを見送り仕事場に着いて、いつものようにへんてこな制服に着替えたら、仕事にとりかる。
お昼時は忙しいから、休憩が取れるのは14時半ごろ。何も変わらない時間。最近ちょっと気になることがあるといえば、頻繁に小さい地震が来ていて、大きなショッピングセンターといえども揺れを感じることがよくあったこと。
その日はそれほど忙しくもならず、14時半には休憩を取ることが出来た。みんなはそのタイミングでご飯を食べたりするのだが、僕はお金がないので、最近休憩のたびに立ち読みしながら読み進めていた小説の続きを読もうと思い、ショッピングモール2階にある本屋に行った。本当は買いたいのだが、今の僕にそんな余裕はない。時間もつぶせるしお金もかからないので、立ち読みで良しとしていた。
その小説は直木賞を受賞した話題の新作で、書店の一番目立つ場所に平積みされていた。
毎日立ち読みで読み進めていたにので、どこまで読んだか分からなくならないように、僕はこっそりしおりをはさんでおいていた。休憩中に本を読むのが唯一の楽しみだったので、時間目いっぱい読もうとその日も決めていた。
しばらく立ち読みを続けていたのだが、ふと、ほんのわずかではあるが足元に違和感を感じた。違和感というにはあまりにも短い時間だったけど、感覚的に言ったら今までに味わったことのない違和感であることは間違いなかった。
なんだ、これは。
足元から腰のあたりまで伝う、なんとも表現しがたい違和感。時間にしておそらく数秒にも満たないほど。
腰のあたりまで来ていた違和感が、体全身を貫き膝から崩れ落ちそうになる。一瞬にして脳が指令を出した。
「逃げろ」
今まで30年以上生きているが、自分の脳がこれほどまでに的確かつ迅速に「逃げろ」という指令を下したことは無い。
このままこの場所にとどまったら危険だ、逃げろ、と。
これが動物としての本能なのかと思うほど、一瞬の判断だった。
ショッピングモール内の書店には大きな本棚がいくつもあり、僕が立っている場所の目の前にも背丈の倍ほどの棚があったのだが、ふとその目の前の棚に目をやると、並べられていた本が今にも外に落ちそうなくらい飛び出していて、棚自体もこちら側に覆いかぶさってくるのではないかと思うほど激しく揺れていた。
目の前が歪んで見ているのではないかと思うほどの光景。
味わったことのない感覚が体全身を突き抜け、状況は全く把握できなかったけど、一刻も早くここを立ち去らねばならないと思った。轟轟と地響きのごとく恐ろしい唸りがどこからともなく聞こえ、膝から崩れ落ちるほどの揺れを感じ、動こうにも身動きが取れない。体の平衡感覚がなくなり、頭がパニックに陥った。
ここにいたら、死ぬ。
今、自分の身に何が起こっているのかはよくわからなかったけど、これは単なる揺れではない。ショッピングモールに爆弾でも投下されたか、はたまたジェット機でも突っ込んできたのか、そのくらいの激しい衝撃は僕の人生で経験したすべての衝撃をはるかに凌駕していた。
一刻も早くこの建物から外に出なければ死んでしまうぞという脳からの指令を信じ、僕は読みかけの本を放り投げ、一番近い出口から駐車場へ向かって全力で走った。
何も考えずに我先にと出口を目指した。
脳が僕に逃げろと指令を出してからここまで、わずか数秒。
これは決して大げさなどではなく、生まれて初めて本当に「死」というものに直面した瞬間だった。
走っているときも、まるでトランポリンにでも乗っているかのように体が宙に浮きあがる。間違いなく今自分が立っているところは鉄筋の建物であり、駐車場はアスファルトだったにも関わらずだ。
今までの経験ではありえない状況、脳が判断できる許容をはるかに超えた事態に、ただただ無我夢中で走った。
脳からの指令は相変わらず「逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ」
平成23年3月11日。
いわゆるこれが、僕の経験した東日本大震災発生の瞬間。
この未曽有の出来事は、またしても考えうる最悪の事態の想定を、はるかに超えていたのだった。
