前日までOLだった私
結婚式の前に母と私の思い出いっぱいの二人旅
慣れない海外の旅に 母はすこし緊張していた。
ホテルでもレストランでも、ショッピングも
母は私にくっついて、頼って、笑ってくれた。
トレヴィの泉で「また ぜったい来よな」二人で投げたコインの約束。
私の真実の口は、実家のクローゼットに残して私は大好きな人と結婚した。
陶芸家であり古風な性格の父と、とにかく明るい母の元に私は生まれた。私は5人兄妹の4番目、祖母を含めると8人の家族で育ちました。母はとにかくお料理が上手で手作りお菓子もたくさん作ってくれた。私が特に大好きなイチゴいっぱいのババロア。家族のみんなで食べるお好み焼きなんてお店より美味しかったもんな。母は和室の奥の庭先で、何十ものきれいな蘭の花を育てていた。そこへ鳴き声の可愛いウグイスが来たりして今思えば絵に描いたような暮らしやったな。
小さい頃はコタツの上で楽しく歌ったり、外でのお買い物の際にはデパートの子供が遊ぶプレイルームでお留守番。寂しがったりせずに気がつけば、明るく元気なお姉さんキャラでみんなの真ん中で遊んでいたみたい。「あんたはほんまに手のかからへん子やったな」と母は今でも話す。
そんな私は小学校に上がっても、クラスの真ん中で笑っているような子供。
みんなが楽しく笑ってくれることが嬉しかったし、だから自然と人気者だった。小学校高学年のあの頃は、自分至上最高に近い「モテ期」やったし。学校以外のサマーキャンプとかまったく初めて会う人たちの中でも一人寂しく過ごすことはなく、新しいお友達と楽しい思い出を作ることもできた。当時、ピアノ・そろばん・習字。母は私にたくさんの習い事をさせてくれた、でもそれは自分で選んで始めたわけじゃなかった。本当は、バレエが習いたかったのだけど、母の「バレエ?あんた踊れんの?将来役に立たへんで」の一言で諦めることに。。
この頃、母の勧めで中学受験が始まった。
進学塾に入って、周りの友達が普通に地元の中学校に進んで行く中、塾での競争や家庭教師との勉強に追われていく日々。家庭教師の先生は、学校の校長職を引退した初老の女性でめっちゃ厳しかった。静かな威圧感でピリピリしていて、私は「早く終わらへんかなぁ」なんてそんなことを思いながら勉強をしたなぁ。
5年生の時のホワイトデーの夜。
家庭教師の先生と勉強中に、当時好きだった男の子がホワートデーの夜に私の家に来て、ミッキーとミニーのチョコをプレゼントしてくれた。母と先生もいるから恥ずかしくて、「ありがとっ!」とだけ言ってバタンとドアを閉めしもたぁ。。。嬉しくて恥ずかしくてドキドキして、勉強に集中できひんかったしなぁ。しばらく食べずに机の参考書の前。一番見える場所に置いておいたあの頃の私は結構可愛いやん。
そのままピリピリとした緊張感のまま中学受験の時期を迎え、志望校と第2希望校を受験。志望校は7人に一人とハードルが高く、私の成績と照らし合わせた合格率は50%ほど。
結局、不運なことに算数で苦手な問題が出て見事に不合格・・・
この志望校を選んだのは、家が近く学力が高い学校と考えた母。私の中では、なんとなく自信がなくもしかしたら不合格になるんちゃうかな?そんな気持ちも抱えていた。
受験のテストの手応えを感じていない私をおいて、合格を信じていた母は
「合格が確認できたら、このまま美味しいものを食べに行かへん?」
「受験頑張ったんやし、デパートでなんでも好きなものを買ってあげるで」
当時私が一番ほしかった体長1メートルもある犬のぬいぐるみでもええでって。
「タクシーに乗って買いに行こなぁ」
そう笑顔で話す母に、笑顔で答えられなかった私。
掲示板の合格一覧に自分の受験番号を見つけられなかった私たちは、タクシーに乗ることもなく、家までの道のりを無言で歩いて帰った。家に帰ると、同じ塾に通っていた幼馴染の子が私と同じ志望校に合格していて、家に帰るなり母から
「⚪︎⚪︎ちゃんは、合格しはったで。悔しいと思うけどおめでとうって。お祝いの電話してあげな」と。
そのときの私は、
