top of page

15/7/26

トルコボランティア記 〜活動の日々〜

Image by Olia Gozha

メディエ・ドルマス

アメリカのリーダーから最初にイスタンブールに宿泊したホテル代が支払われてない、との苦情を受けたのは一緒に活動してしばらくしてからのことだった。しかも例によって直接話をしにきた訳ではなく、回りに回って持ち込まれたものだ。

ホテルにはチェックアウト時に払っているのだが、高級ホテルゆえ実際は足りなかったのであろうか。とはいえ支払いはキッチリすませねばならない。料金も提示されなかったので、ホテルのランクから大体の宿泊費を計算し、料金分リーダーに渡しこれで十分か聞いたが、金額もこちらの顔もみようとせずお金をポケットに押し込みこれでいい、とのこと。

なんとも不可解で不愉快でもある態度だが、物資を運ぶバンが既に到着していたので、仕事を始めるため積込作業に取り掛かる。


今回はエリカと千鶴と私といった日本人グループと若い現地のトルコ人。現地の人なので安心していたら、物資を投げる、待っている人がいるのに車を急発進させる、地図を把握していないなど、とんでもない奴だった。一体トルコは貧富の差が激しくコネ社会と言われるが、教養の差も大きく、ちゃんと学校に行かせない家庭も少なくないようだ。絨毯屋に限らずどの店に行ってもチャイ(お茶)を無料で飲ませてくれるが、運んで来るのは小・中学校くらいの年齢の子である。学校に行っていないらしい。

今回の男もアルバイトで手伝いにきたような感じで、困っている自国民の為という働きは全く見えず、異質な感じがした。その時は良く理解できなかったが、後で明治期を描いた作品に同じような感想の記録があったのを思い出す。

エルトゥールル号遭難と言われる事件で、日本の沿岸で沈没したトルコ船から救助された乗組員を地元住民や政府が保護。生き残った船員を日本の軍艦でトルコまで送り届けた際の出来事で、美談として語り継がれているが、当時対応に当たった日本側の士官がこう記している。


海軍士官「トルコ人は友好的で話しやすいが、同じ国民ながら二つ(士官階級とその他)のグループは全く交わらず、この点異質に感じる。」

出身・環境によってもその人の人物形成は大分異なるらしい、と感じた日であった。このように不快な出来事が重なってしまったが、最後は飛び切りの料理を口にすることができたので幸せな日となってしまった。


現地に十分物資も渡せず、振り回され疲れていたので気分転換しよう、という企画からミディエ・ドルマという、ここらでは名の知れたレストンで夕食をすることに。ここの自慢料理はムール貝の外套膜の中に詰め物をした炊きもの料理だ。ホテルからも近い旧市街に位置しているので少し遅くなっても都合が良かった。さっそくムール貝を注文し、しばらくすると料理が出てきた。貝殻は二つに開けられており、一方の貝殻の上にビスタチオ、松の実、そして貝の具に塩気があるため塩胡椒を少々振りかけてある。、スパイスとトマトで炒めた貝の具と米にレモンを絞り、スプーンもしくはもう片方の貝殻で掬って食べる。


これが実に美味しい。


瞬く間に一皿平らげたのでもう一皿 注文してふと考えた。貝を食べて美味い、と掛け値なしに思ったもは日本の牡蠣だけだったが、食材が命でもある分高価で、獲るシーズンも限られておりいつでも食べられる訳ではない。

それに比べてミディエ・ドルマスはレストランではメゼ(前菜)として出されたり、ガラタ橋付近の屋台でも手軽に入手できる。トルコ料理がピラフ発祥の地と言われるだけに、トルコ米も炒め物に実に良く合う。

エリカなどは、ボキャブラリーが少ないのか


エリカ「あー、幸せ…」

という言葉を連発していたが、レストランを出るときの我々のテーブルの上には、中身の具材をなくし、全てを出し切った形のムール貝達が小山ほど盛り上がってスタッフの笑いを誘っていた。