この一瞬の出来事が地震のそれであると分かったのは、だいぶ後になってからのこと。
時間にしてどれほどが過ぎたのだろうか、あまりの混乱に自分がどこで何をしているのか、これから何をしなければいけないのか、まったくわからなかった。
ショッピングモールの本屋を飛び出し、立体駐車場の2階部分からスロープを下りて地上の駐車場へと向かったのだが、そこから先何をしたらよいのか分からない。
駐車場には自分と同じようにショッピングモール内から逃げてきた人でごった返し、そのすべての人が戸惑いの表情だった。
一体何が起こったというのだ。
揺れが一時的におさまった時、僕は再びスロープを上り2階の駐車場へと上がっていった。それは犯人が現場に戻ってくるのと似た心境だっかもしれない。どうしても戻って、先ほどまで自分がいた場所を見なければいけないような気がした。
恐る恐るスロープを上り2階の駐車場に出てみると、何台も止まっていた車は跡形もなく消え、一目散に逃げた入り口付近は、緊急作動したスプリンクラーで水浸しになっていた。
2階に作られただだっ広い駐車場から外を眺めてみると、ショッピングモールを周回する道路に車があふれ、我先にと車を走らせる人たちで大渋滞を起こしていた。
1階部分の駐車場にも人があふれ行き場もなく呆然としていた。
それはまるで映画のワンシーンのように、とても現実に起こった出来事とは思えぬ光景だった。
それでもまだ、はっきりとは何が起こったのか分からぬ恐怖の中、急に、子供たちは大丈夫だったのだろうかと考えた。
今の時刻は15時ごろなのだろうか。
まだ学校にいるはずだ。
ポケットから携帯電話を取り出し上の子にだけ渡している携帯電話の番号にダイヤルしてみる。非常事態用に持たせている月780円の使用料の携帯電話。こういう時にこそその効果を発揮してもらいたいものだったのだが、一向に電話がつながる気配はない。
僕は再び下に降り、そこで初めて今自分が仕事中であることに気が付いた。仕事の同僚たちはどうしただろうか。
駐車場伝いにショッピングモールの裏手に回り、仕事場であるフードコート側の駐車場に行ってみることにした。そこにもたくさんの人がごった返していて、身動きも取れないような状態。
人をかき分け仕事場の人たちを探した。ぐるぐると駐車場を回っていると、それらしき人影を見つけ声をかけた。
みんな無事らしい。
仕事場の責任者が非常階段を伝い建物内のフードコートに行ってみたのだが、スプリンクラーの水で浸水しており、地震の影響で物が散乱した現場にたどり着くことはできなかった。
このあたりでようやく「どうやら地震が起こったらしい」という情報がちらほら聞こえ始め、震源地は福島あたりらしいということになった。
僕の仕事場だったショッピングモールは海のそばに建てられていたため、ここも津波でヤバいのではないかと、そんな話が漏れ伝わってきていた。
福島で大地震、津波・・・そんなワードが頭に入っては来たものの、まったく現実味をおびなかった。
この時はまだ、また数時間すれば元の暮らしに戻れるに違いないと、そんな楽観的な考えをしていたのだった。
子供たちがどうしているかそればかりが気がかりで、一刻も早くこの場を立ち去り子供たちを迎えに行きたかったのだが、相変わらずの大渋滞で車を出せそうにもなかった。
僕はここで働く従業員だったわけで、まずはお客様の安全の確保が第一の使命で、ショッピングモールの従業員総出でお客様の避難をサポートさせられたりしていた。
駐車場の一角に集められた人たちは帰宅の途につき、残っているのは従業員だけになり、一時退散ということでそれぞれの安否を祈りながらその場を後にすることになった。
明日の仕事や今後のことは追って連絡すると現場マネージャーから通達があったが、携帯電話も通じないのにどうやって連絡を取るのかと、そんなこともふと頭をよぎったりしたのだが、明日になれば、いや、今日の夜にでも復旧してこれからのどうしたらよいのか体制が判明するに違いないと思ったりもした。