「こんな悲しいときに、なんでそんなことをさせんのっ?」
悲しい気持ちを隠しながら、なんとか「良かったやん。おめでとう」の電話をした私。
母の気持ちも、私の友達にというより、その友達のお母さんに対して負けたような雰囲気を感じるが嫌やったのかなぁ。「ウチの子供は不合格でも悲しんでへん。大丈夫!」とアピールしたかったんやろなぁ。あの日はいろいろ考えてた。
私はこのときから
両親に伝えられないような気持ちも綴った「日記」を書き始めた。
悔しかったこと。
怒っていたこと。
わかってほしかったこと。
嬉しい気持ちや感謝の気持ちも。
その秘密の日記にだけ吐き出していた。日記って自分に対しての気持ちや心の対話という印象があったけど、私の場合は、両親への思いを、どこかにぶつけたい気持ちを日記に綴ることで、スッキリしていた。
母への日記の中からのこんなエピソード。
私には2歳年下の超美人の従姉妹がいる。親戚一同が集まればみんな彼女を綺麗と褒める。物心ついた頃からうらやましいと感じていた私。ある日、母が1000倍の難関を乗り越えて彼女がCAになったことを嬉しそうに話していた。シンガポール航空の制服を着て微笑んでいる彼女の写真を、お財布に入れて持ち歩いていることまで知って、ショックだった。
だって私は昔から両親や兄弟から可愛いって言われたことがなかったし。
「あなたは今のままで十分可愛いからええやん」そう言われて育ったなら自分に対して少しは自信が持てたかなぁ。そんな内容を日記に書き綴った。
~ 好きな人と結婚 ~
第二志望の学校には上位で合格。そのまま中学・高校・短大へと続くお嬢様学校。
姉も通っていたので父は姉妹揃って通えることを喜んでくれた。入学式の晴れやかな気持ちの裏にも、母の期待には応えられなかった自分への嫌悪が少しだけ残っていた。中・高と勉強もそこそこ頑張りながら、クラブ活動や恋話でワイワイ楽しんだり、ごくごく普通の学生生活を過ごした。短大までエスカレーター式に進むつもりだったけど、ずっと内部進学で生ぬるい環境にいたと感じ始めたので、思い立って急にいくつかの大学を受験したけれど全て不合格。。たしかに100%の力を出したん?と問われれば、中途半端やったかな?と反省してる。結局、外部から受験する形でこれまでと同じ学校の短大に滑り込むのがやっと。元の鞘に戻ることができてホッとしたなぁ。
中学受験。大学受験。
大きなチャレンジでは合格できひんタイプかも・・・?
この頃から、「合格」「不合格」と名のつくものに対して自信を失くた私。
進学した短大では国際文化学科という新設の学科へ。女子だらけという環境は同じだったけど、英語が好きだったのと外部からの新しい友達も増え、この頃は充実した毎日やった。
春休みの3月に短大の友達と長野にあるスキー場のペンションで住み込みのアルバイトへ。
そこで主人である当時の彼と出会った。私は京都から、彼は東京から。
私にとって関東の人と出会うことは珍しく、言葉も新鮮やし。休み時間が一緒になってスキーをしたり、おしゃべりをしたり、彼は私と対称的で大人しい人で優しく、いつも聞き役でいてくれた。それぞれ帰る何日か前には「さみしいな」って気持ちになって、東京に行ったことがない私は彼に会いたくて、気がつけば東海道新幹線が繋ぐ遠距離恋愛が始まってた。月に一度のデートではお互いの自宅に泊まって、東京ではディズニーランド。京都ではお寺めぐり。私は京都に住んでいてもお寺に行ったことがなかったからそれも新鮮やったなぁ。
20歳のお誕生日には彼がはじめて買った自分の車で京都まで来てくれた。
「20歳のお誕生日には、ほんまに好きな人と一緒に過ごせますように・・・」と恋愛成就で有名な鈴虫寺へお参りでお願い事をした私の願いは、草鞋を履いたお地蔵様が叶えてくれた。
そんな日々を過ごしながら短大卒業を迎えるまでに就職活動。
当時はバブルの真っ最中。父から京都の中の大手企業の就職先なら知り合いにお願いできると勧められ、私は四条鳥丸という立地にあるだけで、着物を全国の百貨店に販売している呉服問屋へ就職。入社後はタイプ室に配属され、毎日のタイピングと伝票整理に追われて忙しい事務仕事がめっちゃ苦手やったなぁ。。。しばらくしたら鬱々とした毎日になっていた。
