僕に残された道は、2つに1つだった。
1つは、死ぬか。
もう1つは、脱ぐか。
意味がわからないと思う。だけど、当時の僕にはその2つしか選択肢がなかった。
何度か、自殺を試みた。
どうやったら苦しまずに死ねるだろう?と自殺サイトを徘徊しては、
「やっぱり俺には死ぬ勇気すらない・・・」と自己嫌悪に陥る毎日。
当時の写真が奇跡的に残っていたので公開しておこう。
ああ、自分で見ても本当にやばい顔をしているな。
・・・とにかくこんな生気の抜けたやばい顔をしていた
「生きていて死んでいる」というのがピッタリな、ゾンビのような人間だったと思う。
こんなことを言うと、ドン引きされてしまうだろう。
でも、全て真実だからこそ、伝えたい。
その時の僕のスペックは、実際ひどいものだった。
はっきり言って、底辺。カスだ。
どんくらいカスだったかというと、ざっとこんな感じ。
こんな具合で、まさに、ドラ◯もんの中に出てくる
の◯太を実写化したような人間。
友達もいないし、親が怖くて実家でもいつも両親の顔色を伺っていたし、
唯一できた彼女には振られるし、給料は低くてリアルワーキングプア、
本当に本当に、毎日暗くてジメジメしていて、どうしょうもないヤツだった。
まさに『「負け組」所属のび太』って感じの生き方を23年間続けてきたんだけど、
ある日、そんな自分を変えたくて、僕は自己改革をしようと決意した。
訳がわかってなすぎて、とりあえずいろんなビジネス書を読んでみることにした。
その結果、僕はさらなる病気にかかった。
起業だとか、成功だとかに憧れる若者がよくかかる
「例のヤツ」だ。
まあ、なんともありがちなパターンだけど
「金持ち父さん」とかを読んで、感激しちゃうバカだったわけ。笑
で、 それに触発されて、今思うと頭がおかしいんだけど、明らかにイカれてるネズミ講みたいなビジネスに興味を持っちゃった。
絶対これで成功する!とか思って飛び込んだんだけど、
彼女に泣かれてしまった。(実は、それがきっかけで結婚話が破綻した。苦笑)
少し冷静になって、ちゃんとまともな勉強をしよう。
王道でやろうと思って、一番まともそうな先生を探すことにした。
その結果、「はぐれものに光を当てる」ということを掲げて活動している
ビジネスの先生を見つけた。
なんだか、
「はぐれもの・・・それって僕のこと!?」
とか馬鹿だから素直に思って、
この人に学んでみようと決めた。
実際に本もたくさん書いている人だったし、評判もよかった。
ちゃんとした人たちを指導してきた実績とかもあったので、
少なくとも悪い人じゃないんだろうなと思った。
そんなわけで、藁をもすがる思いで、
そのビジネスコンサルタントの先生に会いに行くことにした。
その方は、まだ若い先生なのだけど、数々の起業家たちを輩出している。
僕みたいな何も持たない若者でも
彼なら幾度となくなんとかしてきたのを本やテレビなどの発信を見て知っていたから、
勇気を振り絞って、先生の主催している勉強会に入ってみることにした。
きっとその人なら、僕を変えてくれると思ったんだ。
それに、どうせ死ぬなら、お金をいくら払っても同じだから、
「この人は」と思える人に習いに行ってみようと思った。
その先生の勉強会に入り、僕が最初に言われたことは、
「お前はまずは筋トレでもしとけ!」
だった・・・
実は、僕はそのとき、先生に指導料として200万円を支払っていた。
「200万払って筋トレ!?」
という感じで、正直絶望しかなかった。
まじか・・・と思った。
いくらなんでもそんなこと、「ソープでも行っとけ」の北方健三巨匠よろしく、
きょうび、中学の野球部でもそんなことは言われないぞ・・・
これが、伝説のコンサルタントと呼ばれる人のアドバイスなのか。ぶ、ぶっ飛びすぎている・・・
いろんな意味で、僕は衝撃を受けた。
もっとも、後からわかったことだが、もちろんその先生には明確な意図があったのだけど、
そのときの僕は、そんな言葉の意味なんて、これっぽっちも理解できなかった。
なけなしの給料をしこしこ貯めて作った貯金を全て溶かしてこれかよ、
という感じで、 正直、疑心暗鬼に囚われてしまったのだけど、こうも思った。
「どうせ死ぬなら、脱いでみよう。」
なぜかそう思った僕は、服を脱ぎ捨て、筋トレを始めた。
ヒョロガリ、のび太みたいな自分を少しで変えれたら
と思って始めた筋トレだったが、
思いのほか面白くて、グイグイとのめり込んでいった。
他にやることもなかったから、徹底的になんでもやろうと思って動いた。
でも、お金がないから、「猫缶」にマヨネーズをかけてタンパク質を摂取した。
(この逸話を話すと変人に思われるかもしれないけど、当時の僕には最高のごちそうだった。)
そんな風にして、身体を鍛え始めてから半年たったとき、
「お前は筋トレでもしろ!」ときっかけをくれた恩師から、
さらにハードルの高い無茶振り、もといミッションがくだった。
「重田よ、どうせやるなら、本気でボディビル
とか目指してみたらいいんじゃないか?」
と。
無茶言うな、と思った。
本当にこんな具合で、いつも突然めちゃくちゃなことを言い出す先生だったんだけど、
でも結果的にその人のアドバイスは多くの人の人生を変えてきたので、
僕はその言葉を鵜呑みにした。
そんな人としても男としても 魅力ゼロだった人間が
筋トレを始めて180日が経った。
チャレンジ開始からわずか半年。
奇跡が起きた。
2015年9月、
僕はボディビルの聖地、
アメリカのカリフォルニア大会で、
並み居る欧米人を抑えて、日本人チャンピオンに輝いたのだ!!