ただどう考えてもこの状況では明日から通常通りの営業は無理なんだろうと、その程度のことはなんとなくわかったのだが、ではいつになれば仕事ができるようになるのかは分からなかった。
時給で暮らしている僕にとってそれは死活問題で、このまま収入がなくなるかもしれないという現実的な不安の方が、この時は大きかった。
その程度の認識で、この震災の全体を全く把握出来てはいなかったのだ。
従業員専用駐車場まで皆で歩いていき、それぞれの車に乗り込む。キーを回しエンジンをかけると、エンプティーランプが点灯していた。
しまった・・・
朝のうちにガソリンを入れておけばよかった。
この非常事態になった今、子供たちの安否や状況が気になってはいたのだが、まずはガソリンを車に入れてしまわないといけないと思った。やはりこの事態を鑑みて、車を使えないというのは手間だろうと思ったからだ。
車の中から上の子の携帯に電話をしてみる。つながらない。
車のギアをドライブに入れ車を走らせた。2階の駐車場から眺めた大渋滞はいつしか解消され、一見普段と変わりない日常に早くも戻ったのかと思ったりもした。
いったいあれは何だったのだろうか。
通いなれた道を進み、仕事場から最も近いガソリンスタンドに立ち寄るために、車をスタンド内に入れようと試みたのだが、とてもじゃないけどその敷地に踏み入れることが出来ないほど、入り口には長蛇の列をなしている。
それは、夢中になりすぎた子供がどこまでも並べてしまったミニカーのように、果てしなく続いていた。
次のガソリンスタンドなら入れられるかもしれないと、淡い期待をもって車を走らせていたのだが、家にたどりつくまでにあるすべてのガソリンスタンドで、同じような大渋滞が起こっていた。
仕方なく今日中にガソリンを入れることを諦め、まずは子供たちの元に急ごうと思った。
ガソリンは明日にしよう。
帰り道順で行くと下の子の小学校が先だったので、車を停めて学校内に入ってみると、校庭に小学生たちが集まっている。
どうやら迎えに来るまでここで待機させられているらしい。
校庭には多くの小学生と子供たちを迎えに来たお母さんたちでごった返していた。僕も何とか人込みをかき分け下の子を見つけると、担任の先生に連れて帰る旨を伝え車に乗せた。
まずは一人、無事に引き取ることが出来た。
次は上の子の中学校。
ここは自宅から歩いても5分とかからない場所であったため、自宅に車を停め下の子の手を引き中学校の校庭へ。そこでも同じように学生たちが集められていて、迎えが来たものから順に帰宅するというシステムになっていた。
焦る気持ちを抑えて校庭に目を凝らし、上の子を見つけ駆け寄っていった。
どうやら2人とも無事だったらしい。
子供たちは興奮しながら先ほど起こった出来事を話し合っていたけど、子供たちとこうしてまた出会うことが出来た安堵に胸を撫でおろしていた。子供たちと無事会えたことで、今日の地震は一件落着であると考えていた。
3人で今日あった出来事を話しながらとぼとぼと歩き、自宅に戻ってきたのだが、一歩足を踏み入れて、僕たちは声を失った。
散乱、という生易しい状況ではない。
物という物が倒れ、割れた食器は無数。足の踏み場もないほどリビングと廊下には物がばらまかれており、倒れてしまった冷蔵庫のせいなのか足元には水たまりができていた。
何なんだ、これは。
とてもさっきまで人間が暮らしていた空間とは思えぬほどの変わりようで、先ほどの地震がどれほどのものだったのか、この惨状で嫌というほど思い知らされた。
どうやらすごいことが起こったらしい、そしてそのすごいことに、僕たちは巻き込まれてしまったようだ。
混乱する頭で呆然と立ちすくんでいたが、このまま見ていても仕方がない。3人で手分けして、とりあえず生活していけるだけのスペースを確保した。
時刻はすでに夕暮れ時で、外は陽が落ちようとしている。
家の電気をつけてみる。スイッチを何度もカチカチしてみても、電気の紐を何度も引っ張ってみても、電気が付く様子はない。慌てて蛇口をひねってみるが水も出ない。コンロのガスをつけてみると、どうにかガスだけは生きているようだった。
