高校生
今回「ひとコレ」という企画に目を通して、私は「あ、これは俺が書かないといけない」と思った。このストーリーを読む人の多くは、高校生だと思う。高校生活に不安を感じている中学生もいるだろう。そして、それ以外の人が読むとしたら高校時代に何か思い残していることのある人だろう。
私が高校へ進学したのは、いまからちょうど15年前、20世紀が終わる年のことだった。あの頃は、インターネットも普及し始めたばかりで、固定回線といえばまだまだダイアルアップ方式が主流だった。携帯電話の液晶がカラーになり始めたのもあの頃だ。世間では「ミレニアム・バグ」の問題が浮上していたのを記憶している。いま、高校に通っている人たちは、当時まだ2歳や3歳くらいだったろうし、来年から通い始める人は、産まれてもいない人たちの世代だろう。
私は、いま、そしてこれから高校生活を送る人たちのことが羨ましくてならない。
四季

私は人生を15年ずつに区切って捉えている。産まれてから思春期を迎えるまでは、これはおよそ土中で芽吹くのを待っている期間だ。そして、15歳あたりで思春期を迎え、30歳で朱夏、45歳で白秋、60歳で玄冬といった具合だ。75歳まで生き永らえたなら、再びの青春を謳歌すべきだと思う。とはいえ、古希を迎える自信はないし、穏やかな人生の秋を忙しなく生きたいとも思わないので、45歳になれば「隠居」をする予定だ。
今年【文士】として個人事業主登録を済ませたし、【出版社を中核とした複合企業】というよくわからないものを来年には起業する予定だ。「映画監督」になろうと思っていた高校時代からすると、少し違う結果になったが、「小説」と「脚本」を書いたりするわけだから、想定されるべき誤差の範囲内だろう。
さて、この段落は完全に余談なので、次の見出しまで飛んでいただいて一向に構わない。ただし、義務教育課程を経て、これから大学への進学を考えている人たちには、年寄のおせっかいだと思って読んでもらえればいいと思う。「国民の義務」として「納税の義務」を初等教育期間に学んだはずなのだけれど、「どうやって納税をしたらいいのか」教えてくれた学校はあるのだろうか?少なくとも、私が歩んできた道のりで「確定申告」の仕方を教えてくれた教師はいなかったし、「社会科」のカリキュラムの中にしっかりと、そうしたプロセスに関する記述があったとは記憶していない。いざ、自分で個人事業主登録をしたり、起業をしたりすると、こういった、法的な問題に直面するわけだけれど、完全に手探りで能動的に調査しなければならない。「個人主義」を賛美したり、「芸術の素晴らしさ」を唱えながら、実際にそうやって生きていこうと考える人のためには、まったく機能していないのではないかと、私は不満だ。京都のとある芸術大学に通い始めて一期過ごさぬうちに、私は「ああ、ここじゃ俺は芸術家にはなれないぞ」と思って、辞めた。もし、芸術を生業としようと考えたり、起業しようという野心を持っているのであれば、社会科の教師を捕まえて、税務署ですべきことを事細かく問いただすことをお勧めする。
恋破山河在
高校生だけではないが、いま自分たちが受けている教育について無駄にしている人たちが多いことは残念に思う。古文など、生きていくうえで不要だと考えている人は自分が失恋したとき、ぜひ「春望」という漢詩を思い出して欲しい。恋にやぶれても、山は聳え、河は流れている。春を迎えれば、草木は青みがかることだろう。「家書抵萬金」とは杜甫の至言である。いまでも、別れた妻が書いてくれた折々のグリーティング・カードを私は捨てられないでいる。こういう具合に考えると、安史の乱から1400年ほど経っているわけだが、人類の思うところは、さして変わらないのである。
なりたいものになれる時代
繰り返し言いたい、私はいま高校に通う人たちが羨ましい。この15年の間、通信技術は著しく発達し人と人とのコミュニケーションのあり方を変えた。われわれが、£20出して買っていたテレフォンカードをなくても無線LANさえあれば国をまたいで音声通話ができる時代だ。
われわれの時代と最も大きな違いがあるのは、まさにこれだ。昔は、といってそれがここ15年以内のことなのだけれど、小説家を名乗ろうと思えば出版社に原稿を持ち込み印刷してもらわなければならなかったし、音楽家を名乗ろうと思えばこれもまたレコード会社に楽曲を持ち込みプレスしてもらわなければならなかった。いまは、手元のデータをメディアに応じた形式に変換して、オンラインにアップロードするだけでいい。もっとも、こればかりは今も昔も変わらないのだが、売れるか売れないかは個別の問題だ。ただ、少なくとも職業と肩書を手に入れるための敷居が圧倒的に低くなったことは間違いなく事実だ。これは、なにも芸術的な分野に限ったことではない。オフィス、当然、空間としてのオフィスがかつては必要だったが、文章作成、表計算、クラウド上にデータを保存しておけば、わざわざオフィスに出ていかなくても、これまで行ってきた業務の大半はどこにいても可能になった。もちろん、セキュリティの観点や、法的な問題があるのですべての業務をオンライン上ですることが可能になったわけではないのであろうが、いずれそうなったときに、20世紀的な働き方は大きく変わるだろう。
なろうと思えば、なりたいものになれる時代だ。そういう時代を生きている人たちのことが、私は羨ましくて仕方がない。もちろん、いまでもそうなのだけれど、これから私が歩んできた15年と同じ年月を歩む人たちは加速度的にこの時代の恩恵を享受できるはずだ。しかしながら、少し反語的かもしれないが、誰もがなりたいものになれる時代、これは「真っ赤な海」を泳ぐようなものだ。「キロ」から「メガ」、「ギガ」、そして「テラ」に通信速度が変わっていく中で、「真っ青な海」を泳いでいたのと同じ速度で悠々と泳いでいられるほどの余裕はなくなってくるだろう。たえず、選択を迫られ、情報の波に呑まれる覚悟はしなければならない。
いまから15年後、2030年、私はうまくいけば「隠居」しているはずだ。45歳で「隠居」するつもりだから、2029年までには「一仕事終えよう」という計画である。15歳くらいで思春期を迎えるわけだから、齢30にして思うのは朱夏である。45歳になれば白秋を思い、60歳にもなれば玄冬を思うという具合だ。75歳まで生きながらえたなら、再び青春を謳歌しよう。それほど長生きするとは思えないので、最前線で戦えるのは45歳くらいが限界だろうというのが、個人的な見解だ。