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15/4/21

Writing

Image by Olia Gozha

大学を辞めたらこうなりました。



このストーリーはわたしの大切な仲間、勇太さんの壮絶な生涯をJUMPEIが代わりに書き残したものです。





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第1話 寿司屋のバイトが○○で2500万円稼いだ話




勇太「スーツを着るのが嫌だ!サッカーで食ってく。」



そんなことを思ったのが中学2年、サッカー少年の時だった。


しかし、飽き症だったわたしは、サッカーに集中することが出来ず


サッカーでワールドカップ出場を目指していたはずの高校生は、寿司屋でアルバイトをしていた。


寿司屋の店長「おい!パチンコ行くぞ」

勇太「はい!」



店長に連れていかれて、初めて知ったパチンコ。


ビギナーズラックとはうまく言ったもので、初めてにしてなんと20万円。


寿司屋のアルバイト代、時給700円の何百倍もの大金を一日で手にしてしまう。



こんなに稼げるの?



そんな単純な勘違い手違いから、その道へのめり込んでいったのだが、その後は、7連敗。


20万円稼いだお金は水の泡。

パチンコとアルバイトで稼いだお金の、合計30万円をたった7日間で失った。



でも、諦めきれずに毎日毎日通っていたら、

毎日毎日勝っている人がいたので



単純なわたしは、その人に問いかけた。



勇太「毎日来て見ていたんですけど、なんでお兄さんはいつも勝っているんですか?」

お兄さん「・・・・・・」

勇太「聞いちゃいけなかったですか、すいま」

お兄さん「設定機械割って知ってる?1日打ってどれぐらい出るかっていう期待数値なんだけどそれの高いのを探して打ってるよ。あとはマインドもあるけど、自分の中で損切りするラインを決めたり。勝とうとしたら負けるよ。勝とうとすることじゃなくてどれだけ負けないかが大切だよ。スロットなんて負け率を下げることが1番大切。」


失礼なことを言ってしまい、謝りかけた私に、お兄さんが話してくれた興味の塊。



勇太「なんですかそれ?」

勇太「どうやったら高設定を探せるんですか?」

勇太「勝とうとしないって勝ちたいんですけど‥どうしたら負けないですみますか?」



わたしがこの道を極めようと思った極め付けの言葉がある。


勇太「月いくら稼いでいるんですか?」

師匠「最低月150。」


この一言ですぐさま弟子入りを決意。


師匠から選んでもらった台で、打ち子というアルバイトをしながら毎日毎日パチスロノートをつけていき、お金を貯めて本物のパチスロ台を買い、それぞれの台の特徴や技術を極めていった。


そして、18歳になる年。

わたしは師匠のもとを離れ、

人を雇う側になり自分のチームを作り始めた。



一日で最低30万円が動く。

多い時には一日100万円動くこともあった。




どんどんとマシンに入っていく投資金の減り具合の怖さを今でも覚えてる。



けれどその怖さと並行して

閉店時にメダルが詰まったドル箱の山が積んであると、確信もある。





今思えば18歳の域を超えていた。


人が人を呼び、高校卒業までには30人を超えるチームになっていった。



高校生でパチスロというものに出会ってからというもの

頭はいつもスロットのことばかりだった。



どうしたらもっと稼げるか?

どうしたらもっと効率よく出来るのか?

どうしたらお金持ちになれるのか?