このように日が過ぎていったが、アメリカの団体との不協和音に加え、ホテル宿泊客の中にロシア婦人の姿が目につくようになり、奔放な彼女達は下着姿で部屋を開けっ放しにしているので、次の働き場所を探す必要が出てきた。


取材

ある日イルハンの手引きでトルコのテレビ局に出ることになり、代表としてエミリがインタビューに応じることとなった。

我々も車でテレビ局に向かい、トルコ人の間では知らない人のいない、日本で例えるなら、みのもんた以上と言われるタレント司会者と会うことができ、彼から色々な話しを受ける。

内容はよく覚えてないが、若輩連中の我々相手に随分丁寧な態度で接してくれたのは印象に残っている。ところが素直に彼の人柄を褒め称えたら、皆に笑われてしまった。どうも私は単純すぎるらしい。


取材も終わり昼食を摂るためグラン・バザール付近を歩いていると、突如悲鳴が起こった。

年配の女性が上げた声というのは分かったが、人間の声というより獣じみた絶叫だったので一瞬周りの人間全員が凍りついたように固まり、その後声のする方向に、何事かと皆一斉に動き始める。

我々も呆気にとられその場に立ち尽くしたが、集団の中に巻き込まれてしまった際、危険なもの、何か遠くで雷がしているような感じがしたので、その場にいたメンバーに荷物、特に背中のリュック等に注意するように伝えた。

パトロール中だったのかすぐに警官も駆けつけ、すぐに何でもないから解散するようなジェスチャーを示した。どうもロマ族の老婆が人々の注意を引きつけている間、他の仲間がスリを行う手口だったらしい


ジプシー(ロマ)について

イスタンブールではロマ族をチラホラ見かける。日本ではジプシーのほうが馴染みがあるが、差別用語ということで最近はロマと言い改めている。

所謂流浪の民で、地域に溶け込まずルールも余り真面目に守らずヨーロッパでは異質な民として長い間迫害をうけてきた。最近は定住や定職を持つロマの人々も増えてきたが、一般的に所得は低く、油断できない人々とみられている。

個人的にはジプシーと聞くと、漂泊・自由の民、ドラクエの遊び人、日本の傀儡子、祭りに現れる陽気な一団ながら少し危険で哀愁漂う人々。といったイメージだが、勿論実際はこのようなものではないだろう。一度ロマ族とおもわれる小さな妹を連れている五、六歳の女の子に小銭をねだられたのでやろうとしたら、いきなり小銭入れに手を突っ込まれ、またどこからともなく子供たちがワラワラ現れ手をのばしてきて大いに慌てたことがある。

元々はインドに起源を持つ移動型民族と言われているが、色は浅黒くインド系っぽい顔つきをしている。

が、中にはすごい美人もいる。 ディズニーアニメの「ノートルダムの鐘」のヒロイン、エスメラルダそっくりな褐色の肌と蒼い目という、神秘的な印象受ける少女を見た時は少々茫然となった。

向こうも不思議そうな顔でこちらを見ているが、アジア人が珍しかったのかもしれない。どちらかという間もなくお互い手を振りそのままの別れとなった。正に一期一会。

彼らの無形の文化は多く、スペインのフラメンコの原型はいわゆるジプシーの音楽と踊りであったり、ハンガリー音楽にも多くの影響与えているなどユーラシア大陸の各地にその影響を見ることができる。

傀儡子もシルクロードの東西交易が盛んな際日本にきたロマの人々と関わりがあったのかもしれない、と想像してみると、現代のように交通機関が発達していないにも関わらず古代の壮大な人々の営み、交流にため息がつくような気持ちになる。


クズクレシ

午後はそのまま久々に皆で観光をすることになり、ボスフォラス海峡クルーズに参加。海からイスタンブールの旧市街を見ると柄にもなく絵心が湧き、メモ帳にスケッチをとってみた。突き抜けるような青空の元での船旅は帽子を振って人生を楽しんでいるような愉快な気持ちになる。仲間の誰かが


