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16/6/3

【第18話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

Image by Olia Gozha

下の子にとっても、言い返せぬ言葉を飲み込まねばならない心境は、察して余りある。

子供たちが二人とも小学生になって、今までとは違いより社会の一員としての生活が強くなった。

子供たちが幼いときは自分と子供、それだけの世界で生活していくことが出来るのだが、子供が大きくなり小学生になると、学校での生活であったり地域の交流であったり、親同士の関係であったりと、様々な面で社会と関わらなければいけなくなってきたのだ。

まず、学校の行事に参加しなければいけない。

授業参観然り、PTA然り、親子レクリエーションというものもあったし、運動会とかもそうなのだろう。

さらには地域の交流として、昔ながらの子供会というものがあり、子供たちがそれに参加したいといえば親としてダメとはなかなか言いずらいものである。周りの同級生や近所の子たちは、ほぼ例外なく子供会に参加していたので、例にもれずわが家でもその一員とならざるを得なくなるわけである。

さらには、自治会というのもが存在し、近隣住民が班を作り地域貢献並びに地域の秩序を構築する取り組みまであり、それにも当然地域の一員として参加した。

こうして自分たちの意思とは無関係にどんどんと社会の一員として取り込まれていくことに対する不安は、それはそれで大きかった。

もう、しばらく社会とのつながりを持っていない。

つながり方すら、忘れている。

ただでさえ、家事と育児だけで目の回る忙しさで、さらに地域社会の一員としてもそれなりの役目を果たさねばならないとなると、手に負えない。どんどんと成長する子供たちに伴い、目まぐるしく変化していく環境に戸惑っていた。

その生活に慣れてきたと思ったころには、置かれている環境が変わってしまう。

ごくごく普通の家庭と同じ感覚でこられても、とても対応することはできなかった。

子供が小さいときには、親の参加が必須条件のような行事がほとんどで、親の協力なくして子供が学校や社会の一員に加わることはできない。どんな時でも親が必要で、父親と母親、もしくは祖父母などがいるからできるような仕組みが出来上がっていた。

一人親では、とても太刀打ちできない。

子供たちが二人とも小学生になり学校行事も増え、子供会も二人で加入し地域の班の班長をも任せられ、やらねばならないことがどんどん増える。

ただでさえ手が回らない父子家庭生活、とてもこんなことまでやってられないと思った。

何とかかんとか体裁を整ええることが出来るものはまだよかったが、たった一人の子育て、どうにもこうにもならないものも、それはそれであったのだ。

例えば、運動会での場合。

小学校の運動会といえば、家族総出で朝も早くから場所取りをしツアーよろしく運動会を観戦、お昼になれば親戚一同輪になってお弁当を食べる。

これは、恐らくごく当たり前の光景なんだと思う。

わが家は、そもそも運動会を見に来る身内が僕だけなのだから場所取りなど必要ない。一人フラフラしながら運動会を観戦し、お昼ご飯のお弁当の時間は体育館の外の物陰や、ひとけのいない昇降口あたりで申し訳程度のビニールシートを広げ、3人で肩を寄せ合い食べるだけだった。

お重を広げるわけでもなく、子供たちに一人ひとり作ってやったお弁当を食べる。

子供たちがどう感じたかは分からないが、周りの華やかな楽し気なほのぼのとした空気とはちょっと違う僕たちのビニールシートが、とても悲しかったのを覚えている。

それでも、上の子が小学生の頃はまだいい、3人でご飯を食べることできるから。

3つ違いの兄弟だったので、下の子が小学校3年生になった年からは、運動会のお弁当は2人きりになってしまった。周りを見渡しても、父親と二人きりで運動会の日にお弁当を食べている生徒は、そうはいない。

親子レクリエーションなどの行事も、父親が来ているのはほぼ僕だけで、親子とは言っているけど、それは実質母子なんだと痛感したものだ。レクリエーションの内容も母親と子供を想定したものが多く、父親である僕はいつも辟易させられた。

これが世の中の仕組みであり、当然そうあるべき誰もが思うコミュニティーの形なのだと思い知らされたりするのだった。

本当に、世の中これでよいのだろうか。

それでも子供たちが小さいころは、ほとんどの学校行事に顔をだした。

地域の交流もできる限り参加したし、僕は僕なりに必死にその輪の中に入ろうとしていたのかもしれない。

子供たちにこれ以上の違和感を与えてはなるまいと思ったし、当面の生活費としての小銭もあったこのころはまだそれが出来ていたのだ。自分の持っているすべての時間を、子供たちのために費やした。

辛いことや悲しいこと、悔しいことや我慢しなければいけないことの方が圧倒的に多い日常の中で、それでも子供たちの成長を間近で見られるという喜びも大きかった。

子供たちと一緒にいて、些細なことで癒されたり勉強させられたり感心させられたり、心の底から喜んだりすることもある。

ほんの少し見方を変えて、これだけつぶさに成長を見守ることが出来る父親が果たしてこの世にどれくらいいるのだろうかと考えてみると、もしかしたらツイているいるのではないだろうか、とさえ思うこともあるのだった。