登校中だろうと

授業中だろうと

頭の中は常にそんなことでいっぱいだった。



頭の中がそんなことでいっぱいすぎて、

登校途中に進路を変えパチンコ屋へ向かうこともあれば

授業中に早退してパチンコ屋へ自然と向かうこともある。



当時のわたしのカバンの中身と言えば

お弁当、現金30万円、パチンコ雑誌、着替え。



24時間いつでもパチンコ屋へ勝負しに行ける体制は万全だったのだ。



世間ではパチンコ屋のイメージがあまりよくないが、実は案外賢くなる学校みたいだったりもする。


というのも、わたしは中学の頃から全くと言っていいくらい勉強ができなかった。



数学も10点以下なんてざらにある。

通知表も、1と2のオンパレードだ。



そんなわたしがパチンコ屋で得た技が二つある



一つは動体視力。

回っているリールが初めは見えなかったが、

いつの間にか絵柄の一つ一つがゆっくりと、

はっきりと見えるようになった。

これは今でも何かを瞬間的に見つけることが出来るので、子供の事故防止に役立っている。



もう一つ、それは学業。

先にも話した通り、

わたしは全くと言っていいくらい勉強が出来なかった。

そんな私がパチンコ屋にのめり込んでからは

テストの成績がグンと伸びたのだ。



最高で学年で5位という成績だった。

全ての教科が90点以上になり、

100点を取ったこともあった。


理由は明快。



毎日機械とデータ(数字)に向き合い、攻略するために、

いつの間にか頭の中にいろんなことを蓄積するのが得意になったのだ。



そんな副産物のおかげで、わたしの高校生活は案外楽しかった。

スロット生活も高校3年間でチームのみんなのおかげもあって、2500万円稼いだ。





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第2話 入学式で決断、僕は大学を辞めた。



そんなわたしも大学に入ることになり

一張羅の晴れ着のスーツを着て入学式に出る。


そこには、テレビドラマで見ていたキャンパスライフ。



全てが新鮮で、何をしよう?

希望も湧いて、勉強を頑張りたいと思う自分がいた。



けれど数時間後、私の心はもう大学を止めようと決心してしまっていた。


それは忘れもしない。




あの先生の言葉だ。





先生「「みなさんは今日から晴れて大学生となりました。たくさん辛いことがあると思いますが、たくさんの友達を作って有意義な学生生活にしてください。当校では就職率も90%を超えており、そのうち多くは公務員の道へと進んでいます。みなさんの人生がより豊かに、そして社会に貢献できる人材となるよう当校では精一杯のサポートをしていきます。」”」