「大統領のように働き、王様のように遊ぶ!」


と言っていたが、皆このクルーズを楽しんでいたようだ。

イスタンブール戻りの航行では乙女の塔の傍を通る。このひっそり建っている塔は、昔この地を治めていた王が、ある日占い師から美しい女性に育っていった王女は誕生日に命を落す、と予言されてしまう。王は姫を守るべく海に塔を建てそこに避難させたが、18歳の誕生日祝いの籠に入っていた蛇に噛まれ予言が成就されてしまう、という伝説から名付けられた塔だ。


ホテルに戻るとスタッフが、十数日振りに男の子が瓦礫の下より救助されたニュースを伝えてくれたので皆大いに喜び、何日間も生き埋めにされたことを考えるにつけ胸が痛むと同時に、助かったこと安堵の息をつき翌日からの活動に備えた。


世界の軍隊

物資配給の仕事をしつつ、次の受入先を探す活動する日々が続いていたが、この時期我々を力強くサポートしてくれたのがアルである。

日本留学組の残り二人は既に日本に戻っていたので、受入先の交渉などには彼に尽力してもらった。トルコでは珍しく西洋風の風貌で、身体の造りが大きく先祖はイェニチェリではないかと勝手に想像している。この男もトルコの富裕層に多い若者の傾向として顔が広く、一度はトルコ軍内部の物質集配所での仕分け作業がないか尋ねに赴いたこともある。自己完結組織たる軍隊ではあり得ないとは思ったが、人出不足でもあり、まぁ世界には色々な軍隊もあると聞いていたもので。


渡航直前まで務めていた会社にはブラジル軍に所属していたヘリコプターライセンス持ちの上司がいたが、曰く軍隊勤務中のある日、ヘリコプター操縦中に小高い丘を見てみると友人達がバーベキューをしているのを認識。なんとそのままヘリを降下させ、焼けた肉を頬張る為バーベキューに参加した、とのことだ。


元上司「ん?ありゃマルコスじゃねーか。肉焼いているのか…ちょっと寄っていくか」

同乗兵士「おいおい、訓練中だぞ」

元上司「まぁ硬いこと言うなって。お前も腹減ってるだろ。何本か持ってきてやるよ!」



バタバタバタ…

BBQ中の兵士A「おい、マルコス…国軍のヘリが降りてくるぜ…」

兵士マルコス「麻薬の取締か何かしらんが無粋な奴らだぜ。」

元上司「ようマルコス!」

兵士マルコス「なんだ、お前か兄弟!一体どうした騒ぎなんだ」

元上司「いや、随分うまそうなバーベキューの匂いがしたんで、匂いに釣られて降りてきたって訳よ」

兵士マルコス「うはは!おいおいマジかよ!」



...とまぁこんな感じなのだろうか。あり得ない。

しかし本人がそう言っているものだからそうなのだろう。デモ隊に発砲しないでよかったとかも言ってたし。

トルコ軍内部の倉庫は実に綺麗に整頓され、仕分けの必要もなさげだった。担当士官に一応会ってもらったが、やはりここでの仕事はない、とのこと。残念なことではあるが仕方がない。

その後も物資の配達でトルコ軍が治安維持しているキャンプ場に赴くこともあったが、トルコ兵は概して友好的であり、色々とこちらの活動を手伝ってくれたりした。

被災地には同盟国のアメリカ軍兵士も活動に来ており、こちらは豊富な物資調達力を遺憾無く発揮して救助に当たっていたが、いかにも兵士的な雰囲気を漂わせているので、少々近づくのは躊躇された。

ただ緊急の場合は愛想など関係ないので、彼らのようなプロフェッショナル集団の方がよほど役に立つだろう。


交通

 ところでトルコの道路事情インフラは余りよろしくない。国道は整備されているが田舎道はデコボコの道が多い。それとも地震の影響であろうか。整備されていない道を猛スピードで走ると砂塵が舞って視界も悪くなる。