開放的になりたいのか、この頃親友と1年間カナダへワーキングホリデーに参加してみよう!という話で盛り上がり、英語も好きやったしワーキングホリデーの説明会にも行ったけど、彼に話してみたら「今でも東京と京都で十分遠いのに、カナダと日本てちょっと無理かなぁ」とバッサリ。。もちろん彼のほうが大切なので、ちょっと残念やったけどカナダへ渡ることは断念。そのまま強引にカナダへ行っていたら、結婚も、子供達に会うこともなかったやんな。引きとめてくれてありがとう。
タイプ室の仕事は変わらず単調でつまらないし、やっぱり苦手な業務やった。
私は思い切って、いろいろ目をかけてもらった上司に配属先をかえてほしいと直談判。意外なことにすぐに希望が叶って、有名デザイナーの浴衣を取り扱う課に配属。そこでは営業補佐として心機一転。お人柄にも彩りがあって面白い上司や同僚もいて職場ではたくさんの人に可愛がってもらった。仕事も楽しくて順調で充実した日々を過ごした。
彼との遠距離恋愛は続いていって、私はそろそろ結婚したいなぁって感じてたけど、私は短大卒の社会人で彼はまだ大学生。それから彼も卒業して就職したけど、社会に出て日の浅い彼は結婚に積極的な気持ちになれず、しばらくそのままの時間が流れた。ちょうどそんな時、私の中で占いブームが起き、数々の占いを体験。彼のこと、仕事のこと、これからのこと。友達の勧めでとある大阪心斎橋の占いの先生から
「あんたは口を使ってしゃべる仕事がぴったりやねん。結婚式の司会者さんなんかとかええで~」と告げられる。
よく考えてみると、小さい頃から特に優れているところもなく、あんまり褒められた記憶のない私やったけど「歌がうまいなぁ~声がかわいいなぁ~」とよく言われていたことを思い出し、そのありがたき言葉をきっかけに即決即行動!翌週にはブライダル養成講座に通うことに。昔から習い事は両親の勧めで通っていた私、自分で決めて自分でお金を払って始めたことはヤル気も違って勉強に打ち込むことができた。毎週末、京都から大阪の心斎橋までよく頑張って通ってたなぁ、あの頃の私。
彼と付き合って6年ほど。私の誕生日に照れ屋さんな彼からプロポーズ。正直言うと私の方が催促したんやけど。。。
好きな人との結婚。2月11日の建国記念日に結婚式の予定を決めた。この日は毎年祭日だから一緒に過ごせるし、明るく暖かい記念日として。
結婚式の前、12月の初めに私は母と欧州へ二人だけの旅に出た。
お嫁に行く前に思い出を作りたくて。母娘で行く初めての海外旅行。その前日までは4年8ヶ月のOLで11日間という期間は今までなかったし、めっちゃ嬉しかった。
スイスのモンブラン。フランスのパリ。イタリア各都市ミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマを周遊。
母ははじめての海外だったから緊張もあって、どこへいっても私が通訳。ホテルやショッピング、空港や食事の場面も。二人で腕を組んで街を歩くほど、意外にも私を頼ってくれたことが何だか嬉しかった。日本で私と接する時と対照的な母の姿をはじめて知った。今まで母の望むように生きてきた部分もあって、伝えられない気持ちが募ってもいたから嬉しくもあり、不思議な気持ちやった。親の勧めで結婚した母。「あんたは好きな人と結婚したらええよ」と東京へ嫁ぐことを許してくれた母。ローマのジェラートが美味しくて、「また絶対来よな」ってトレヴィの泉に二人でコインを投げた。その3年後に今度は主人一緒に3人で再び訪れることが約束が叶った。
私が書き綴ってきた両親への秘密の日記。
この頃には10冊以上になっていた。処分しようと考えたけど伝えられなかった私のの心の思いを読んでほしかった。だから東京をへ旅立つ日に、不器用ながら編み物教室に通い、一生懸命感謝の気持ちを込めて編み上げた父へのベストと母のセーターと一緒に、綺麗に片付けた部屋のクローゼットに残して私は結婚式を迎えた。