そんなスピーチがあった後に、



会話の中でこんな一言が引っかかった。



「「安定していけば、生涯年収2億円」」

勇太「…!」

勇太「ちょっとまって。…2億円?」

勇太「人生の価値ってそんなものなの?」

勇太「もう決められちゃってるの??」

勇太「残りの楽しめる自由な時間は何分?」



そんな計算が頭の中で始まった途端、

一瞬にして大学の魅力がわたしの中から消えた。



けれども、当日に大学を辞めますなんて言えない。母親に申し訳なかったからだ。


仕方なく、学力診断テストのようなものを受け

少しの間だったが大学にも通った。




「大学はどう?」

勇太「楽しいよ!いってきまーす!」




そんな会話も心の中で悪いと思いつつも、行き先はやはりパチンコ屋。



そして大学をやめたのは、入学式から6カ月後だった。


「「あの大学にいても、自分にとってなんの魅力もない。このままいてもお金も時間も、もったいないからやめて自分のしたいことを探したい。」」

そう素直に言ったわたしに、母親は一言。

「「あんたの人生だからあんたが決めればいいよ。」」



親孝行をしよう。

そう決心した瞬間だった。




「安定していけば、生涯年収2億円」

わたしは大学を辞めることを決断した。




そして私は、大学で一番の教えとなった

生涯年収2億円をパチスロで目指すことにした。



効率よく稼ぐために

効率よく増やすために



仲間に自分と同じスキルを持ってもらうために

自宅にたくさんのスロット台を購入し、再び人を育てることを始めていった。



当時の生活は、今思えばすべてが狂いのはじまりだったのかもしれない。



朝一(早朝6時)にパチンコ屋に出向く。

前日から場所取りで並んでくれていてくれた子に、給料を渡し交代する。

スロットを打つアルバイトの子たちが合流し、その日の狙っている台を伝える。

開店後、あとは閉店まで死ぬ気で打ち続ける。




そんな1日がチーム利益で100万円の収入になる。




お金が増えていく快感と反対に

体はどんどんと悪くなっていった。



頼って飲み始めた健康食品で黄疸が出て



自分の感情もわからなくなり、人に笑っている顔を見られるのが嫌になり

いつの間にかマスクをして隠していないと落ち着かなくなっていった。



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第3話 ネットワークビジネスとの出逢い



そんな毎日が続き、20歳の頃

中学時代からの友人シンから急にメールが入った。



シン「久しぶり!元気にしてる?飯でも食おうよ?」



シンとは中学卒業後、5年近くも会っていない。


サッカーがものすごい上手な彼が全国大会で

テレビに出てる姿を見ていたので、

久しぶりに会って話したいなと、すぐに会う約束をした。


再会当日。



シン「久しぶり!元気にしてた?おれさ、大学行ったんだけどやめたんだよね。なんか将来にワクワクしなくて。」

勇太「まじ?俺も大学やめてプロとしてパチスロで食ってるんだよ!体壊しながら(笑)」

シン「勇太さ、やっぱおもろいね!ちょっとさ、マジで一緒に稼ごうよ!最近お世話になってる社長と面白い仕事をしだしてさ!」

勇太「まじ?!やる!」



単純に、今振り返ったらバカ丸出しな自分だが

この時のすぐやる!という決断があったからこそ、いまに繋がっているのだと思う。



一通り説明を終えた後、シンはこう切り出してきた。



シン「でね、他のネットワークと違って一年だけの期間でやるものだから、しんどくならないしやりきろ!」

シン「シルバー、ゴールド、プラチナとランクがあって登録料が違うんだけど、30万、50万、100万ってなってるけどどうする??」

勇太「シンは何でやってるの?」

シン「プラチナだよ!」

勇太「なら俺もプラチナで一緒にやるよ!」




こうして、初めてのネットワークビジネスへの登録は100万円のプランを選択。



ネットワークビジネスを始めてから

私は多くのことを学んだ。



社長や役員といった普段会えないような、数えきれない方達と出逢い、価値観が変わっていった。



当時手を出してしまったネットワークビジネスは、上海万博前で盛り上がっていた、中国でのサービス(外貨預金口座開設や不動産案件)を商材にしたものだ。



ネットワークビジネスをしながらパチンコ屋に通う、二足のわらじ生活。



わたしが目指す2億円を1年で稼いでしまう人、1日で動かしている人、なんだか刺激が強い毎日で、私の欲と向上心は増していく。




しかし、

順調に見えたこの生活もある日からズレ始める。



友達だった子が友達じゃなくなったのだ。




勇太に騙された




悪い噂はすぐ広まるもので、勇太がネットワークビジネスやってるから勧誘に気をつけてと広まったのは早かった。




”友達がいない”




初めてなくらい衝撃で寂しい思いをしたのを

今でも覚えている。


さらに悪い出来事は続くもので、

パチンコ屋の売り上げ数百万を持って逃げてしまう子達。



なんでそんなことするんだ?

そんな気持ちが自分をどんどんと苛立たせていった。




あるセミナーに出た日、講師が話していた言葉が心に突き刺さる。


講師「あなたの欲しいものを強くイメージしなさい。絶対に無理なんて考えは捨てなさい。必ず思考は具現化する。」



わたしの思考って…?? お金!!!

お金しかなかったのだ。


なんて寂しいんだ。と思いながらも、

他に自分がしたいことはないか考えてみた結果

それは、自分のコンプレックスな部分が多かった。


一番は、英語を話したい。


単純にカッコいい。


その日からそれを夢に置き換えてみた。

毎日毎日、英語を話してる自分をイメージしていた。



そしてある日、留学に行こう!と閃き、カナダへ向かった。




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第4話 バンクーバー夢の留学生活。先輩に飛ばれて大借金。



留学を目標に変えてからは全てが早かった。



パチスロ生活目標達成も、パチスロ生活引退決意も、行き先の国の決定も、全てが一瞬だった。



大切な仲間を失うという大きな失敗をして、

ネットワークビジネスにはもう手を出さないと決めたが、その失敗の中ですごく学んだことがある。



教訓

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それは世間の目を気にしないでいいということ。


いまの世間の常識は何にも気にしなくていい。

何をしてもその中で自分が感じられることはたくさんある。

全てが結果でなくキッカケと思えるなら、とことん楽しめる。

だからこそ夢ができた。



わたしの人生で、一つ目の夢。



”英語で友達と話している自分”に向けて、わたしは今までの生活全てを捨てて、飛び出すことにした。



行き先はカナダ、バンクーバー。

カナダへ渡ったのが22歳の春。


語学力は悲惨なものだった。

何といってもA~Zまで言えない。

ホームステイ先まで電車で帰れない。

パトカーに送ってもらったことさえある。





日本にいたら、きっとこれはネガティブな捉え方になっていただろう。

けれど今、わたしはカナダに住んでいる。



その気持ちがネガティブをやるしかない!に変えてくれた。


ついていけないことが多かったので、また自分なりに考えた。


どうしたら英語が楽しくなる?

どうしたら友達ができる?