乾燥している気候と砂塵防止のためか、散水車が水撒きしている場面も何度か見かけたが、如何せんトルコのドライバーは運転が荒く、交通ルールを守らない。歩行者がいてもスピードを緩めず、無茶な車線変更も始終だ。といって歩行者も信号など守らないのだが。

ただ驚くべきことに車の事故率は低いという。これには一緒に作業していたアメリカ人も驚いていた。察するに歩行者もドライバーが交通ルールを守らないことをよく知っているのも一因かもしれない。

滞在中車の運転をしてくれたアルの運転もとてもうまく、一時期レーサーを目指したこともある、と言ってドリフト走行なども披露してくれたが、彼は幼いときより車を運転していた経歴もあるのでちょっと特殊かもしれない。要はトルコ人は荒っぽい運転に慣れているようだ。


さらに余談が続くが中国も運転が荒いことで知られており、この点トルコと似ている。一点違うのは事故率だろう。トルコ一の大都市に滞在していた一ヶ月、一度も交通事故現場を見たことはなかったが、中国滞在中、誇張ではく一週間に三度は交通事故現場に遭遇した。このあたりは慣れの問題だろうか。

一緒に渡航してきたハルも日本に戻ると危ない人(交通ルールを守らない人)になっちゃう、と笑いながら言っていたが、私も信号もお構いなしに渡れる場所があれば、時に危ない目にあいながらも道を平気で横切るようになっていった。


活動の日々

新しい受け入れ先は探しつつ、物資の配送や荷物運びの日々は続いた。


ある時は村で建築材をリレー方式で倉庫に運んでいたところ、何処からともなくブラッド・ピットそっくりな男が隣にきて手伝いに参加したが、その時はボランティアで本物が来たのかもしれない、と思ったほどだ。その日の帰りのバスで夏樹にその出来事について話したら、


夏樹「何故知らせてくれないのか!」


と半ば本気で怒られた。

半ばどころか本気で怒ったのかもしれないが、怒られる身としてはどうも納得し難いことではある。


また或るときはオリーブ油を瓶に詰めて被災地に注いで回ったが、いつものように量が充分でなくバス周辺でちょっとした混乱が起きていた。油をこぼさぬよう、またできるだけ早く油を注いでいた際、一人の女性が混雑の中微笑を浮かべながらきて空瓶を差し、トルコ語で何か言って後ろに下がった。私はトルコ語は分からないが意味は一瞬で悟った。


”最後に注ぐ油はとって置いて私に下さい”、つまり予約をしたのである。


最後の分だけになり、まだまだ幾つもの空瓶を出され、注ぐよう要求されていたがそれらを断り、女性の所まで歩いて行って油を注いだときの、彼女の満足げな笑顔は今に覚えている。賢い女性だった。


またある日には都議会議員だか県議会議員だかよく分からないが、女性秘書を連れて我々が宿泊している安ホテルを日本人男性が訪ねて来たこともある。ボランティアとして参加をしたい、との希望だったので翌日物資の集合場所に集まり、物資の運搬を手伝ってもらうこととなった。

私の当日の役割は子供達にアメなどの菓子を配る、というもので彼とは別グループとなった。菓子よりもっと必要なものがあるのでは?と思わないでもなかったが子供たちの笑顔は素敵なものでこちらが逆に癒された感じだ。

ホテルに戻ると前日の議員はもうおらず、一緒に活動したメンバーに尋ねて彼の活動について聞いてみると意外な結果であった。その議員は四十~五十代の真面目そうな男で、話す内容も常識に富んでおり私は多少好印象を受けていた。

しかし実際の現場ではほとんど撮影してばかりで物資の配給という本来の仕事をしておらず、たまに活動する時は自分を撮影メンバーさせていたようで、一緒に活動したメンバーからは散々な不評だった。このようなパフォーマンスは結局見抜かれてしまうとおもうのだが、それでもメリットがあるのと思ったのだろうか。


