16/6/2
【第11話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

子供たちも生活が劇的に変わったわずか2週間後に母が死んだわけで、引っ越しの荷物もほどいていない状態、どこに何があるかなどまったくわからないままで母の遺体は運び込まれてくるし、葬儀屋との打ち合わせだの親族への連絡、挨拶など、やることは山積みになった。
ここに越してきたばかりで生活環境が整っておらず、このバタバタの中、上の子を学校に行かせるだけの余裕がない。
下の子はどのみち幼稚園を中退してしていて、来年の4月まで所属するところがないわけだから、どんな状況でも僕がそばにいて見ていないといけない。
そうなると、このただでさえ目の回るようなスケジュール、下の子を見ていることなど現実的に不可能だった。
他に預けるところもないし、誰かほかの親族が子守をしてくれるわけでもない。
上の子の学校を休ませ、下の子の面倒を見てもらうしかない。
上の子はまだ小学校3年生。
しっかり者だったし、責任感も強く、兄弟とても仲が良かったので、下の子もお兄ちゃんがいればとりあえずは遊び相手もいるし、言うことは聞くし、何とかなる。
上の子の負担はあるけど、考えないようにした。
考えても仕方がない。
これが、頼れるものがいない一人親の切ないところ。
最後はどうしても、上の子に頼ってしまうことになる。
かわいそうな気もするし、ただでさえ負担をかけているのに、こんなときにまた大人の都合を押し付けるのも気が引けるのだが、これが最善の方法だと信じる以外、先には進めない。
上の子は母の葬儀が終わりひと段落するまで、小学校を休ませることにした。
転校して僅か2週間、ようやく慣れて学校で友達と遊びたい頃だったに違いない。
下の子をお兄ちゃんに任せ、葬儀の段取りをしたり、来てくれた様々な方の対応をしたり、兄達やその他手伝ってくれている親族にお茶やご飯を作ったりと、とにかく目の回る忙しさ。
子供たちのことなど、気にかけてやる暇などなかった。
子供たちは周りにいる大人たちに邪魔者扱いされながら、家の中をうろうろしたり、家の前の公園で遊んだり、母が安置されているリビング横の和室で線香を絶やさぬよう気にかけてくれたりしていた。
僕にとっても、これほど近しい人の葬儀にかかわることは初めての経験だったので、人が一人死ぬというのはこんなに忙しいものなのかと、つくづく思ったものだった。
夜遅くまで人の出入りは途絶えることなく、母の思い出話をいろいろな人から聞かされた。
そこには僕の知らない母がいて、一人の人間として、僕や家族には見せることになかった母が生き生きとしていた。
話を聞いているのは楽しかったけど、子供たちのことも気になって、たまに中座しながら子供たちに晩御飯を食べさせ、二人で仲良く寝るんだよといい、二階に上がらせた。
小学校3年と幼稚園生。
最近母と生き別れ父親と3人暮らしになり、引っ越し、転校、幼稚園中退、おばあちゃんの死とここ数カ月で目まぐるしく環境の変化に直面している子供たち。
大人の僕でさえ、ちょっと対応しきれないくらいの変化だったのに、それプラス子供たちは、「寂しい」という思いまで飲み込んでもらわなければならない。
知らない町に来て、知らない人たちにたくさん会って、お母さんはいなくなっちゃって、いろいろ自分なりに我慢したり頑張らなきゃいけないことがたくさんあったのに。
子供たちに「さびしい」と言わせてあげることすらできないでいた。
それでも子供たちは文句を言わなかった。
もしかしたら文句を言って駄々をこねても、もういまさらどうにもならないと、子供なりに腹をくくったのかもしれなかったけど、上の子は弟の面倒をよく見たし、下の子はお兄ちゃんの言うことをよく聞いた。
父子家庭になって、子供2人を育てていくの大変なのだけれど、こうして兄弟がいたことに何度も助けられた。
助けられた反面、子供たちに負担を肩代わりしてもらっているにすぎず、知らず知らずのうちに子供たちを苦しめていたのだと気付くのは、まだずっと後のことだ。