「金なし、コネなし、根性なし」の三重苦を
背負った人間が、どうやってここまで変われたのか?
・・・これは、ド◯えもんもびっくりの変身物語である。
あ・・・ちなみに僕の名前は「重田」って言います。
「おもた」じゃなくて、「しげた」です。
なんだか「のび太」みたいで本当に自分の名前にすらへこんでいた僕ですが、
是非、そんな僕がどうやって半年間で生まれ変われたか?
今からお話させてください。
話は少し戻るけど、「筋トレ」を始める前、僕は介護士をしていた。
よくメディアで介護現場の惨事や暗い現場が報道されているけど、実態はあんなもんじゃない。
ボケて、訳の分からなくなった老人から、う●ちを投げられることなんて日常茶飯事だし、本当にカオスだ。
介護というのは世の中の本音と建前が交錯する現場だ。
「女子供、お年寄りは大切にしなさい」
そんなキレイゴトを並べながら、
自分の親を平気で見捨てる大人たちだらけ。
「老人介護施設」というと聞こえはいいかもしれないけど、
要するにここは現代の姥捨山だ。
自分たちでは手に負えなくなった年老いた親たちを放り投げるように、見捨てていく。
「そんなことはない!」という人もいるかもしれないけど、どれだけ建前を並べたところで、本音では「自分たちでは面倒臭い」というのが正直なところだろう。
僕は、その現場の第一線にいた人間だから、そう言っていい資格があると思う。
少なくとも、僕が見た介護の現場というのは、
そんな「大人」たちの本音と建前が垣間見える世界だった。 とても、陰湿で人間の闇がそこにはあった。
その現場に携わるサービス提供側、つまり僕たちサイドはどんな感じか?
たいていの場合、介護職に就くような人たちというのは、優しい人が多い。
社会的「弱者」にたいして、自分が何か力になりたい、生きる支えになりたい、
そんな気持ちでこの世界に入ってくる。
だが、介護現場は、キレイごとだけでは回らない。
はじめは希望に満ちた表情の介護職員も、1年、2年と経つうちに、多くの人が安い給料と、ボロ雑巾のように使い捨てにされる事実にふれ老人はおろか自分に自暴自棄になってしまう。
「おじいちゃん、おばあちゃんが好きだから」
それは確かに、みんな最初はそうなんだ。
だけど、いつの間にかキレイごとになっていく。
多くの介護士たちは、そんな気持ちをやがて忘れ
「●●さんがまたやらかした・・・怒」とか、愚痴を吐き、将来の不安から目を背け、
消耗するように日々を生きる毎日に変わってしまう。
誰一人として、目が輝いていなかった。
大人になるって、こんなことだったのか?
介護の現場に限らない。
世の中の大人たちは、「キレイゴト」「道徳」「世間体」に殺されている。
「給料は安いけど、この仕事が好きだから‥」
「どうせ仕事なんて、どれもこんなもんだから‥」
「世の中、そんなに甘くないから‥」
そんなの、目先の問題から目を背けて、
現状維持を引き延ばしているだけだ。
僕は人間の生きる意味を考えた。
結局、キレイゴトに逃げるだけじゃ、
弱者は救われない。
弱者を弱者が救おうとしたところで、
力が無い以上、やはりキレイゴトに潰されてしまう。
「優しくしたい」と思っても、僕らは非力だ。
じゃあ、「諦める」のか?
それが世間が求める「賢い生き方」だとしても、それはあまりに虚しすぎる。
そんな思いが交錯し、絶望がピークに達したとき、
僕に人生の転機となる、一通のメールが届いた。
唯一の、僕の生きる希望だった、彼女からだった。
(一応当時は彼女がいました・・・)
2014年5月。
「あなた、なんかつまらない男になっちゃったね…」
そんな言葉を添えられ、
僕は結婚を約束していた彼女にフラれた。
あまりにあっけなく、あまりに突然のことだった。いきなりメールがきて、フラれた。どんなに粘ってみても、彼女の心は既に離れていた。
「あなたのことは応援してる。だけど、もう一緒にはいられない。」そんな内容だった。
自信喪失。自暴自棄。虚しい現実が唯々悔しかった。
涙が枯れるほど、なんていうのはぬるいくらい泣いた。
もはや、僕はミイラだった。
そのあと、正直数ヶ月間の記憶がない。
一夏、僕は完全なる空白の時間を過ごしていた。
抜け殻になって、消えてしまいそうだった。
我ながら、貧弱な男だなと思うけども、
そのときの僕には、もう何もなかった。
彼女との未来を夢見てためていた貯金だけが
虚しく銀行通帳に記帳されていた。
この貯金を使って、何か人生を変えてみよう。
そう思い始めたのが、夏が終わる頃だった。
2014年10月。
プライベートにピリオドが打たれてしばらくしたある日。
インターネット上で、ある男を見つけた。
冒頭に書いた「200万円を払って習った先生」だった。
その方の発信を追いかけていると、
なにやら、 新しく起業家を育成する塾のようなものを始めるのだという。
「今がゼロでも関係ない。やるかやらないかが勝負の人生」
「ゼロから挑戦したい方、歓迎します。」
そんなようなことが書いてあったように記憶している。
これだ!これしかない!そう思った。
僕は反射神経だけでそのオファーに飛びついた。
正直、今まで生きてきた世界と全く違う世界の話だ。
何が何だかわからなかったし、起業家とはほど遠かったけど、
とにかくもうこんな状態を続けるくらいなら、死んだほうがマシだ・・・