震災地

今までは主に被災地の周辺だったが、その日は地震の発生地であるIzmitに赴いた。話には聞いていたが実際に訪れてみると、まるで爆撃にあったような街の有様を見て一同は声をなくしていた。

発生日から結構な日数が経っていたが、所々心細げに立っているビルを除いて一面瓦礫の山だ。強烈な死臭も漂っており改めて地震の深刻さを目の当たりにし、今更ながら人の死というものを現実のものとして実感せざるを得なかった。

生き埋めになった人がせめて余り苦しまないよう亡くなったことを祈らずにはいられない。


このような災害には日頃感じている不満や鬱憤が出るが、トルコも例外ではないようで政府への対応に対して不満や怒りも持った人も大きかったようだ。被害が深刻な被災地より軍基地の復旧を優先させていると抗議している場面にも出くわしたが、大規模な自然災害の場合、どこの国の政府に対しても不満や怒りは出るかもしれない。


翌日も被災地に物質を運んでいたが、とある町で一人の老婆が何かを訴えるかのように私達の側に近づいてきた。身振り手振りから察すると家が倒壊してしまったらしい。

ひょっとしたら死者やけが人も身内から出たのかもしれない。何も出来ず配給後その場からバスに乗ってしまったが後から、話を聞くなど何かできなかっただろうか、という考えに至った時には自分の至らなさに絶望した。結局自己満足の為だけにトルコに来たのではないか、救援活動というがほとんど役に立ってない。渡航前から薄々予感していたこの想いを強くし、帰りのバスでは無力感に襲われていた。

その夜皆でホテル裏にあるオープンレストランで夕食を摂っていた際、我々が運んでいる物資の内容と被災地での需要にマッチしていない点が話題となった。私が自転車を購入して各地を回り、要望リスト作れば良いのではないかと珍しく真面目に提案すると


「そこまでやるの?」

と、皆から少々驚かれた。普段皆の後についてくだけの私が言ったのも驚きだったのだろう。


「倒壊した家の前にいたお婆さんの涙が脳裏に残っていて。」

「...」

「...」


地震の惨状を思い出したのか、一同妙にしんみりした雰囲気になってしまったので


「...と言うのは建前で」


と言うと、どっと爆笑の渦が巻き起こった。我々の余りに大きい笑い声に、他のテーブルに座っている客達が何事かと一斉にこちらを振り返ったほどである。夏樹などは頭をフリフリし、


夏樹「もう誰も信じられない!」


と叫んでいる。


エリカ「そもそも被災地に自転車に行ったらそのまま帰って来れなくなるんじゃない?」

達也「物資を受け取る側になるわけですね」

「うん」


無邪気な子供のような顔をするとまたそこで笑いがおこった。こうして和気藹々とした夕食に戻ったが、私の心中は晴れなかった。余り役に立っていないこの現状を変えなくては。


最後の配達

その日はイスタンブール滞在中、トルコ人三人組でただ一人残っている、アルの父親の会社に表敬訪問するため訪れた。アルは事前に父親には連絡してなかったようで、突然現れた日本人に対しお父さんは礼儀は尽くしつつ少々困惑気に、何故事前に言わないのか、と息子に言っていたようだ。

しっかりしているようでどうも坊ちゃん気質が抜けない男のようだ。

会社は主に貿易業を扱っているとのことで二階建ながら敷地面積の大きな立派な自社ビルである。彼が欧米の大学ではなく、日本の大学に留学することになったのも日本と貿易している父親の意向とのことだった。抜け目のない彼は社員に対してこのような形で自分の交流の広さをアピールする狙いもあったのだろう。

その後はアルの家族の新築したばかりのマンションで、彼の母親からトルコの手料理を振る舞うというもてなしも受けた。トルコの人々のもてなしの精神にはどうも日本人にも似た気質があるのではないかと思っていたが、これ以降もその情の厚さには驚かされ、大いにもてなされることになる。大変なご馳走と量だったので最後は食べるのが苦しかった。新築だがまだ時々発生していた余震をアルとお母さんは怖がっていた。