母の葬儀も一通り終わり、わが家に再び日常が戻ってきた。
上の子は学校に行きはじめ、僕は引っ越しの荷物を片付けながら下の子と過ごした。
幼稚園を辞めた下の子は、毎日これと言ってやることもなかったので、一緒に引っ越し荷物の片づけをしたり料理を手伝ったりしていた。
4月からは小学生になる下の子のために、忙しい日常の合間を縫って、小学校に入学するための準備をしなければいけないと思っていた。
例えばひらがな、カタカナを教えるとか、簡単な計算などを教えたりするとか。
親の都合で幼稚園を辞めさせたことで、なにか下の子に不都合があってはかわいそうだ。
何をすべきか分からなかったけど、出来る限りのことはしようと思っていた。
下の子のために、家事全般をこなす片手間で、ひらがなやカタカナを覚えるための自作のカードを作った。
それは、カレンダーの裏紙で5センチ四方に切りそろえたカード状のもの。
そこに「あ~ん」までひらがなとカタカナを書き記していく。そのカードを下の子に見せ、この文字がなんなのか記憶させてみようかと思ったのだ。
朝起きて朝ごはんの準備をし、子供達に食べさせながら洗濯機を回す。子供たちにご飯を食べさせ食器を片付けながら、上の子の学校の準備をする。上の子が学校へと行くと、洗濯物を干し、部屋の掃除。掃除機をかけて雑巾がけをして布団を干して・・・
その間下の子はテレビを見ている。
毎日決まった時間に決まったテレビを見て、決まった時間に流れるコマーシャルを見ている。
下の子はすっかりその日常の一場面を記憶し、テレビ画面を見ずに同じ時間に流れるコマーシャルを一言一句たがわずに同じタイミングでテレビに合わせてしゃべれるようになっていた。
記憶力は悪い方では無かったけど、興味のないものに対してはとことん拒絶する性格。
家事がひと段落するのが10時ごろ。
下の子におやつを食べさせたらお勉強の時間、ということにしていた。
2階の一部屋をお勉強の部屋とし、テレビをやめて2階に上がりお勉強をするのだが、なかなか集中しない。
どこかにフラフラ行ってしまったり、つまらなそうにカードをもてあそんでみたり。
30分もすればすっかり飽きて、勉強どころではない。そのうち勉強をやめ、下の子の遊びに付き合う羽目になる。かくれんぼをしたり、鬼ごっこをしたり。
下の子は、幼稚園を辞め引っ越しをし友達がすっかりいなくなってしまって、お兄ちゃんも学校に行き一人ぼっちで、遊び相手といえば僕だけだったから、毎日下の子とはいろいろなことをした。
本当は、テレビを見る時間、勉強をする時間、遊ぶ時間、みたいな感じで規則正しい生活を目指したのだが、なかなかうまくいかなかった。
その気まぐれな下の子に合わせながら、家事と育児をこなしていた。
下の子とのこのころの生活の思い出で、一番記憶に残っていることはお昼ごはん。毎日パパと2人だけで食べるから、なんだか飽きてしまうのだ。
下の子にとっては、毎日特にやることも無い。
毎日お昼ご飯を作るということにも大変な労力と精神力が必要だ。それでなくても他にやるべきことは山ほどある。
面倒だからと言ってごはんを食べさせないというわけにもいかないので、どうにかこのお昼ご飯の時間がお互い楽しいものになり、かつ、思い出に残るようなものにできないだろうかと考えたのだ。
幸い、僕の住んでいる家は海のすぐ近く。
下の子も外に出るのは好きだったし、海を見るのが大好きだったから、毎日お弁当を作り海まで車を走らせ、駐車場に車を停め、海が見えるベンチに腰掛け2人でお弁当を食べた。
初秋のさわやかな風を受けて、僕たちは並んでベンチに腰掛けた。
お弁当といっても、大したものではない。
おにぎりと、ちょっとしたおかず、朝のあまりとか、昨日の夜のあまりとか。
天気のいい日は、なるべく外でご飯を食べた。海に行ったり、山に行ったり。その辺の公園だったり、家のベランダだったりもした。
下の子はとっても喜んで、いつしかそれが二人の楽しみになった。
僕は父親でありながら、その役割だけでは子供を育ててはいけない。