そんな心境だった。
死ぬか、生きるか。
生きるならば、せめてもがいてやる。そう思っていた。
だから飛び込むことに躊躇はなかった。
このとき介護の仕事では、
あたらしく始める事業のリーダーをやってみないか?と話をもらっていた。
少しだけ嬉しかったけども、
僕にはもう介護のあの暗く、重たい雰囲気の中で、
自分を殺して老人のう●ちをふき取ったり、
夜中徘徊するおじいちゃんやおばあちゃんたちを
力づくで引き止めてベッドに寝かしつけるような仕事はもうやる気力がなくなっていた。
唯一の最愛の彼女にもフラれ、僕は全てをリセットすることに決めた。
ちょうどタイミングよく見つけた、その起業家育成塾が、そのときの唯一の光だった。
一瞬だけ迷いつつも、すぐに辞表を書いて提出した。
僕は、無職になった。
いよいよ本物の社会不適応者の出来上がりだぞ、と思いつつ、
ある意味「僕らしいな」とも思った。
・・・まあ、そんなところが、「のび太」が所以だ。苦笑
とにかく、僕はその時に運命を感じていた。そのまま離職して、
思いの丈を全てぶちまけ、僕はその方が主宰する経営者勉強会のメンバーになった。
「何もできないヒョロガリのび太なら、
とりあえず筋トレでもして、肉体改造してみろ」
すでにお話しした通り、師匠からもらったその言葉を真に受けて、
僕は筋トレを始めることにした。
これが、2015年11月の話。
自分には特別なスキルも才能も無い、
そんな僕でも人生を大きく変革できることを証明したい。
僕の退路はすでに絶たれていた以上、やるしかなかった。
スタート時の僕は、いわゆる「ヒョロガリ」だった。
高校時代、体操部で運動を少しやっていたけど、
基本的には誰がどう見ても「貧弱」きわまりない、 パワフルさとは無縁のやさ男だった。
嘘だと思う人もいると思うので、証拠を見せておきたい。
僕が筋トレを始めた初日の写真がこれだ。
ご覧の通り、体脂肪はないものの、痩せこけていて、 貧相極まりない感じだ。
お腹も贅肉がないから割れているように見えるかもしれないけど、
誰でも人間なら元から腹筋というのは割れている。
筋肉があるというより、贅肉がこそげ落ちているだけだ。
「細い」、「軟弱」といった感じのほうが正確だろう。
ここから、僕の挑戦は始まった。
「やれることはすべてやれ。これ以上の努力はないと自分で誇れるくらいでやってみなさい。」
師匠に言われるがままに、僕は、できる限りのことをやろうと決めた。
まず、トレーニングジムに通うことにした。
介護士の仕事というのは結構ハードなもので、
日勤と夜勤が交代交代にある。
仕事が終わった後は、はっきり言ってすぐにでも
ベッドに飛び込みたいくらい疲労していたけど、
そこで寝たら終わりだと思って、筋トレに励んだ。
さすがに限界まで疲労しきっていたときもあって、
起きたら駅のホームで寝ていた、とか
電車の中で立ったまま寝ていて前の人にダイブして、
ひんしゅくを買ってしまったことも・・・
仕事とトレーニングの両立をもっと効率化したくなってきて、
自分の部屋を改造することにした。
トレーニング雑誌を買ってきて、そこに乗っているトレーニンググッズを注文。
自宅で筋トレができるような体制を作ることにした。
そして、部屋のあらゆるものを排除し、
トレーニングのためだけにシンプルに改造した。
そんなこんなで、とにかく、やれることを全てやりはじめた。
そしたら師匠から次のアドバイスをもらった。
「そのチャレンジ、みんなの勇気になるかもしれないから、 ビデオとか撮って、youtubeでもやったら?」
正直、youtubeなんてよくわからなかった。
「僕の挑戦がみんなの勇気になる?」 って感じで、
意味がわからなかったけど、 とにかくやってみようと思った。
合言葉は、「やれることは、なんでもやる」だ。
僕に退路はない。
死ぬか、脱ぐか。
Take off or Dieだ。
だから、youtubeも始めてみることにした。
結果的にyoutubeは・・・超絶人気なし。
100本もの動画を撮ったんだけど、全動画の平均再生回数はなんと46回。爆笑
もはや更新する意味がわからなかったけど、
とにかく筋トレしている風景を動画にとったり、
挑戦しながら思うことを徒然なるままに喋ったりした。
これも事実なので、誇張なんてしない。
僕はチャンピオンになったけど、未だに無名だし、
youtubeでは未だに最底辺の人気ゼロyoutuberだ。苦笑
◯び太は吠えた。
ドラ◯もんに頼れない中、
僕は自分で自分を奮い立たせる方法を必死に研究していた。
筋トレで人生は変わるとは限らない。
でも、何か一番にならなきゃ人生は間違いなく変えられない。
ヒョロガリだろうと関係ない。
どうにか自分を変えなくちゃダメだ。
スタートした2015年11月の時点では筋トレは、
僕にとって「リハビリ」みたいなものだった。
だけど、やっているうちに本気になってきた。
2015年4月。春の訪れとともに、僕の中に挑戦の気持ちが強くなってきた。
どうせ目指すのならば限界に挑戦してやろうと思って、
目標は肉体改造の最高峰「ボディビルでの優勝」にした。
ここから180日で、僕は本格的なボディビルダーとしての道を歩んでいくことになる。
本気になった僕を見て、師匠はチャンスをくれた。
