こういう風にくくるのは、私としてもいささか不本意かもしれない。大人になった今ならば特に。けれども、私は、それに救われた。
今日、私はその高校の友達と話をした。相談事をしよう、というのが動機だ。とは思いきや、ひさしぶりだったので話したいことがたくさんあった。むかしの話にも花が咲いた。昨日の話の様な感覚でもあるし、それでもきちんと歳は重ねている。それを当然と安心と共に迎えられる友人は、実際のところ、あまりいない。
けれども、結果として私は、大人になってからの、いや。謎のシンパシー(に、いい加減頼っていていいのかは謎だ。謎だけれども、辛い思い出やら、いや、病に臥す前、というか、思うがままにそれでも障害にぶちあたって生きていた頃の私を知る人故)において、ある種特別なともだちであることには。そうして、いくらなんでもおんなじ高校、それも苦労に苦労を重ねて辿り着いたエデンの園、ユートピアだとしたって、やはり現実問題、そこでとりわけ親しい友達になれた人は貴重である。そも、私は友達を得られないというか、維持が苦手だ。離れていても、なんとなく「友達」と確信できる人物、というのは、いるもので。全く有り難いものだ。
今回は、臥せるのに支障が出る位の悩みを、思い切ってそうした、苦難を共にした仲間に相談した話を綴ろうと思う。
「そいつのプライドなんて無視しろよ、事情はっきりさせないことについてさ、むこうのプライドどうこうなんて気にしてやる必要ないね」「そこまで尽くして、なおちゃん幸せになれないよ。付き合ったあとどうよ?」「このXXXXって思ってればいいよ」「プライドの尊重って、そういうのじゃないよ。甘えたいときは甘えるよ。友達関係で、親友になって、それで、っていうのもあるかもしれない(うん、それは私も幸せだと思うな)(病気なのが私余計ね。だからばこそさ、前の人は「稼ぎが」って別れたのさ。それ毎回言われるのも負担だったけど、やっぱり金の切れ目が縁の切れ目なんだろうね)「男としては大黒柱になるわけじゃん。責任持てないんなら駄目な奴だよ。女もさ、最近思ったけど。すっごく誠意を尽くして、それでテキトウな態度を取るようなやつだったらさ、怒ったっていいんだって。人生いちどっきりなんだって。
ここいらへんで、なんというか、私は泣いてしまった。みっともなく。一度きりだって?一度というタケムラナオコの人生にさ。どれだけ、価値があるのかさ。彼はいった。「友達がいるんだしさ」
友達がいる。全く笑っちゃう話だ!誰も彼も、めんどうくさくなった精神障害者のことは、避ける。それは、正解だ。友達なんて、私が一方的に、治るまで連絡なんかしないと、基本的には縁を切っている。そのくらいのひとだ。
ただし、治る日がくるのかはわからない。さみしさで捩じ切れて、たまにどうしようもなく連絡してしまう、という人がいる。そういう人とのコンタクトを経て「断たなくては」「今は距離を」「空けるのは辛いが、そういう関係って新鮮だったのだなあ」「一切断っても支障なく、楽になるのに気付いていなかった」と、躓きを経てわかることもある。
私は誓って言える。本当に、本当に、もしも彼が怪我や病気、その他惨めな目に遭うようなのは、とても目にしたくない。かわいそうだから、とかいう聖人みたいな理由ではないのが私の悪いところでトラブルメーカーたる所以。絶対に、そんなのは見たくない。それだけだ。私は決して優しくないのだと、誓って言える。自分勝手極まりない。私が庇える状況ならそうするだろう。自己満足だ。私は痛み慣れしている。冗談抜きに、かなりハードな怪我を何度も体験してきた。轢かれたこともあるから、摩擦の火傷がキッツイのも、わかる。手術入りも数回に渡る(精神にくる)。だから、痛みについてなら、いくらでも肩代わりしよう。それだけだ。
私は、おもたいっていわれるだろうが、そういうふうに思えるのは5本の指であまるかどうか、だろうなあ。そもそも、友達の定義って、なんだ。「ぎゃあぎゃあ連絡とらなくても、このひと友達」という信頼と尊敬を抱ける人は、少なくとも私側からは信じてしまってる節がある。
連絡しすぎると、途端に余裕のない女めいて嫌になる。格好良くない。余裕もない。最近は、結婚しないならしないで「独身でいいや」と思ってるくらいでいいと思ったの