私はバイセクシュアルである

はじめて、私がクイーンというバンドの名を知ったのは、小学校高学年の頃だった。とあるビールメイカーのCM曲に彼らの「I Was Born To Love You」という曲が使われていた。フレディ・マーキュリーの伸びやかですがすがしいその歌唱力、そしてブライアン・メイのエッジの効いたギターソロ、的確にビートを刻みかなり重いチューニングがほどこされたロジャー・テイラーのドラムス、こちらも重いチューニングをしているがメロディアスなジョン・ディーコンのベースギター、すべてに魅了された。
来たるべき思春期を前に、相当な曲者と出会ったしまったのは、幸か不幸か、その後の私の人生に大きな影響を与えてくれることになる。
フレディ・マーキュリーという人

それ以来、私はとりわけこの稀代のシンガーソングライターに惚れ込んだ。私の個人的な「タイプ」というわけではない。どちらかといえば、私の好みは、国内最大手の某アイドル事務所に所属している紅顔白皙眉目秀麗の典型的な「イケメン」である。ただ、この「イカニモ」な雰囲気を醸し出す髭のおっさんが思春期から、いまに至るまで私の「アイドル=偶像」であることは否定できない。
それから、書店で当時集められるだけのクイーン関連書物を買いあさり、「I Was Born To Love You」が、フレディのソロ曲であると知ったとき、「レコードコレクター」という趣味であり、最大の浪費が始まった。ときは、1996年Windows95が登場し、家庭でのインターネットがダイアルアップ方式で商用可されたばかりの頃だった。書籍のみならず、インターネットも利用して、いろいろとこのバンドのバックグラウンドを知ることになる。
小学校6年生のときに彼らの『THE GREATEST HITS』(輸入盤)を手に入れたときの衝撃はいまでもよく覚えているのだけど、「ちょっと待て、この曲も、この曲も、この曲も知っているじゃないか」と驚愕した。
フレディ・マーキュリーは、1946年に産まれ1991年HIV、AIDSの合併症ニューモチスチフ肺炎(当時はカリニ肺炎と呼ばれていた)でこの世を去っている。本人は終生「ゲイ」ないしは「バイセクシュアル」であるという疑惑を否定し続けていたので、彼が「ゲイ」であった「バイセクシュアル」であったという語り方を、私は故人の遺志にそって、したくない。したくはないが、あまりにもハードなセクシュアルライフを送った彼のことは、没後彼と親しかった人々から言われていることであるし、時勢を考えると「カミングアウト」するということが、極めて厳しい状況であったことは前提として、共有しておくべきであろう。さらにいうと、生い立ちもまた、彼のプライベートな人生観に大きな影響を与えていたことを合わせて書いておきたい。
ફ્રારુક બલ્સારા、このグジャラート語を読める人はなかなかいないだろうが、これこそ、フレディ・マーキュリーの本名、ファルーク・バルサラである。彼は、旧英国領タンザニアのザンジバル島ストーン・タウンで、英国領事館の会計士の父、ボミ・バルサラとその妻ジャー・バルサラとの間に産まれたインド系パールシーの子である。パールシーとは、ペルシア人という意味で、欧米ではユダヤ人に近い「流浪の民」の末裔である。彼らは、古代ペルシア時代からいまにいたるまで、ゾロアスター教を信仰している人々で、インドにあってもインド人であらず(カースト制の外側の人)、ササーン朝を
築いたイラン・イラク(古代ペルシア)にあってもまた異教徒(現地の主流宗教はいわずもがな、イスラム教である)という、きわめて、特殊なコミュニティを形成しつつ、現代まで永らえている稀有な民族である。この少数派コミュニティによって生活を送る必然性に迫られたバルサラ一家に対する配慮が、彼の性的な嗜好を決して公にしなかった要因ではないだろうかという見方もあって、私もそれに同意する。なお、ニーチェの『ツァラトストラかく語りき』のツァラトストラは、ゾロアスターのドイツ語読みであることも触れておこう。
私は、いま彼の人生と向き合ったとき「旧大英帝国」の植民地支配と、複雑なアイデンティティに彩られた帝国至上主義が最後に産み落とした稀有な才能だと思うのである。しかも、彼が産まれた1946年は第二次世界大戦が終結した翌年であり、ヨーロッパの帝国主義は解体される過程にあり、民族自決などといった気風が高まっていた時期であったことも彼のアイデンティティ確立に重要な役割を担っていたことを推測することは、容易である。8歳で、インドのボンベイ(現ムンバイ)にあるセント・ペーターズ・ボーイズ・スクールという英国式寄宿学校に彼は単身留学しているのだが、それから10年と経たぬうちに、産まれ故郷のザンジバル島では、血みどろのザンジバル革命が勃発し、一家はイングランドへの亡命を余儀なくされた。
故郷ストーン・アイランドでは、召使を雇うほど裕福な少年時代を過ごした彼だったが、亡命先のイングランドでは、「移民」、「非白色人種」という劣等感を抱えながら過ごしていたと、彼の妹カシミールは語っている。その後、イーリング・アート・カレッジで彼は絵画を専攻し、サイケデリックな極彩色のロンドンの中で、当時最先端だったグラム・ロック、ハード・ロックをリアルタイムで経験し、次第に興味の対象を音楽へと移していく。この頃、彼は友人の紹介でロジャー・テイラー、そしてロジャーがともにバンド活動を行っていたブライアン・メイと知り合う。クイーン誕生前夜の話だ。また、私生活では、メアリー・オースティンという女性と知り合い、交際を始めている。それからは、クイーンとして、ビートルズ、レッド・ツェッペリンの後を狙う多くのバンドの中で、台頭し、その後彼らと肩を並べる存在へとなっていったのである。