まるで、この流れになるのを最初から見透かしていたかのように、
最大の援助者を僕に紹介してくれた。
「筋トレ」という分野においては、伝説的な人物だ。
その方とお会いするチャンスが訪れた。
彼の名前は、
北島達也。
20代前半で渡米し、 ハリウッド俳優が通う有名ジムで数々のトップビルダーから指導を受け、 独自で体得した知識と経験を統合し ボディビルの本場、カリフォルニアで、 日本人として初のチャンピオンに輝いた人物だ。
現在は、Youtubeチャンネル登録者33,354人 総視聴再生数600万回再生を誇る【THE WORKOUT】レーベルを運営。
その他、有名経営者や芸能人、歌手、プロアスリートから絶大な支持と結果をもたらし 有名TV番組やTVCMにも有名俳優やタレントと共に多数出演している 筋トレジャンルNO.1のカリスマボディビルダー。
簡単に言うと筋トレの世界の「神様」みたいな存在だ。
(おそらく現在、日本で一番有名なボディビルダーだと思う)
師匠が仕事で北島さんをプロデュースしていた関係から、
「重田、一度北島さんと会ったらいいんじゃないか?」
ときっかけをくれた。
ドキドキしながら北島さんが経営するプライベートジムのドアを叩いた。
出会い頭に、北島さんは僕にこんな声をかけてくれた。
「君は細いけど、肉のつき方は綺麗だね。鍛えたら結構モノになるんじゃないかな。」
・・・率直に嬉しかった。
だって、誰のためでもなく、自分が変われたらと思って始めた筋トレだったから、
日本の頂点にいるボディビルの神様みたいな人に、
お世辞だったかもしれないけど、 そう言ってもらえたことが本当に嬉しかった。
そのとき、調子に乗って、
僕は密かな夢(日本のボディビル選手権に出ること)を
北島さんにお話させてもらった。
「北島さん・・・実は、恥ずかしいんですけど、
僕は夏に行われる日本のボディビル地方選手権に出場してみようと思っているんです・・・! こんな僕でも、勝てる可能性ってありますか?」
ああ・・・もう、質問の仕方からして、いかにも情弱で、
本当にダメな奴って感じだな・・・苦笑
まあ、とにかく、こんな風に北島さんに聞いたように記憶している。
僕の質問に対する、北島さんの返事は、意外なものだった。
こんな風に、北島さんは僕に
●日本のボディビル選手権なんてレベルが低い
●出ているビルダーを見れば明らかで、筋肉はついているけど格好悪いやつらばっかだ
●そんなところを目指すより、最初から世界を目指したほうがいい
というとんでもないことを伝えてくれた。
正直、「筋トレの神様」のアドバイスだったから、ありがたかった。
だけど、そのときの僕は、そんなこと想像もできなかったから、
とてもじゃないけど、素直に受け取ることができなかった。
「少し、時間を・・・ください。」
そう言うのが、その場では精一杯だった。
彼の言うカリフォルニアのボディビル大会とやらは、
2か月後の9月に迫っていた。
あまりの急転直下の展開。
常識的に考えて、可能性は限りなくゼロに近い挑戦。
よく、考えた。 冷静に、考えた。
そもそも、ほんの少し前まで僕は「のび太」だった。
日本のボディビル選手権に出るというだけで、大それた挑戦だったはずだ。
それが、一瞬で景色が変わった。
筋トレ界の伝説的な人物に面会が叶い、
その人に本場アメリカでいきなりやってみたほうがいいと言われた。
わずか半年前のことを考えると、世界がまるで変わってる。
僕は、老人のう●ちまみれになりながら、
ボケて訳が分からなくなった人たちの介護をしていたはずだ。
それが、いつの間にか「世界」を目指すチャンスが目の前にある・・・
正直、怖かった。
どうなるか分からなかったし、想像もつかなかった。
「だからこそ、やってみよう。」
気がついたら、思考よりも先にそんなセリフをつぶやいていた。
僕は、アメリカに行くことを決めた。
あらゆる可能性とチャンスを信じて飛び込まない限りきっと自分は変われない。
そう覚悟を決めた僕は、北島先生に頭を下げに行き、
彼の指導のもと、残り2ヶ月間で、カルフォルニアの大会での優勝を目指すことにした。
かくして、僕は日本人として初めて海外の大会で優勝を勝ち取った、
筋トレ界の伝説的人物に弟子入りをした。
北島さんのトレーニングは、これまで日本のジムや雑誌、情報源から学んできた
僕の中の「常識」と完全に真逆だった。
あらゆることが、北島さんに言わせれば「逆」で、
完全に日本のトレーニングとはやり方自体が全く異なるアプローチ。
最初は、「え?これも違うのか・・・」と驚いた。
今まで自分が学んできたことはなんだったのかと少し凹んだ。
北島さんはこういった。
「無駄な努力。日本人はそれが好きですね。「頑張った気になる」それ自体にカタルシスを感じて、悦に入る。 でも、それで結果が出るのとはまた別です。頑張ることを目的化してはいけない。私のやり方は、世界で戦ってきたやり方だし、 世界のトッププレイヤーたちから学んだやり方ですから。」
・・・ 実際その通りだった。
北島さんの教えに従って、トレーニングのやり方を根底から見直したら、
わずか2ヶ月の間にこれまでの何倍ものスピードで発達を始めた。
驚異的だった。
「これはすごい・・・北島さんは本当にすごい・・・」
彼の指導と、僕が独自に考えた方法論で、