~ 司会者への道・病気 ~
ホテルニューオータニでの結婚式。親戚や上司、友人。京都からもたくさん来てくれた。
披露宴の後、自分も将来こんな大きなホテルの司会者になりたいと思い、式を担当してくれた方に相談してみた。親切にもホテルで司会をお願いしている事務所の連絡先を教えもらい、後日その事務所へ連絡をした私。司会者のプロになるための先生を紹介してもらった。その後、先生のもとで京都弁の矯正、話し方や振る舞い方、実際に司会ができるようにまで育ててもらい、1996年6月にプロの司会者としてデビュー。緊張しすぎて胃が痛くなり体調を崩しそうなこともあったけど、はじめての披露宴の司会の仕事が終わった瞬間のあのなんとも言えない達成感は今でも忘れられへん。披露宴担当のキャプテンからもお褒めの言葉を頂き、心は嬉しくて仕方がなかった。その後、司会の仕事は順調にステップアップしていき、披露宴会場も会館からホール、ゲストハウス、一流ホテルへとたくさんの素晴らしい舞台で経験できた。イベントやヒーローショー、地元ローカルラジオ局でのレポーターやパーソナリティーとして番組も持たせてもらった。ラジオでは出身の京都弁でのトークだったので、自分らしさが出せる場所だった。結婚生活は7年間、夫婦二人の生活を楽しんでいた。主人と私はそれぞれのペースや時間を尊重する生活だった。結婚して5年目の春。夫婦でアメリカのグランドキャニオンとラスベガスを旅した。グランドキャニオンでのお目当はロバと馬を合わせたラバの背中に乗って広大な峡谷を散策すること。アメリカに住む友達にホテルもラバも予約してもらっていたのに、現地で英語力不足と判断されてしまい、キャンセルせざるを得ない状況に。そのときのあのめっちゃ悔しい思いから帰国後に英会話にチャレンジ。その英会話学校は面白いルールがあって、日本語は禁止。一言話すと罰金1000円。英会話スクールというより普通の学校のような雰囲気で通ってくる生徒も高校生から60代の男女とバラエティ豊かでした。それぞれのクラスに担任もいて、みんなとはクラスメイトのような存在。学生時代から英語を勉強することが好きだったので、30歳のときに英検2級とTOEICで600点近く取れました。この英会話学校で、あるとき私の提案からディズニーの「リトルマーメイド」を英語劇で演じることになった。私は主役のアリエルを演じた。年齢的にちょっと厳しいかもと思ったけど昔からこの物語は思い入れがあって、衣装もこだわって作り、練習も頑張った。ちょっと厚かましくも感じていたけど主演賞を狙ってたし、でも、まさかの主役アリエルではなくセリフが一言、二言の脇役のお魚がその賞を取ってしまった。私にとっては想定外の出来事でめっちゃ悔しくて海の底までめっちゃ落ち込んだ。そしてここでも頑張っても評価されない!受験のときのこと。美人の従姉妹のこと。それと似たような気持ちに、私の心はまた支配されてしまった。
司会者としての仕事がスタートして約3年。結婚7年目で長女を出産。
産後6ヶ月で、お世話になった結婚式の会場担当者からお声がかかったのを機に復帰。その後二人目を望むがなかなか妊娠に至らず、不妊治療を経て38歳で長男を出産。二児のママになることができた。二人の子供たちにも恵まれ、司会の仕事も順調。何も言うことがない幸せな日々。
2010年のあの日までは。
それはクリスマス間近の昼間。
友人との持ち寄りクリスマスパーティーの準備で戸棚の中のサンドイッチケースを取り出そうと踏み台に上がり手を伸ばした瞬間、扉が開いていたことに気づかず目の下部分を強打。かなり出血してしまったので救急病院へ。そこで医師から念のためCTを取りましょうと言われて検査。病院の担当の医師もびっくりするほどCTの画像には数え切れないほどの腫瘍が写っていた。一刻をあらそうような雰囲気で主人も病院へ呼び出され、次の日には至急大きな病院での再度検査を受けた。病名は「髄膜腫」良性の腫瘍が数え切れないほど多く、その症例は大変珍しいと告げられた。