どうしたら…どうしたら…


そうだ


勇太「学校近くに引っ越しをして1人暮らしをして、テレビにPS3とWiiといった、みんなが楽しめるゲームを買い揃えて楽しめる場にしてしまおう!」



閃いてからは早い。

すぐさま引っ越し。そして、すぐさま友達が出来て家が溜まり場となった。



平日も土日も関係なく

常に外国人がいてくれる環境が、わずか家賃とゲーム代。



それから3カ月、友達と会話できるまでの語学力に成長することができた。



そして大好きなサッカーをカナダで友達と楽しむ毎日。



友人と笑える生活が毎日幸せだった。



…が、悲劇は再び。



サッカーの試合中に巨体のブラジル人に乗られ次の瞬間、腰が熱くなり激痛が走る。


立てない……集まってくる友人。

声をかけられても返事が出来ない…

あまりの激痛で歩けなくなり、目の前の景色がゆがんでいった。



すぐさま日本へ帰国。

椎間板ヘルニア、後の長い長いリハビリ生活への幕開けだった。

飛行機の中は、生まれて初めての座席でなく通路に寝かされての搬送。



よく病名は聞いていたが、椎間板ヘルニアにもいろんなステージ(重度)がある。

私がなったのは、足が上がらずトイレにすら行けない重めのものだったので、緊急手術が必要だった。



2週間のリハビリを経てカナダへ帰国。

これからまた楽しいカナダ生活だ!と息込んだ矢先、激痛が走る…

再発だった。そしてまたもや帰国となった。



一度手術をしたところなので、

これ以上手術をせずに自然療法を取ろうという医師。



この瞬間、わたしの憧れだったカナダでの海外生活が幕を閉じた。



それからというもの寝たきりの生活で、

何も楽しくない、何もしたくない。

いつのまにか、わたしは自分の中に引きこもっていった。



毎日同じベッドの上で起きて、

同じベッドの上でご飯を食べて寝る。



それは、毎日同じ電車に乗って

毎日同じ仕事をして

毎日怒られて

毎日同じ部屋に帰る感覚に似ているのかもしれない。



そんな時の私の支えが、Facebookと"るるぶ”という旅行雑誌だった。

治ったら遊びに行くね!というメッセージや、治ったらここに行きたい!という写真だけがモチベーションだった。



少し動けるようになってからはリハビリ生活の毎日だった。



毎日毎日プールにいってひたすら歩く。

トレーナーについてもらって

マッサージと筋肉トレーニングをする。





そんな生活を1年以上送っていた。

その甲斐あって、また痛みを感じることもなく自分の足で歩けるようになった。



治ったからには、海外へ行かなければ!と

その気持ちに素直に、私は海外を回ることにしたのだった。



南米、アジア、ヨーロッパと、様々な地方を10カ国程訪れた。

再会の約束を果たすため、カナダ時代の友人たちを巡って歩いてきた。







彼らはこれからの勇気をくれた。



そんな勇気と希望を持って帰ってきた矢先、またもや思いもよらぬ事態が起こった。




全財産渡していた投資先の先輩が、突如消えてしまったのだ。




どうしよう?と思っても、どうにも出来ない状況にわたしの心は壊れていった。



家にいても落ち着かず

投資を募っていた仲間から家に石を投げられ、ガラスが割られた。


外に出るのも怖く

嘘をつき続けて平気な素振りをしてる自分が苦しくてしょうがなかった。



そんな時、手を差し伸べてくれた恩人が二人いる。



1人は、うちのバーで働いていいよと言ってくれた先輩Yさん。

後にこのバーのおかげでスワロフスキーと出会い、海外で事業をするという発想が生まれた。


もう一人の彼は、ネットワークビジネス時代に出会った友人Kさんだった。

彼自身もネットワークビジネスで友人をなくしてしまい、それからは人だけは大切にすると仕事をしてきた人間だった。



Kさんは私に会うなり、こういった。


Kさん「いろいろと大変みたいやな。すごい経験させてもらってるよなーほんまに。なんでそうなったんやろうな?俺らな、いつか勇太がお金で苦労するって思ってたぞ。」

Kさん「その時はお前は1人になるやろうから俺らだけでもおったろうって話してたぞ。」

Kさん「お金でなく、人を見て、人のために生きてみる生き方を今度は一緒にしてみぃへんか?約束する。何があっても俺が離れることはないからな。」


その言葉に私は大粒の涙を流しながら、大きくうなずいたのを今でも覚えている。

そしてわたしは、スワロフスキーでデコレーションしたアイテムを、当時の彼女と朝から晩まで、寝る間を惜しんで精一杯作った。

世界で一番高く売れる場所を探し、それが70万円で売れると知った韓国にスーツケース1つで飛び込み、借金をわずか6ヶ月で返済した。



借金を返して身軽になったわたしは、これからどうしよう・・・と毎日考えた。



そして出てきた一つの答えが、やはり海外。

それもアジアの発展途上国だった。


なにか見つかれば動くのは癖で、わたしはすぐさま飛行機に乗りこんだ。





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第5話(最終章1/2) 人生を変えた出逢い



向かった先はフィリピンだった。

それは、今まで頭の中がお金に埋もれていた中で、ここには答えがあると思ったからだった。



お金がないことよりも、人がいないことの方が辛い。



そんな経験から、わたしよりもお金がない暮らしをしてる人たちをしっかりと知りたかった。



昔テレビで見て頭から離れなかったあの光景。

[世界がもしも100の村だったら]で映し出されていた、スモーキーマウンテン(ゴミ山)