できることは全てやった。
言葉で言うよりもずっと、やれることはすべてやった。
僕の生涯で一番頑張ったことはなに?と聞かれれば、このときだっただろう。
だから、残り2ヶ月しかなかったし、
ヒョロガリでのび太みたいな虚弱体質の僕が、
ボディビルダーになること自体がギャグみたいな話なのに、
いきなりの初挑戦が世界の頂点であるカルフォルニアの大会。
もう、訳がわからなかった。
だからこそ、やれるだけのことをやろうと思えた。
自分が生きていることの意味が、その先にあるような気がしていたからだ。
かくして僕は、「伝説の男」に指導を受け、全てをゼロから見直した結果、
2ヶ月間で世界で戦えるカラダを手に入れた。
2015年9月。
僕は航空券を片手に、ロサンジェルス国際空港に立っていた。
実は、HISのツアーに最初申し込んだらいいのかと思って、 窓口にいったら「そんなボディービルの大会にいくツアーなんてないよ。」と苦笑された。
それを師匠や北島さんに話したら、爆笑された。
しょうがないじゃないか・・・僕は一度も海外に行ったことがないんだ。
なんとかして、航空券とやらを買って、 パスポートも作って、
アメリカまで来ることができた。
現在、そんな状況である。
さて・・・しかし困った。
言っておくが、僕は英語が分からない。
日本と同じ感覚だったから、普通に空港から電車があるものだとばっかり思っていた。
どんだけ空港内を徘徊しても、電車が見当たらない。
空港についてから2時間近くが経っていた。苦笑
「と、とれいん・・・?」
半べそをかきながら、優しそうなおじさんに片言の英語で助けを求めた。
「$%'($)&")(&%(#%!!!!」
な、何を言っているのか全くわからん・・・やばい。
ただ、雰囲気からして、どうやら
「電車?電車なんてないよ!」
と言っているのがわかった。
そのまま背中を押されて、
「あっち!」と指をさされた。
その先には、タクシーの運転手が立っていた。
そうか、タクシーでいけってことか。
予約していた宿(4人の相部屋のボロアパートみたいなところだった)についたとき、
なんだか3万円くらい請求されたようなきがするけど、
きっとアメリカはタクシーが高いんだろう。
(実は、ぼったくられていた・・・つくづくのび太だと思う。涙)
宿は、お金もないし、地理にも不案内だったため、1番安くて会場に近いというだけで、そこしか選択肢はなかった。
一部屋4人で2段ベットを2つ置いただけのシンプルな部屋。
食事などは出ない。 相部屋なので、同室人は日によってどんどん変わっていく。
僕は2段ベットの上段で寝ていたんだけど、
隣ベットの下段でブロンズヘアーの女性が寝ていた事もあったり・・・
もう、なんていうか、色々結構キツかったです。
短パンTシャツなだけなのに本当に綺麗で、どうしようかと思いましたよ。
外出する時は何があるかわかんなかったので、
部屋に置いとくバックはナンキン錠をかけたり
柵にチェーンで止めて対策をしていた。
ちなみに、これはあとから聞いた話なんだけど、
その宿は、「ゲイの聖地」でもあるらしくて、
何事もなかったことに、ほっと胸をなでおろした。笑
(昔から、なぜかゲイに好かれるんです・・・)
初めてのアメリカ!!!!
北島さんが踏んだであろう土を踏みしめながら、「ここが、カルフォルニアかあー!何もかもが違う!日本とは違う!」とバカみたいに単純に感動していた。
大会は9月7日。現地についたのが9月4日だったから、3日間ほど日にちがあった。
大会が行われるベニスビーチの周辺をひたすら徘徊しながら、
イメージトレーニングをしていた。
アメリカでは、筋トレは日本よりもずっとずっと一般的のようだった。
ビーチサイドにあるアスレチックでは朝から老若男女問わず、
みんなトレーニングに励んでいたし、 街を見ても、
よく鍛え抜かれた美しい身体をしている人だらけだった。
後から聞いた話によると、
何もアメリカ全土がそういう感じであるわけではないらしい。
だけど、殊、この街はワークアウト(筋トレ)文化の聖地。
日本にいたときの僕は「筋トレをしている」と言うと、
ものすごく訝しげな目で見られることが多かった。
だから、何か自分のやってきたことが
認められているような気がして、 嬉しかった。
そのときの風景をまとめた動画があったので、もしよかったら見てみてください。
どういうところにいたのか?なんとなくイメージがつくと思います。
「マッスルビーチコンテスト」というからに、
マッスルビーチというところで 大会があるんだけど、
その現地視察をしたときの動画です。 かなりリアルに雰囲気が伝わるはず。
【YouTubeより 重田CAマッスルビーチコンテスト前日】
https://youtu.be/SpHDvE_mZD4
「この街で、僕のこの半年間をぶつけてやる・・・」
ボソッと呟きながら、サンセットビーチに向かって、
僕は固く握り締めた拳を掲げた。
そして、大会当日。
僕は朝から緊張していた。
ドキドキしすぎて、あまり眠れなかった。 もう、やるしかない。
大会は朝7時にエントリーして 最初に舞台に立ったのは11:00ごろ。
まずは順調に予選を突破。
あっけない感じで、あっさりと決勝戦に進むことができた。
今日の僕は、どうやらついてるらしい!!!