子供を育てるために、父親以外の役割もまんべんなくこなさなくてはいけなくて、その役割のバランスにいつも戸惑った。戸惑っていた分、そのどれもが中途半端なものになってしまう。
役割が決まっていないというのも、なかなか難しいものだ。経験したことのない子育てを、たった一人でやっている。
母親と父親を一人でいっぺんにこなそうとすると、どっちつかずになっているような気がしてならない。今の僕に何が足りなくて、何をしなくてはいけないのかというそのすべてが重くのしかかって、この子たちにとって何が正解なのか、どうすれば正しいのかがよくわからなかった。
子供を育てるということに、実は大変な不安と恐怖を抱いていた。
責任感などというたやすいものではない。
目に見えぬ、子供たちの将来というとてつもないものが、僕をどんどん臆病にさせた。
父子家庭などというよくわからない生活をさせてしまっている子供たちへの罪悪感から、厳しく確信めいた行動がとれなくなる時がある。
無理強いはしたくなかったし、父子家庭で生きるというそもそもの意味における確固たる信念のようなものが、どうしても持てずにいた。
下の子に限っては幼稚園を辞めさせるという、普通なら味わうことのない経験をさせてしまっていたし、そんな負い目がさらに拍車をかけた。
子供たちと一緒にいればいるほど、寂しいような虚しいような得も言われぬ感情。
出口のない迷路に入ってしまったようで、永久に答えの出ない問題を解かされているような疑心が、日々押し寄せていた。
自分のやっていることが、子供たちのためになっているのかそうではないのか、わからなかったし、誰も教えてはくれなかった。
下の子と二人で海の見えるベンチに腰を下ろし、おにぎりを食べながら、なぜかいつも胸が締め付けられていた。
胸が締め付けられている理由は、わかっていた。
それは社会との断絶と、理想の追求。
仕事をしていない僕は、社会との接点がなかった。下の子と一緒に海でお弁当を食べるのは楽しかったけど、心から楽しむゆとりを持てないほどに、不安もまた大きかった。
社会との接点を持てないと、思考は悪い方へ悪い方へ流れていく。
定職を持たず、家にいる以上やることは家事と育児。
本来は母親の役目である仕事をするうえで、どうしても母親役を演じる必要性がでてくる。
母親になることは現実的に不可能で、それは母親の「ふり」であることには違いない。
永遠にたどりつくことのない地平線が僕にとっての「母親役」であり、それは自分の想像の範囲を超えることはない。
しかし、母親にならねばいけなかった。
ニューハーフの人が女性になりたいと思っても、それは永遠にかなわない。限りなく近づくことはできるかもしれないが、厳密に「女」になることはない。永遠にたどり着けない以上、それはなりきるしかないわけで、普通の女の人より、そういった人たちのほうが妙に女性的というか女らしかったりする感じ、わかるだろうか。
僕にも似たような感覚があって、永遠に母親になることがない以上、自分の理想とする「母親像」というものを追いかけ続けなければいけない。
だから、やりすぎてしまうのだ。
よく近所の人から
「毎日毎日お布団干して感心だねぇ・・・」
と言われていた。
子供たちに、母親がいないという負い目を感じさせまいと「そこまでやらないだろ」と思うところまで、やってしまうのだ。
お布団干しと家の雑巾がけは欠かさなかったし、ごはんはどんな時でも手作りをして、空いている時間は極力子供たちと過ごしたし、夜は本を読んであげた。
世の中の母親は、本当の母親であり女性であるから、その役割の何たるかを知っているのだろうけど、僕は知らない。
父親が見よう見まねで母親を演じているに過ぎない。
母親であり女性であれば、少なからず横のネットワークを持っているものだが、男である僕にはそれもない。
母親として、今何をすべきかという情報を集めることができないし、比較する材料もない。
本来男である僕は、外に出て仕事をしお金を稼いで帰ってくるといった役割もあるのだが、小さい子供2人を抱え、頼る人もいない僕は本来の役割さえ果たすことができないでいた。
社会との接点など、何一つなかった。