16/6/2
【第10話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

母の左腕には注射針が刺さり、何か透明な液体が注入されている。
この注射針を抜けばたちまちにして母の呼吸は止まるのだそうだ。
母の親族や関係各位にあわただしく連絡を取り、最期をみとれるものを片っ端から呼び集めた。
朝の9時を過ぎたころから病室にはたくさんの人が出入りして、母はいよいよ死のおぜん立てが整ったのだった。
夜中何度も自宅に戻っては子供たちの様子を確認して、時間の許す限り病室についていたけど、朝早く自宅に戻り、家に残したままの子供たちに朝ごはんを食べさせ、すぐに着替えるよう命じた。
昨晩子供たちは、おとなしく寝ていてくれたようだ。
学校はお休みする旨を伝え、2人の子供を連れ母の病室へとんぼ返りした。
病院の静かな階段を上り重い個室の引き戸を開けると、母の周りを取り巻く雰囲気が、より重苦しいものに変わっていることに気が付いた。
子供たちはといえば、さすがに神妙な顔をして僕の後ろに隠れている。
何が起こっていて、今から何が始まるのか、何のために自分たちがここに連れられてきたのか分からないような不安気な表情をし、口を真一文字に結んでいた。
僕は姉に促されるまま病室へと入り、ドアのすぐわきの隅っこに立って、2メートル先の母のベッドを眺めている。
子供たちは僕の上着の裾を握り、後ろに隠れるように立っている。
「ほら、近くに行って顔見てやりなさい、何かお母さんに声かけて、きっと聞こえてるから」
と、誰かが僕の背中を押したけど、頷いたまま、その場所を動くことが出来なかった。
一つ違いの兄は母のベッドの奥、窓際の椅子に腰かけ母の手を握り泣きじゃくっていた。
産んでくれたそして育ててくれた母に伝えねばならぬことが、たくさんあったに違いない。
僕はそんな兄の姿を見て、うらやましいような、恥ずかしいような、それでいてそうすることのできない自分がみじめなような気持ちになった。
兄は、僕には目もくれなかった。
母が呼吸を止めるその瞬間まで、母の手を握り何かを語りかけていた。
「それでは、はずしますよ」
担当の看護師が感情をこめずに言った。
はずすのは、もちろん母の腕に刺さった注射針のことで、これは家族、兄弟の総意だった。
「もう、十分だろ・・・これで楽にしてあげよう」
たぶん、これでよかったのだと思う。
母の腕から注射針が抜けると、母の呼吸は、さらに弱くなった。
いよいよ、母が死ぬ。
僕は子供たちの手を引き、自分の横に並ばせると、2,3歩前に歩いた。
子供達に声はかけなかった。
ただ、手を握っていた。
みんなが看取る中、母はその呼吸を止めた。
医者が病室に入ると、テレビドラマのようにペンライトを数回顔の前で振り、お決まりのセリフを言ったのだった。
たいして親孝行などしてこなかった。
いや、しようとさえ考えていなかったかもしれない。
30歳にもなってまともな仕事もしていない子連れのさえない父子家庭で、母はついぞ僕に安心することはなかっただろう。
自分自身でもそれはよくわかっていただけに、死にゆく母に声をかけられなかった。
なんて言えば良いのか、よくわからなかった。
「お母さん、ごめんね」
かな。
「お母さん、ありがとう」
かな。
それとも・・・
「俺がこんなになったのも、全部お前のせいだよ・・・」
だったのかな。
母とのの関係がどうであったにせよ、父子家庭に成り下がり、貧乏のどん底で子供たちを育てるのに四苦八苦している僕が、母にかける言葉を見つけられなかった。
ただ、これだけは間違いないことがある。
いざというときに頼れる人が、いや、僕の場合頼れるとは限らないけど、頼れるかもしれない人が確実にいなくなった、ということ。
子供たちは、それほど会ったこともない僕の母親の死を見て、何を思っただろう。
僕は決して死なずに、この子たちを育てなければ。
僕が死ねば、この子たちが頼れる唯一の人間を失うことになる。
僕は死ねないと、強く思った。
母の具合がほんの僅か上向いた夏のある日。
たった数時間ではあるが、母が長年暮らしたこの家に、母を連れ戻すことができた。
老健施設に入所している父はいなかったが、兄弟と僕の子供たちで、母を囲んで楽しく談笑した。
みんなで写真におさまり、記念撮影もした。
それは、僕たちがここに越してきた意味でもあり、最後にささやかだけど親孝行した気になったものだ。
そんな日でさえ母は、リビングの外の廊下で遊ぶ僕の子供たちを一瞥し、「うるさいからもう連れてくるな」と悪態をついた。
これは、僕の知る母そのものだ。
母が死んだのは平成18年9月19日。
水戸の借家からここに越してきたのが9月5日だったから、その年は忙しかった。