決勝が始まったのは、13:00頃。
僕は英語が全然わからない。
どのくらい分からないかというと、
中学英語レベルも怪しいくらい分からない。
正直言うと、単語単位の聞き取りも怪しいくらいのレベルだ。
だから、大会に出たはいいものの、
アナウンスも、 スタッフの人の誘導も、何を言っているか全く分からない状態。
僕1人での参戦だったので誰に頼れば良いかわからず、
ただただ周りの空気を読みながらやりくりするしかなかった。
そのときの僕の選手番号は77番。
なんとなく縁起が良い番号だなと嬉しかった。
ただ、この数字がかなりやっかい。
「セブンティーセブン」 なわけだけど、
「セブンティーン」と「セブンティー」の判断が付かない。
呼ばれるときは大体番号で呼ばれるんだけど、 英語が全く聞き取れない。
何度も呼ばれて
「DAIGO!!!!」
(僕の名前)
とキレ気味に叫ばれて
はじめて自分が呼ばれていることに気がつくという始末だった。
そんな具合だったので、せめて自分の名前だけは 聞き逃すまいと必死で、
大会前に満足に体を張らせるだけの余裕は全くなかった・・・
友達を作って、オイル(ボディビルダーは基本的に試合前にオイルを塗る。
見栄えをよくするためだ) を塗ってもらうのを手伝ってもらおうと試みたのですが、
みんな仲間を連れていて相手にされず。
もう、場違い感が半端なかったです・・・
そうこうしていると 「seven seven!!!!」という声が聞こえてきたので、
「聞き取れた!僕のことだ!」と思い、真っ先に受付員の元に駆け付けました。
で、列に並んだんだけど、
「あっち行け」
と追い払われる。
おかしいな、差別か!?
と思い、 僕を遠ざけようとする受付員を相手に、
頑なに動くまいと意地をはって立っていました。
アメリカなので、日本人的な丁寧さはないはず。
そして僕が日本人だからといって、バカにしてわざといじわるをしているんだ。
うまくこうやってごまかして、選手がいないことにして、
待たずに飛ばしてしまうんじゃないか?
とにかく「俺はここにいるぞ!」と示したくて、
「I'm seven seven!!!!」
を連呼して、必死でアピールをした。
が・・・ 実は、このとき受付員は77歳のシニア選手を探していたようです。爆
恥ずかしいですけど、とにかくそのくらい余裕がなかったんです。
言葉も通じない。 知人もいなかったので、
自分が決勝に立つ事も直前までわからず、
決勝戦前は、
「DAIGO!!!YOU!!! COME ON!!!!」
と
ブチ切れた スタッフに腕を掴まれ、連行されるように舞台にあがりました。苦笑
(その際、日本語を少しわかるスタッフがいて、久しぶりの日本語に、泣きそうでした)
そして迎えた決勝戦。 77の番号札をつけた青いブリーフを履いて、
僕はステージに立った。
英語でなんかポージングの指示をしてくるんだけど、
何を言っているか分からない。
横目で隣に並んでいる選手を見て、 何が起きているかを判断する。
だから僕だけ常にワンテンポ遅れていた。
「ああ・・・僕はここにきても、周りから半歩遅れたのび太なんだ。」
一瞬、弱い自分がちらつく。 だけど、負けてはいられない。
自分でも、自分なんかがなんで決勝戦の舞台に立っているかもよく分からない。
だけど、これは現実だ。
半年前までは、老人介護に疲れ、この世の全てを恨む廃人だった。
彼女にはフラれ、貯金を全て使い果たし、生きる希望もなかった。
だけど僕はいま、生きている。
生きて、こうしてボディビルの本場、アメリカの聖地「マッスルビーチ」で、
ボディビルダーとして何千人といる観衆を目の前にして戦っている。
やれるだけのことはやってきたんだ。 やれるだけのことをやってやる。
そう思って、必死で自分の全てを叩きつけるように、
ポーズを決めて、鍛え抜いてきた筋肉を見せつけてやった。
試合は終わった。
なんだか良く分からなかったけど、とにかく終わった。
「ふぅ・・・」と息をついて、真っ白になって立ち尽くしていると
どうやら僕を呼ぶ声がする。
「DAIGO!!! JAPANESE!!! YOU!!!!!」
相変わらずブチ切れたスタッフが僕を呼びに来た。
半ば諦めたように呆れ顔だった。 もう向こうも、
「こいつは本当に・・・」といった感じで、半ば諦めたように呆れ顔だった。
「僕?」
「YES!!!! YOU!!!! COME ON!!!」
呼ばれるがままに、スタッフに誘導されてついていった。
呼ばれた先は、再びステージの上。
「%#(&)!"$#=0%"」
相変わらずよく分からない英語でアナウンスがあった。
と、次の瞬間。 トロフィーが渡された。
ストロボがパシャパシャとたかれる。
スタッフの人が駆け寄ってきて、またなんだか分からない英語で喋りかけてくる。
「い、いえす。」
よく分からなすぎて、とりあえず「YES」と答えてしまった。
拍手が沸き起こる。
スタッフの人は、ちんぷんかんな僕の応答に苦笑している。
何が起きているか分からないけど、とりあえず笑っておくことにした。
「あは、あはははは」
観客が写真を撮ってくるので、笑顔でピースをしてみた。
「頑張ったということで、きっと日本人だし珍しかったから、
『頑張ったで賞』、あるいは『お疲れ様で賞』みたいな感じのものをもらえたのかな?」
それならそれで、なんかのび太らしくて僕らしいや。
僕は、十分頑張ったよね。 お疲れ様、自分。
そんなふうに、自分をねぎらいながら、僕は舞台を降りた。
観客からの拍手は鳴り止まなかった。
舞台を降りて、渡されたトロフィーをよく眺めてみた。
英語が、やはりよく分からない。
だけど、そこにはこう書いてあった。
「Muscle Beach Championship September7, 2015
Novice -Bantam Wt. -UP to 143 1st Place」
翻訳するとこうだ。
2015年9月7日、マッスルビーチコンテンスト
新人の部 バンタム級(143パウンドまでの部) 優勝
「1st Place????ゆ、優勝!?」
そう、僕は、優勝していたのだった。
まさか!? ほっぺたをなんどもつねった。
だが、渡された「頑張ったで賞」は、夢じゃない。
「優勝トロフィー」だった。
僕は・・・優勝していた。
優勝していた!!!!!!