物という物が倒れ部屋中に散乱、電気と水道は寸断されていたが、ガスは使える。
ではまず何をしなければいけないのかと考えてみたが、良くわからなかった。
それでも僕は希望的観測で、今日中には電気も水道も復旧して、何事もなかったかのようにまた元の生活に戻れるに違いないと、まだ楽観視していた。
陽が暮れて部屋が暗くなってきたので、両親の仏壇からろうそくを拝借し火をつけた。
3月11日といえども陽がかげるととても寒い日で、ストーブをつけた。
車にガソリンが入れられないということは、灯油も買えないかもしれない。今ある灯油でしばらく乗り切らなければいけないとなると、あまり無駄遣いも出来ないと思った。
時間が経過するにつれ、すぐにまた元の生活に戻れるのではという気持ちと、これだけのことが起こったんだ、そう簡単にはいかないと思う気持ちと、行ったり来たりしていた。
15時ごろに起こった地震の余震というのだろうか、あれからひっきりなしに揺れが来ている。そのたびに僕たちは肩を寄せ合い、まったく見当もつかない恐怖をひたすらにやり過ごすことしかできなかった。
暗くなってくるにつれ、心細さは増していった。
電気が来ていないのだから炬燵はつかない。電気を使う暖房器具の類も使えない、当然冷蔵庫や洗濯機なども使えず、シャワーを浴びるためにも電気を使っているため、風呂に入ることも出来ない。
もっとも、水道もきていないのだから入れるわけはない。
トイレも使えなければ洗濯も出来ないしテレビも見られない、ラジオも聞けないしインターネットを見ることも出来なければ携帯電話も使えない。
なんの情報もないまま、自分たちが置かれている状況も分からず、この一連の出来事が社会的にどれほどのものだったのかさえまったくわからぬままだった。
何も知ることのできない環境の中で、ひっきりなしに続く余震。もしかしたらこのまま死ぬのかと、そろそろ楽観視も出来なくなっていた。
今夜の晩御飯を何とかしないといけない。非常事態であろうとなんであろうと、子供たちにご飯を食べさせなければいけないことに変わりはない。
冷蔵庫はひっくり返り食材もない、電気も使えないのでガスで調理できるもの、とはいえ水もない。
何はともあれ、近所のスーパーに買い物に行くことにした。
上の子を家に残し、下の子を連れて歩いて近くのスーパーに行ってみると、駐車場には大勢の人だかりがあり、店舗の外でどうやら物を売っているようだった。
スーパーの中も地震の影響でぐちゃぐちゃになっているらしく、中に入ることはできない。この非常時に食料品を買い求める人たちは後を絶たないのだろう、スーパー側も社会貢献的な意味合いもあってか、店舗内の食材を格安の値段で提供していた。そこに食料を求める多くの人が押し寄せ、駐車場には食料を買い求める列がこれでもかと伸びていた。
3月も11日だというのに、なんでこんなに寒いのだろう。僕は下の子の手を握りその列に加わると、案外薄着で外出させてしまった下の子のために、自分の着ているジャンバーを脱いでかけてやった。
いったいどれくらいの時間を過ごせば食材を買い求めることが出来るのか、分からなかった。
上の子を家に残してきてしまったことを今更ながら後悔した。
時刻は18時になろうかというころで、西の空はほんのわずか下の部分が赤く染まっていて、そろそろ陽が暮れそうだった。その光景をぼんやり眺めて、今日は長い夜になりそうだとため息をついた。
40分は並んだだろうか、ようやく目視で先頭が分かるところまできた。売られている食材はもはや残り少なくなっており、みんな食料の確保に必死なんだなと思った。
毎年避難訓練やらなにやらとりあえずはやっているのに、本当にこんなことが起こると本気で思っている人など、そうはいない。食料を我先にと確保しなければ、生きていくことなどできないわけで、もうそこには助け合いとか分け合いとか譲り合いとか、そんなものは存在していおらず、少しでも多くの食料を手に入れることだけにみな必死になっていた。だけれどもみなきちんと列に並んでいる。