脳腫瘍と診断されたその日はショックで、目の前のすべての物の明るい色が消えてしまった感覚。赤い花や青空もグレー一色に写ったような絶望的な気持ち。都内の有名な病院の脳神経外科をいくつも受診。半年間は様子を見ながらMRI検査で詳しいことを調べた。症状は徐々に体感するようになり、翌年の秋には足に大きな痙攣が起き、まるで悪霊に取り憑かれたかのように夫婦で足を押さえるもその痙攣は止まらない、このままではあかん、どうなってしまうんやろ。。私。と、その時を機に手術を受けることを決意。この病気が珍しいためどの先生も「どうなるか判りませんがやってみましょう」と話をされた。絶望的で向き合うことが恐かった私には、それだけでは納得できないとインターネットでこの病気と症状について検索し情報を調べ尽くした。脳腫瘍の情報サイトで見つけた北海道の名医にやっとコンタクトを取ってみると、その先生のもとで私と同じ症状の患者さんが手術を受け、現在もお元気なご様子とのこと。やっと希望が見え始めました。この先生にかけてみようと手術を依頼、なぜ北海道まで行くのかと両家の親に猛反対されたが命を預けるのだから納得してから手術を受けたい!という私の声にやっと家族の了解を得ることができた。このとき長女は小学校3年生、長男はまだ2歳。出発の日、まだ幼い長男が泣きながら抱っこをせがんできた、母がなんとか引き離し、真冬の北海道へたった一人でスーツケースと共に飛び立った。機内はとても長く感じ、残してきた子供たちを想うと涙がこぼれ不安で仕方なかった。それでも私は子供たちを残して今死ぬわけにはいかへん。体が不自由になることも避けなくてはなあかん。この決断に失敗は許されなかった。大雪の中なんとか病院へたどり着き、手術までの二日間はたくさんの検査を繰り返した。病室の方がとても親切で優しかったおかげで、手術までの不安が不思議と落ち着いてきました。手術当日はこの病院で、私が信じた先生に手術をしてもらいその結果がどうであろうとも納得できると信じて。手術着に着替え手術台に上がる頃には絶対に大丈夫やし私!そんな思いで臨んだ。前日には北海道に駆けつけてくれた主人にとっても長い一日となった。幸いにもこちらでお世話になっていた大学病院脳神経外科の先生も手術に立ち会って、合計三人の先生方が12時間かけて手術してくれた。手足に軽い痺れは残ったものの無事に手術は成功。残してきた子供たちがとにかく心配で、早く帰りたいと伝えなんとか退院することができた。自宅に戻った当初は、今まで当たり前に出来ず、時間も何倍もかかった。15分で出来ていた朝食の用意も1時間以上かかっていた。この春に、長女は小学校4年生、長男は幼稚園に入園。その後、体は順調に回復し、司会の仕事まで復帰できるようになった。もちろん仕事はセーブし、よく眠り、ゆっくり過ごすようになった。その甲斐もあって一生服用しないといけないと覚悟を決めていた薬の服用もなくなり、運動や車の運転もほぼ問題なくできるようにまで回復した。
~ 娘の中学受験 ~
突然の大きな病気に見舞われた私は、なんとか取り留めた命を大事にしたいと思うようになっていた。残りの腫瘍とは一生うまく付き合っていこうと思っていた反面、私が元気なうちに子供たちをしっかり育てなければと強く思うようになった。特に長女は小柄でおとなしく、とりわけ目立たないタイプ。小学校に上がった頃からお友達作りにも時間がかかってしまい。行動も遅かったため、いつも手をかけてしまっていた。私自身も中学校受験を経験したこともあり、受験を視野に入れて4年生から塾に通うようになった。ところが成績は鳴かず飛ばずの毎日で、そのうち辞める選択も取れなくなり、励ますつもりが「何でこんな問題もできひんのっ!」と怒鳴る始末。そのうち娘も「わたしはどうせ勉強ができないから」とあきらめるようになってしまった。そのときは、どうしてそうなってしまったのか判らなくて私が動けるうちになんとかしなあかん。私の力で娘のやる気を引き出さなあかん。