ああ・・・夢じゃない。
優勝していた!!!!!!!!!!
僕は優勝することができた。
つい去年まで僕は本当に自信がなくて自分を変えたいと思っても
どうすればいいか分からない、迷ってばかりのダメなやつだった。
でも、小さなきっかけから大きく自分を変えることができた。
だが、実はこの瞬間、ある種の「絶望」を感じていたのも事実だった。
ある意味で言えば、早すぎた勝利だったと思うのだ。
不思議な感覚かもしれない。
僕にとっては、優勝までに駆け抜けてきた180日間というのは、
走馬灯のように目まぐるしく過ぎ去った日々だった。
無我夢中で、その過程にいるときは振り返る暇もないくらい必死だった。
死ぬ気で走り抜けたら、結果的に僕は本場アメリカの
マッスルビーチコンテストで、 優勝していた。そんな感じだった。
その先に何があるのか?
優勝した直後から、僕の中にある種の虚しさが訪れていた。
今、僕がやるべきこと・・・
理解しずらい感情かもしれないけど、
この優勝は僕だけがもたらしたものじゃないともある意味感じていて。
つまり、僕の中の可能性を信じて、最初に見出してくれた師匠。
そしてそれを応援してくれた仲間たち。
力を貸してくれた、筋トレ界の偉人・北島さん。
そういう人たちのエールあって、はじめて僕は今の位置に立っている。
僕は、僕という人間をある意味殺せた。
自殺できた。 だから、生まれ変われた。
そして、僕は僕になれた。
だから、僕は、過去の僕のような、 何をやってもダメなやつ。
自信がなくて世間を呪ってばかりのやつ。
そんな「のび太」たちに、僕のこの戦いを共有したいと思った。
いや、正確に言えば、そうしなきゃいけないと思った。
僕一人の戦いじゃなかった。
だから、僕がすべきことは、受け取った勇気を、
他の誰かに手渡すことなんじゃないかって思っています。
それが、この手紙を書いている理由の全て。
僕は本当に世の中の最底辺の最下層の人間でした。
書いていませんでし たけど、老人介護の前に・・・実は「死体回収」をやっていたこともあるくらいです。もはや映画とか都市伝説の世界みたいでしょ?でも本当なんです。
真夏に腐乱死体を回収する案件をやったときには、
そのあと1ヶ月くらいお肉や魚を見た瞬間、戻していましたから・・・
たぶんこのくらい底辺の仕事をしていた人なんてほとんどいないはず。苦笑
自慢じゃないですけど、本当にあらゆる意味で「のび太」を極めていました。
「キングオブのび太」=超ダメな奴、です。そんな奴が、逆転したわけです。
普通の、一般の人なんて、たいていたいした自信もなければ、
屈強な精神を持っているわけでもない。
そういう「普通の人」や僕みたいな「普通以下の人」が、
どうやったら短期間のうちに自分を変えられるのか?