列に並んで自分の順番まで待つことで、その先の遠慮はいらないことにでもなっているかのようだった。
自分の後ろを眺めてみる。そこにはまだまだ大勢の人が列をなしていた。先ほどよりもはるかに長いその列は駐車場を出て一般道路にまで連なっていた。あの列の最後に並んでいる人は果たして食べ物を買うことが出来るんだろうかと余計な心配をしつつも、もう少し家を出るのが遅かったら少なくとも今日は食べ物にありつくことはできなかっただろうと、こっそり胸をなでおろしていた。
僕たちはようやく購入の順番になり、パンと飲み物と果物と缶詰を買った。目の当たりにした非常事態に、何を買えば正解なのかが分からない。
こんなことをいつまでしなければいけないのか分からなかったので、今自分が持っている所持金でどこまで行けるのか知りたかった。
この時僕の所持金、いや、全財産は8万円。
8万円とは、毎月の給料そっくりそのままの額である。
この大震災が僕にとって不幸中の幸いだったのは、発生した日が11日だったということで、この数字がまさに生死を分けることになる。
これが8日とか9日とかなら僕たちは間違いなく数日も持ちこたえることなく死んでしまったに違いない。
僕の職場であるショッピングセンターのフードコートは、給料の支給日が10日だった。毎月毎月、毎日毎日自転車操業の生活。もらった給料などあっという間に右から左に消えてなくなる。給料が振り込まれる口座がそのまま光熱費等の必要経費が落とされる口座になっていたため、給料日初日に、つまり10日には全額をいったん口座から引き上げるのが毎月の恒例だった。
なぜこのような面倒なことをしなければいけなかったのか、給料の振り込み口座と引き落としの口座が同じであれば、そのまま放っておけば一番手間がないと思われるかもしれないが、僕の場合はちょっと事情が違っていた。
光熱費やら水道代やら携帯代やらは、現実的にはその使用が停止させられる直前に1カ月分だけを支払うことしかできなかったので、今月はどこにお金を振り分けなければいけないのか、自分で考えて支払いをしなければいけなかったのだ。そうでもしなければ、とても月8万円でなど生活していくことはできない。勝手な僕の算段で、とりあえず今月は支払わなくてよいと思われるものに関しては、支払いをいったんスルーして次の機会に回し、そのお金で教育費やら食費やらその他雑費を捻出せざるを得なかった。捻出といっても、それで足りるわけでは決してなく、わずかばかりのお金を手元に残すために、支払いをやりくりしていただけなのだ。
結局はいずれ支払いもしなければいけないわけだから、根本的な解決にはまったくなっていないわけで、それでもこうしなければならない日々の暮らしは、困窮を極めていた。
だから、11日のこの日は、給料の全額が自分の手元にある唯一の日だったわけだ。
この大震災の影響で、すでに銀行口座から預金を引き出すことは出来なくなっており、給料を全額引き出す前の10日であったら、銀行口座にいくらかのお金はあるのに使うことが出来なくて、支払い等に振り分けてしまった後の12日だったら、手持ちのお金がせいぜい1万円程度になっていたはずである。
11日だったということは、僕にとってはまさに神がかり的にドンピシャのタイミングだったのだ。ついているのかついていないのか全く分からないけれども、僕たちは生きるために全財産の8万円を食費に充てて何とか生き延びるすべを得ていた。
もうこうなったら、支払いの事など考えないようにしよう。
とにかく生きるためにこのお金を使わねばなるまい。生きて何とか乗り越えることが出来たら、またその時に考えればよいのだ。
だからといって無駄遣いも出来ないし、子供たちが今日と明日食べられるだけの食料を買い込んで上の子の待つ自宅へと急いだ。
大丈夫だ、やれる、俺ならできる、この試練を乗り越える。
神様どうか僕たちを助けてくださいと、下の子の手を引きながら何度も何度も祈っていた。