わたしはそのスモーキーマウンテンの前に立った。





匂いがキツイ。


とてもじゃないけれど平常心でいられない。

そこら中から発火して燃え上げっている煙。


何より、子どもが犬の頭だけを持っている。



食べてるんだよ。と、通訳の人の説明に、吐き気が抑え切れなくなりモドしてしまい、宿へ帰った。

けれどそれがなぜか悔しくて、再度訪れることにした。



ゴミ山の子どもたちに話しかけた。



勇太「こんにちは・・」

「こんにちはーーーー!!!!!!」

「こんにちはーーーー!!!!!!」


それから一緒に遊んだり、話したりを1週間ほど繰り返した。



その中で、戸籍が無い子供たちの現状を知った。



人口にも数えられていない現状を知った。



したくてもできないが当たり前なことを知った。



何より、遊んでいた子どもたちが1週間のうちで何人も亡くなってしまったことを知った。



わたしは、やるせなかったのを覚えてる。

わたしは、情けなかったのを覚えてる。



飛行機の中で、わたしに何ができるんだろう?と自分に問いかけながら帰ってきた。



日本に来てからしばらくポカンと無力になってしまっていた。



そんな時、とある団体から講演をして欲しいと声をかけていただいた。



人前で話したことなんてないのに



人の目を見て話せないのに



大丈夫かな?と、そんな気持ちはあったけど



何か変わるのならと、引き受け話すことになった。


自信は無かったが、あるがままを話した。


するとたくさんの人が涙を流してくれた。

たくさんの人が声をかけてくれた。


その瞬間が

わたしはわたしで良かったんだと、初めて自分を肯定出来た瞬間だった。



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第6話最終章(2/2) わたしの大切な家族


そして、その団体の代表に声をかけてもらいカンボジアへ行くこととなった。



フィリピンで今まで感じたことのない感情を感じて

笑顔の国カンボジアへとやってきた。



とても優しい国。とても笑顔で溢れる国。

だけど、とても悲しい歴史を持っている国。



この地で私は、一つの家族にゲストハウスの前で出逢った。


うまく言葉に出来ないけど、すぐさま彼らに魅了された。


透き通ったまん丸のビー玉みたいな目に吸い込まれそうで、




なぜか自分はカンボジアに住むんだろうなと、その当時から感じていた。


そして、助けなければいけないと思って来たものの、カンボジアの人達が幸せそうに見えたため

「本当に支援が必要なのか?」と疑問を抱くようになった。



この出来事が起きるまではだ。



子供が勉強をしたいと言ってきたので、

任せろ!と大勢の子たちをいくつかの国際支援団体に連れて行ったら、


国籍がない子たちは引き受けることが出来ないと、一喝された。



カンボジアは陸続きの国。

遊牧民族や親がいない子たちは国籍が無い。



国際支援団体の職員さんに一喝された時の、あの子供たちの切ない顔は今でも忘れられない。


それがきっかけでわたしは今、

その家族と共に物作りを行っている。


受け入れてもらえなければ、

自分たちでゼロから作って行くしかないのだ。



彼らと出会った後、日本に帰り、アーティストを中心に作り上げた。



おくりものやというチームとして。



アクセサリーやTシャツなど、子どもたちの感性を生かせるもの、お母さんがすでに出来ること、そんな得意なことを一緒に形にした。



そして、売り上げからカンボジアにフリースクールの建設をした。



ボランティアでもなく

支援でもなく

共存共栄。



現地の人々と日本のアーティストで紡いだ絆。

ヨーロッパで圧倒的な支持を受け続け、日本展開した、支援ではなく、デザインで真っ向から勝負したミサンガが紡ぐ大切な毎日。








今は、”おかげさま”と”おたがいさま”の関係を大切に、物作りを通してカンボジアの方々と関わらせていただいています。



今年から物件を借り、

村の人たちと一緒に営む飲食店、村ベースでの屋台起業家支援、物作りのための事業の運営、子どもたちのための映画館の運営を目指して取り組んでいる。



三方良し。
パチスロ時代には考えられなかった、自分が関わることによって相手と社会が良くなる関わり方。



”すべては、好きな仲間と好きな場所で笑って飯を食う生活が出来るように。”



失った全財産よりも大きな価値のある笑顔が、今、目の前に広まっています。






最後までお読みいただきましてありがとうございました!



みんなが笑顔で幸せな毎日を送れますように。

後藤勇太



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