子供たちと一緒に生活をする中で、多くのことを子供たちに教えられたのだと思う。

下の子が小学生になったのは一つ大きな成長であり、子供たちの成長は何物にも代えがたい喜びであることは間違いなかった。

父子家庭だろうとなんであろうと、子供たちを一人前に育てなければならない。一人だから、父子家庭だからできませんでした、ごめんなさいは、通用しない。

一人である以上、手が回らないことの方が多岐にわたっていて、出来る限りのトラブルを事前に回避せねばならぬ必要がある。

余計なことにこれ以上の時間を取られるわけにはいかない、料理の世界も子育ても段取りがすべて。

いかなる場面でも、それがほんのわずかな些細なことであっても、可能性がゼロでない以上、その事柄の最悪の状況を想定しシミレーションしてみることで、想定される困難を回避できるのではないだろうか。

そうしたら、たった一人の子育てでも、なんとかやっていけはしないのか。

最悪の状況を想定し、その事柄を回避するためには今どのようなことをすればよいのかということを常に逆算しながら生活する。それが僕たちがこれから先無事に生きていく、唯一の方法であるに違いない。

両親の葬儀が一通り終わると、遺産の分配はどうするかというような話し合いになるのだが、そのすべてを一つ上の兄が取り仕切っていた。

僕は4人兄弟なのだが、上には父の連れ子で年も20以上離れていた兄姉がいて、末っ子の僕と、一つ上の兄。この一つ上の兄だけが、僕と唯一同じ血が流れている兄弟である。

僕が実家に子供を連れて転居してきたのも、この兄に言われてのことだった。

そのころぼくは父子家庭になり水戸で借家住まい、腹違いの二人の兄姉は持ち家だったし、兄は仕事で東京に暮らしていて、結婚してマンション暮らし。

僕だって、子供たちを連れて引っ越すというのはいささか抵抗はあったのだが、実家に引っ越せば家賃がなくなるという魅力もあった。

実際、金には困っていた。

両親は二人とも、亡くなった後ではあるが長年住み慣れた家に戻してやることが出来たし、葬儀も滞り無く終わった。

僕達が実家に転居してきた理由はそれなりにあり、その役割も無事果たせていた。

両親のいくばくかの遺産を分配するにあたり、僕たちが住んでいるこの実家の土地と建物が問題になった。ここが実家であったがためなのか、名義を個人のものにするはどうなのか、といった疑問を呈してきたのだ。

「個人の名義」と言ってはいるが、その「個人」とは実質僕のことを指している。

簡単に言えば、末っ子でできの悪いこの男に、実家であるこの家の土地と建物の名義をくれてやっても良いのか、ということになる。

疑問を呈されても、末っ子の僕に発言権などあるはずもなく、成り行き上、兄弟4人の名義にしようかという案が出された。事実上は4人のものであるけれど、名義を4等分するという行為は後々面倒なことになりかねないから、誰か一人が代表で名義を持とうという、分かったような分からないような説明ののちに、実家の土地と建物の名義は一つ上の兄のものとなった。

僕にはなぜそういう結論になるのか釈然としなかったのだが、法的に見れば、この土地と建物は兄の物ということになる。

前々からそのような話は耳にしていたのだが、ある日、兄が12月に行われる県議会議員選挙に無所属で立候補すると言ってきた。政治家になるのが昔からの夢で、サラリーマンを辞め政治塾なるところで勉強をしていたのは知っていたので、いつかはどこかで政治家になるのだろうと、何となく思ってはいた。

兄の人生だから好きにすればいいいし、特に関心も無い。

ある日、兄はおもむろに僕の元に姿を見せたかと思うと、唐突にこう切り出した。

「12月に選挙に出る。選挙事務所が必要になったから、今すぐここを出ていけ」

今すぐ出ていけとは随分乱暴な言い分である。

選挙事務所が必要なのと、僕達がここを出ていくことと、何の関係があるのか。

百歩譲って出ていくのはやぶさかではないが、その理由が釈然としない。

頼まれてここに越してきたにもかかわらず、両親も亡くなり僕がここにいる必要がなくなったと見るや、家の名義を手に入れて、挙句の果てには出て行けということか。

そんな理不尽がこの世に存在していいはずがない。

選挙事務所が必要かどうかなど、僕には関係のない話だ。父子家庭であり満足に仕事もできない僕に、引っ越し先を探して子供たちを連れてここを出ていけというのか。

兄に、ここを出ていくことが出来ないもろもろの事情と、納得ができない旨を伝えお引き取り願うと、兄は最後にこう捨て台詞を吐いて立ち去って行った。

「お前がその気なら分かった、だけどもこっちも命かかってんだよ、お前が出ていかないなら力ずくでもここから追い出してやるから覚悟しておけ、ここは俺の家だ」

なるほどそういうことか、初めから兄はここの名義を手に入れてそれを盾に僕たちを追い出す算段だったわけだ。

こいつは血も涙も無いのか、それとも選挙というものが人をここまでさせてしまうものなのかはよくわからなかったけど、僕たちにとって新たな揉め事が降ってわいた瞬間だった。

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