成績が上がるためならと塾も変わり、家庭教師の先生にも来てもらい月に10万円以上もの月謝を捻出するために私の仕事も増やすこととなった。司会以外のホテルで行われるビジネスセミナーの運営局の仕事も始めた。朝5時半に家を出て、夜の8時近くに帰宅。疲労感が抜けないまま、娘の中学受験を見守る毎日。「こんなに大変な仕事をしてママもあんたの為に頑張ってるんやで」と娘に伝えても伝わらず、娘をやる気を引き出せない自分と、娘に対して精神的に苦しく、体調も崩し自律神経のバランスも乱れてしまった。ストレスも大きくなり、めまいが起きたり、急に涙が出てしって、叫んでしまったり。思い起こせば脳腫瘍の病気のときより苦しく感じたあの頃。さらに受験期間中にインフルエンザにかかった娘は実力を発揮できず、志望校は不合格。かつて自分の体験した受験の記憶が頭をよぎるのに「頑張ったしそれでええやん」という言葉さえかけてあげられなかった。
ある日、私は娘の日記を見つけてしまった。
そこには、母に対して伝えられない娘の気持ちが綴られていました。
まるでかつての私のように。。。
~ ダイエット ~
3年間という長い期間、ストレスの中で私の拠り所となっていたのは食べることだった。
とにかくよく食べました。甘いもの、油っぽいもの数々。美味しそうなものが目に入るとお腹が減っているわけでもなくても何故か気がついたら、いつも甘いものを食べてた。食べても食べても 息をするのも苦しいくらいに食べました。それでも心は満たされなかった。私の心はすごく深く病んでいました。体重は右肩上がりにみるみる増えてしまい、とうとう自分至上最大の体重を手にしてしまうことに。そのうち結婚式の司会の仕事の時に着ているワンピースやスーツがきつくなった。その頃の私の体は脂肪を溜め込みパンパンになり背中のファスナーさえ上げることが辛くなっていた。お腹を引っ込めて主人と娘の二人掛かりでファスナーを上げてもらうこともあった。痩せないといけないことは判っていても、それでも食べることは辞めらなかった私。そんな時に、自宅のポストに入っていたチラシで駅前にあるホットヨガスタジオがオープンすることを知った。痩せるには運動やっ!と思い早速見学に。久しぶりの運動。体中を流れる汗が本当に気持ちがよく、しばらく味わっていなかった爽快感と心地よい疲労感に一気に気分も前向きに。多い時は週に3回もレッスンに通うほどだった。それでも友達と通っていたのでヨガの後のランチ止められず結局、3ヶ月後の体重は1キロも痩せていなかった。体重計に乗るたびにこれではあかん!と思っていた。
そんな時、久しぶりに会った息子の幼稚園のママの何人かが痩せてキレイになっていたことに気付いた。どうしたの?と聞くと「耳つぼサロン」に通いダイエットしたとのこと。
ママ友の話によると、耳つぼシールを貼りながら食事をバランスよく摂りながら生活習慣を見直していくらしい。夜だけ炭水化物を抜いたり、お肉は鶏肉を中心。タンパク質をしっかり摂り、油物や砂糖を摂らないダイエットと聞いた。食べないダイエットではなかったので、それならできるやん。素直にやってみたいと思った。頑張れば着たい服が着れるようになるかもしれない。ほんまに痩せるかもしれない。よしっ本気で耳つぼダイエットをやってみよう。そんな思いでスタートした。耳つぼシールで食欲を抑え、少しづつ食事の内容や量を見直すことに。口にしたものはすべて用紙に記録する。毎朝、毎晩、体重と体脂肪も記録する。日記を書いてきた習慣があった私にとって楽しく続けることができ、生活習慣を見直す上で大切な記録になった。一ヶ月半続けた頃には、想像以上の5キロ減!ほんまに?と目を疑ったくらい。まわりの友達からも「痩せたよね?」「なんだか痩せてキレイになったんじゃないっ?」などと声をかけてもらい、「ほんまにぃ~?」なんて言いながらも嬉しくて仕方ない状態に。テンションも上がり、ピチピチだったパンツやスカートに余裕が出てくることが楽しくて仕方なかった。耳つぼダイエットは体質や体の血液が入れ替わるまでに3、4ヶ月かかる。まずはなりたい体重を設定した、私の最初の目標は50キロを切ること。