あたりはすっかり陽が暮れて寒さが身に染みてくると、寂しくて悲しくて悔しくて切なくて、これからどうなってしまうのか、子供たちは大丈夫なのか、自分は何をしなければいけないのかというプレッシャーで、立っていることがやっとだった。
案外重くなってしまった荷物を持つ指先がかじかんで、痛かった。
「まだやれる、まだやれる、俺ならできる、落ち着け、落ち着け」
必死に言い聞かせた。
自宅に戻ると上の子が一人お留守番をしていてくれた。特に変わったことも無く、部屋を少し片づけていてくれた。
リビングの炬燵テーブルの上に仏壇から拝借したろうそくを立て、窓際に置いた石油ストーブを囲むように3人で座った。電気のつかないカーテンを閉めた部屋は、ろうそくの灯りとストーブの炎だけが赤く揺らめいていた。
あたりはすっかり陽が落ち、一面は夜の闇に包まれた。子供たちに買ってきたパンと飲み物を与え、寂しい晩御飯をとった。その間も30分に1度くらいは余震が来ていて、そのたびにまたあの揺れが来るのではないかとびくびくしていた。
子供たちには努めて明るく振舞っていて、大丈夫何とかなるよと言い聞かせていた。
上の子は中学1年生になっていたし、下の子も小学4年生。それなりにしっかりしてきたし、いざとなったら子供たちに頼ればいい。
それにしても午後にあった大地震からほぼすべてのライフラインが切られてしまい、まったく情報が入ってこない。今どういう状況なのか、明日からはどうすればよいのか、それらを知るすべは時たま流れる市役所からの一斉放送のみで、その放送が流れるたびに家から出て、情報を聞き逃すまいとした。
どうやら、福島県沖で大地震が起こり、茨城県も相当の被害を受けたらしい。大きな津波が来る危険性があるので、海の近くの人は高台に避難するようにと、そんな指示が聞こえていた。
それ以外の住民も、自宅近くの緊急避難場所に避難するようにと言っていた。
情報が入ってこないというのは、不安なものである。
僕たちの住む家の一番近くの緊急避難場所は、上の子の通う中学校になっており、そこに行けばよかったのだが、子供たちと3人で話あった結果、今晩はここにとどまっていようということになった。たまたま自宅から避難場所の中学校が歩いて2,3分程度のところだったこともあり、何かあったらすぐにそこに避難しに行けばよいと考えたからだった。
とりあず今晩はここにいて、できるだけ散乱した荷物を片付けてしまわなければいけない。
その日の夜は子供たちの布団をリビングに敷いてストーブを付けたままにした。僕は寝ずに荷物の片づけをし、何かあったらすぐに子供たちを起こし外に出られるように、子供たちの着替えや夕方買い込んだ食料をリュックに詰めたりした。
子供たちが寝ている間も余震は続き、そのたびに子供たちも目を覚ましていた。普段はちょっとのことでは起きたりしないのに、今回の一件は、相当精神的ダメージがあったに違いない。
外が白々と明けてきて、ようやく長い長い夜が終わった。
なんとかリビングと1階部分の廊下に生活していけるだけのスペースを確保した。
子供たちもまったく熟睡できなかったようで、朝起きてもしきりに眠い眠いと言っていた。
寝れるはずなどない、緊張感は一切取れないし、ひっきりなしに続く余震のたびに身構えている。疲れを取るどころか、余計に疲れ果ててしまう。頭をフル回転させ、考えうる最悪の状況を想定し生きるためのシミレーションを繰り返した。
昨日の残りのパンを食べ簡単に身支度をすると、とりあえず避難場所になっている中学校に行ってみようということになった。
中学校の体育館をのぞいてみると、多くの人たちが避難してきていて、各自持ち寄った毛布や布団を敷いて、自分の場所を確保している。もうすでに足の踏み場もないほどひしめき合っていて、それはなんとも異様な光景であり、非常事態に陥ってしまったという現実を嫌というほど見せられたような気がした。
現実世界のなかで、避難しなければならぬ状況という物を、そもそも思い描いたことなどない。
これが本当に現実に自分の身に起こっていることなのだと考えると、あまりの恐ろしさに足が震えた。
これは、ただ事ではない。