そのアルが次の受け入れ先を見つけてくれた。アタチュルク空港に近い、震災で家を失った人々に仮住まいを解放しているというホテルに寝起きし、メンタルケア的な活動を行ってもらうような仕事内容だ。実際に活動をしてみると、大してやることもなく、子供たちと遊んでいるような内容だったが、今にして思えば、我々がアメリカの団体とうまくいってないことを見かねて、無理をして斡旋してくれたのであろう。


そのアメリカの団体も実は我々の団体とまったく関係がない、と分かったのも丁度次の受け入れ先が決まった前後の時期であり、リーダーのカーネルおじさんが冷たく我々を遇するのも無理はないと納得出来た次第だった。

しかも米国人はボランティアツアーとして料金を払っていたようだが、これが本当だとすれば、カーネルとしては、得体の知れない日本人達がボケっとした顔で参加して来るのは腹立たしく、料金を請求もできず、かと言って物資を運ぶ人手はあるに越したことはない、というところだったのだろう。

この団体での最後の仕事は私一人で行った。リーダーに嫌な顔をされるだろうが、ここにきたのはカーネルの笑顔を見に来たのではない、そんなのはそこいらのケンタッキーの人形を見ればすむことだと、当初の目的を改めて考え、且つ誤解とは言え活動の機会を与えてくれたことに感謝の意を示さずばなるまい、と思ったからだった。


そして会ったら案の定、とても嫌な顔をされた。


「お前らとは関係ないって言っとるだろ」

という表情である。そんなカーネルの心情を知ってか知らずが、いや知っているがしたり顔で近づき最後の参加を申し出ると、しぶしぶ了承してくれた。

その日の活動は大分遅くなり、戻ってきたのは夜になったが今までの礼をリーダーに述べたところ、街灯の灯りの下に横顔を見せたまま

「どういたしまして」

と実に冷たい返事である。


溜息をつきたい衝動に駆られたが、黙ってその場は離れホテルへの帰路の途中、なんとなく寂しい気持ちがしてやっぱり溜息が出ていた。

PODCAST

​あなたも物語を
話してみませんか?

Image by Jukka Aalho

高校進学を言葉がさっぱりわからない国でしてみたら思ってたよりも遥かに波乱万丈な3年間になった話【その0:プロローグ】

2009年末、当時中学3年生。受験シーズンも真っ只中に差し掛かったというとき、私は父の母国であるスペインに旅立つことを決意しました。理由は語...

paperboy&co.創業記 VOL.1: ペパボ創業からバイアウトまで

12年前、22歳の時に福岡の片田舎で、ペパボことpaperboy&co.を立ち上げた。その時は別に会社を大きくしたいとか全く考えてな...

社長が逮捕されて上場廃止になっても会社はつぶれず、意志は継続するという話(1)

※諸説、色々あると思いますが、1平社員の目から見たお話として御覧ください。(2014/8/20 宝島社より書籍化されました!ありがとうござい...

【バカヤン】もし元とび職の不良が世界の名門大学に入学したら・・・こうなった。カルフォルニア大学バークレー校、通称UCバークレーでの「ぼくのやったこと」

初めて警察に捕まったのは13歳の時だった。神奈川県川崎市の宮前警察署に連行され、やたら長い調書をとった。「朝起きたところから捕まるまでの過程...

ハイスクール・ドロップアウト・トラベリング 高校さぼって旅にでた。

旅、前日なんでもない日常のなんでもないある日。寝る前、明日の朝に旅立つことを決めた。高校2年生の梅雨の季節。明日、突然いなくなる。親も先生も...

急に旦那が死ぬことになった!その時の私の心情と行動のまとめ1(発生事実・前編)

暗い話ですいません。最初に謝っておきます。暗い話です。嫌な話です。ですが死は誰にでも訪れ、それはどのタイミングでやってくるのかわかりません。...

bottom of page