16/6/1
【第6話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

父子家庭になるのとほぼ同時期に、両親は病床に倒れた。
毎日酒を飲んでは暴れまわる父と、そんな父を罵倒する母。母親の期待に常に応え続ける兄と、その期待を受け止めきれずドロップアウトした僕。
これが両親と僕の青春時代で、毎日毎日繰り広げられる堂々巡りにほとほと嫌気がさして家を出た18歳の春から、30歳になるまでの間ほんの数回しか顔を合せなかった両親だったけど、兄から連絡をもらい、もう長くないことを知ったのだった。
「会いに行ってやれ」
兄からのほぼ命令に近い物言いに、しぶしぶ母の入院する病院へ足を運んだのだ。父より母のほうが一刻を争う病状だった。
子供たち2人を連れ、母の入院する水戸の日赤へ行ったのだった。子供たちだけでお留守番させるのには、まだまだ不安がある。
孫の顔でも見せてやろうかという、僕なりの親孝行らしき気持ちもありつつ、子供たちを置いていくわけにもいかないという現実的な問題もあるにはあったのだ。
何年かぶりに見る母はベッドに横たわり、僕たち3人に一瞥をくれると、僕の名を呼び、こう言った。
「やかましいから、子供は連れてくるな」
母の真意は知らない。
後々母が死んで葬式をするわけなのだが、そこに集まったほぼすべての近親者から、僕はこう言われた。
「お母さんにはかわいがってもらえなかったからなぁ・・・お前は」
出来の悪い僕は、出来のいい兄に比べ、冷遇されている状況には子供心に薄々は気づいていた。
僕が悪いのかもしれない。
難しいことはわからなかったけど、今まさに母親を失おうとしているのだということだけは、はっきりと分かったのだった。
久しぶりに見る母は、元気とは程遠い、やがて死にゆく定めの病人そのもので、久しぶりだからこそ強烈な印象を受けた。不思議なもので、ここまできてもまだ母親を失いたくないという気持ちは、これっぽっちもおきなかった。
多分、まだ本当の意味で親を失うということ、そして、その重大な意味を理解できていなかった。
それだけ若かったといえば、それまでだ。
僕よりも、はるか幼少期に母親を失った子供たちと一緒に暮らし、その子供たちの生活を保障する立場にある僕でさえ、母親を失うという意味に気が付かなかった。そうは言っても近いうちに死にゆく母を目の前にしては、さすがにほっておくわけにはいかない。
何の因果か、父子家庭になり母親を失った子供たちを抱えたうえで、今まさに自分も母親を亡くそうとしている。
僕が父子家庭になったその年の年末、母が入院先の病院で手術をすることになった。小腸ガンだそうだ。
子供たちが幼稚園と小学校に行っている間、母の入院している病院に、時間の都合がつく限り通った。特に何をするわけでもない。暇つぶしの話し相手なのだが、母と話をするのはやっぱり懐かしかった。
この手術で、回復に向かう確率は未定。
開けてみなければ分からないとのことだったが、医者の物言いからして、母が助かる確率が高いとは思えなかった。母の手術は家族の総意で、僕が口をはさむべき事柄ではない。家族での立ち位置で言うと、末っ子のできそこないに発言権はない。
それでも、母の術後の説明やその後の付添は誰もできないといういつもの末っ子の法則で、僕の仕事となる。
子供たちを抱え、両親の介護。
許す限りの時間を使い、病院に通い、家に戻れば子供たちのご飯を作っていた。
子供たちも一緒に連れて行かねば母の病院に行くことができない日もあったのだが、子供たちは会ったこともない僕の母親の病院に行くことに、なんら楽しみを見出せないでいた。
一緒に行ったところで、母にかわいがられるわけでもない。
これ以外どうすることもできないまま、時間だけは過ぎ、予定通り母は手術を終えた。
術後の説明をしたいと病院側がら申し入れられ、母の手術が終わりひと段落した午後9時過ぎに、病院へ向かわなければいけなかった。
子供たちには「パパはちょっと出かけてくるから、2人で寝てるんだよ」と言って2人だけ家に残し出かけたのだが、まだ小学生にもなっていない子供を残して家を空けるということが不安でないはずがない。子供たちを連れいていくには事態が深刻すぎた。
兄弟の誰もが説明を聞きに行くことが出来ないと言っていたけど、僕にだってできないことがある。状況から言ったら僕が一番不都合が多いと思われるのだが、末っ子の事情など無いに等しい。
病院に着くなり応接室らしきところに通され、執刀医だという僕よりもまだ若いであろう医師と、もう一人の医師とテーブルを囲むことになった。
若い医師は、母の胎内から取り出したがん細胞を、銀色のお皿のようなものに入れ、僕に見せた。
「お母様から取り出したがん細胞です」
生まれて初めて見るがん細胞のあまりの大きさに、返す言葉を失ってしまった。
血の塊のような色をしたソフトボール大の腫瘍、これが体の中に入っていたということが、にわかに信じがたいほどの大きさだった。
医師は、術中の様子や術後の経過など、僕にはよくわからない説明を延々と繰り返していた。母の病状はもちろん気になっていたのだが、家に残してきた子供たちのほうがもっと心配で、簡潔な説明を医師に求めた。
「あの・・・つまり、簡単に説明してもらいたいんですけど・・・もし、自分の母親が同じ病気で手術が必要になり、先生が執刀医で開腹し、僕の母と同じ状況が自分のお母様の状況だったら、執刀医として、どのような判断をしますか」
若い医師はしばらく間をおいて、
「残念ながら、私の母はこの病気が原因で命を落とすであろうと、考えざるをえません」
と言った。
それですべての状況を飲み込んだ。
そうか・・・母は死ぬのか。医師の口から下された余命は半年。僕に残された母親との時間は、半年に決まった。そうは言う物の、今更何ができるのだろうか。
やらなければいけないことがたくさんありすぎて、生きていくだけで精いっぱいで、子供たちの面倒を一人で見なければならない今の状況で、母のために何ができるのだろう。
金の心配をしながらの父子家庭生活である上に、親の介護。
父子家庭になり、その生活も落ち着かぬままに、母の命に期限がつけられたことで、慣れない父子家庭と介護の両立という生活を強いられることになる。