耳つぼは磁気のついたシールを週に一度片耳に10枚づつ、両耳で20枚のシールを貼り替える。こんなちいさな耳にも100以上のツボがあって東洋医学の鍼灸治療と共に発展してきた。ツボをほどよく刺激して気がうまく流れるようになればその経路につながる機能が回復すると言われているのでダイエット中も肌も調子がよく体重も順調に減っていった。5キロ痩せたあたりからたくさんの人に褒められ、それだけで十分嬉しくて心は満たされて、この年齢(45歳)になって人から「綺麗だね」と言われることが信じられへんくらいウキウキした気持ちで毎日を過ごせるようになった。耳つぼと栄養バランスの良い食事で生活習慣を見直し、適度な運動で理想の体重を手に入れる楽しく美味しく食べながらのダイエットは私にとって精神的にも信じられへんの効果をもたらしてくれた。過去の病気の発覚から、うまくいかなかった娘の中学受験。怒ったりイライラ続きの不安定な生活が、いつの間にか泡のように消えて青空みたい気持ちになれた。開始から2ヶ月半には、目標だった50キロを達成し、脂肪率も8.8%も減少。4ヶ月後には夢の48キロ台!45歳の私が25歳の頃の体重にもどって、まるでタイムスリップしたみたい。人生最大の体重が、自分史上最小へ楽しく導いてくれました。40代からはお腹まわりを隠すAラインの洋服を着ないといけないと思っていた私。デザインも控えめを心がけていたし、体の線を見せる洋服を着ることはこれからはないと思ってた。どこかでもう私の人生、女性としての終わったなぁと過ごしていた毎日が変わった。それがどうだろう。女性って不思議。。すべての洋服がゆるゆるになって、パンツやスカートは全部買い直しに。という嬉しい悲鳴だなんてほんまに嬉しい。「楽しく食べるダイエット」で理想の体重と体型を手に入れたことから、ネイルやエクステ、歯のホワイトニングなど。こんな歳になってからでも、綺麗を楽しんでいく自分が可笑しくて可愛くて。そして楽しくて
~ 楽やせマダム ~
私の人生の中ではじめての大きなチャレンジ&挫折となった中学受験。
私は母に「かわいい」って言ってほしかったかな
「あなたはそのままで素敵だよ」そう認めてほしかったかな
それを求めて今まで頑張りすぎていました。それを叶えたくて娘と中学受験で私と同じ体験を味わうまでに。彼女は大人しくて、私と対称的なところが心配でしたが、それは彼女らしさで素敵なことでした。学校ではチアリーディングのダンス部に所属していて、頑固な部分は私と似ているけど、真っ直ぐに生きている。学校の先生から彼女は「何かを任せると、力を発揮する」そうおっしゃってくださいました。何もできないと思い込んでいたのは私のほうで、それを聞いた時は心から嬉しく誇らしい気持ちになりました。好きな人と一緒になれたように、そのままで自分を楽しく笑顔で楽に生きる。
私のダイエット経験を活かして、かつての私のように女性であることをどこで諦めてしまった多くの方へ。ダイエットは苦しい辛い、食べれないと思っている女性にこそ自分史上最高のあなたを手に入れてほしい。どうせ私なんて・・・と思っている女性に今身につけている重い蛹を脱いだら綺麗な蝶になって大きな羽を広げて新しい世界に飛んでいける。何よりもまずあなたは美しい蝶なんだと気付いてほしい。そんな想いで、サロンをオープンし「A’sbutterfly」(アズ彩の蝶)と名付けた。
これまで司会者として約1000人。一生に一度の晴れ舞台は、二人にとって自分至上最高の瞬間かもしれないですね。私は、子供の頃と同じようにみんなが喜んでくれること。盛り上げたり、楽しんだり、二人の素晴らしさを見つけたり探したり。それはまったく頑張らないで好きなこと。ダイエットは苦しい、つらいと思っていました。自分ではじめてみて三日坊主は多かったけど、食べて痩せるなんて頑張らないダイエットが楽しかった。ストレスに思わないで家族と一緒に楽しく食べる。ママが笑顔で家族も健康に。私には「楽やせマダムの日記」のよう。そこにはたくさんの幸せと喜びが綴られています。