そこもせっかくなのでお話ししたいと思いました。
短期間で人はここまで変われる。
そして肉体を変えるのは、これほど簡単であるってことが分かっていただけると
嬉しいです。
■プロフィール■
重田大吾(しげた・だいご)
1989年5月15日(26歳) 神奈川県生まれ
元:ヒョロガリ、ドモリの「のび太」
現:ボディビルの聖地、 カリフォルニアボディビルコンテストチャンピオン *マッスルビーチコンテストビギナーズクラス優勝
幼少から保育士の虐待と両親との確執が 「人を傷つけたくない」という想いを肥大化させ介護士に就職。
そこで「お年寄りを大切にする」とは名ばかりの 「人間の尊厳」を無視した現場と それに染まってしまう自分の弱さに絶望。 道徳や綺麗事を盾にして、 現実を見ようとしない大人たちにも腹を立てる。
自分の人生を生きるために起業を志すが、 彼女に理解をされずにそのまま振られる。
職無し、彼女無し、取り柄無しの ないない状態を脱却するため起業を志し、とある経営者勉強会に参加。
手取り16万円という薄給の中、毎月の支払が22万というもっとも高いコースに申し込み引くに引けない状況に自分を追い込み、 そこから自分の精神性を叩き直すことを決意。
勉強会の主催者に勧められ、2015年4月より本格的にボディビルトレーニングを開始。しかし、当時は周囲の誰もが認める「ヒョロガリのび太」状態であった。
その後、日本初のカルフォル二アチャンピオンであり、【THE WORKOUT】のカリスマボディビルダーとして有名な北島達也と知り合い、短期間のうちに筋肉を10キロ増やすことに成功。
2015年9月、スタートからわずか半年で、CAベニスビーチで開かれるボディビルダーの祭典 「マッスルビーチコンテスト」においてチャンピオンに輝く。
帰国後、その経験を活かして訪問型フィットネストレーナーとして起業。 メール相談だけでクライアントをリバウンドさせることなく、8キロダイエットさせるなど指導力を発揮。 その他、携わったすべてのクライアントたちダイエットを成功させる(2ヶ月平均8kg)など、高い信頼を得ている。
現在は次のステージの挑戦に進むため、 恩師の元でゼロからのスタートを切っている。 今宵、自身が実践し、証明した 「自己改革メソッド」を始めて公に公開。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100006081343484
〜ぼくは、ぼくの中の「小さなヒーロー」を信じた〜
僕はアニメが好きでした。
主人公はいつも物語の中心にいて、 冒頭で落ちこぼれてても、
終盤で必ず誰かのヒーローになって、世界を変えるからです。
僕はそんな主人公が大好きで、 ずっと憧れていました。
いつか誰かのヒーローになりたいと思っていました。
だから、介護士をしていて、 久しぶりに会った同期や先輩が、
心を病んで精神病になってしまったり(介護の現場ではすごく多いです)、
それが原因でいなくなっていくのを見るたびに、本当に悔しかった。
みんな頑張り屋さんだから、苦しくても、耐えて耐えて耐えまくって、
いつか報われるだろうと期待して、 我慢して、 それでも間に合わず壊れちゃって・・・
腐ってる。日本終わったな、って。
だって、たとえ地味だとしても、真面目に現場を守ってきた人が
救われないような世界じゃ、ホントどうすんだよって。
それが悔しくて、毎日泣きながら帰ってました。
そんな僕自身も壊れる一歩手前でした。いえ、実際はもうすでにどこかで壊れていたかもしれません。なにせ、書いた通り本当に燃え尽きた廃人になっていましたし、自殺ノウハウサイトを徘徊しているような日々を過ごしていましたから・・・
だからこそ、自分自身で自分を殺すように持っているものを全て捨てて、
最愛の人とも離れて、でも、壊れてしまう前に自分自身で自分を救い、
人生を塗り替えられるモデルを作ろうと 僕は挑戦をしました。
そして、チャンピオンになったんです。
そのために、チャンピオンになったんです。
そう言えばかっこよく聞こえるかもしれない。
でもね、僕だって、本当に迷っていたんです。
介護職になって自分が追い詰められる直前まで ずっと人生選択を迷っていました。
特技もないし、何を持っているわけでもないので、自分みたいな奴がじゃあ実際に、
世の中に何をできるだろう?って。無力感に苛まれながら、待っていたんです。
だからこの話は肉体改造に興味がある人はもちろんだけど、
是非、特技が無くて「生き方を迷ってる人」に読んでもらいたい。
そんな思いで書きました。
自信がない、諦めちゃってる、世間から馬鹿にされてる、 関わりたい人がいない、
疲れちゃった・・・いえいえいえいえ!いろいろな挫折があって良いんです。
人生は迷っても良いんです。世間よりも遅れたって良いんです。
僕は、今回、 そんなふうに弱っちい自分に参ってるみんなに
「諦めんじゃねーぞ」って言ってやりたいんです。
尊敬できる大人や先輩がいなくても良いじゃん。
やりたいことがわかってなくても良いじゃん。
語るほどの絶望や幸せも知らないまま、
なんとなく生きてきちゃっててもしょうがないよ。
そのほうが、ある意味ずっと残酷だし、不幸だと思うんだ。
この国では、世間はいつだって、勤勉で一貫性がある人生ばかり称えるけど、
全員がそう生きれるとは限らない。
合わなかったなら、合わなかったなりの生き方があっても良いと思うんです。
僕だってそうだった。生きづらくて、いつだって息苦しかった。
今からだって遅くない。
小さなことでも良い。
自分が一歩踏み出せば、 自分を誰よりも勇気付けるヒーローになれるし、
もっと走れば自分みたいな誰かのヒーローになれるんです。
そうやって、誰かを輝かせたり、勇気になるヒーロー達を
僕はたくさん増やしたいと思っています。
僕はこれからボディビルの重田大吾ではなく、
小さなヒーロー達を支える一歩を踏み出します。
そして、人生を変えてくれた師のもとで、
師が僕を勝たせてくれたように、
僕も次の挑戦者を勝たせる戦いに出ます。
ビジネスの世界で這い上がり、
今度はさらに大きなインパクトを社会に与えていきます。
面白くない世の中をかき回してやろう。
少しでも爪痕を残してやろうと思うのです。
すました顔して、
泥臭い挑戦から逃げた大人なんかクソ食らえ。
僕はがむしゃらに挑戦する、
ダサい人間が最高に愛おしい。
そんな人の背中を大きく押ていける人を目指します。
次はあなたが自分の小さなヒーローを呼び覚ます番です。