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「お前なんてゴミクズ」と言われた東大競技ダンス部員が全国優勝した話

Image by Olia Gozha

・競技ダンス部物語


○能力よりも可能性を信じる。あきらめるな!!!

○あくまでポジティブな内容 競技ダンスの人に応援されるような内容


○おーぷねすが大事 ひねくれものが、素直に、頭下げて、助けてもらったから勝てた。


○助けてくれる人がいたから勝てた


○「ゴミくず」


○競技ダンスにはものすごい感動が眠っている


・「」を全部見出しにしていく。


③「水面下の白鳥」楽しい集団、居場所を見つけた、必死で頑張る新歓、しかし「ゴミくず」


 勝てない日々、パートナーから認められない日々。


●瀧本ゼミとの出会い。林修。「勝てることを死ぬ気でやれ」自分に到底向いていなかった。

シルエット。63期、64期。


 次の新歓の時期が迫っていた。


 それでも覚悟を決めて踊りまくった。新人戦という小さい試合で、始めて準決勝にまで進む。


 泣いた。無理だと思っていたことができた。


● 小さな試合で準決勝進出し、泣く。でも、就活での「頑張ったことはなんですか?」がわからない。


 セミナーで発破をかけられる。奮闘するも、予選落ちが続く。


 「彼らのようにはなれない」と言われる恐怖。


●執筆活動が注目される。同期の優勝。師との出会い

競技ダンス部活動は、意味のあるものになるか?


4年前半 ダイキさん、戸並さんとの出会い。メディア活動がバズる。夏の全日本戦。杉本矢島組の優勝。


 自分が胸を張って頑張ったと言えるものだろうか?



● 「勝てない相手はもういない」冬の全日本戦、求めていた感動を手に入れる。

4年後期、そして優勝へ 執筆活動と両立させて最後の戦いに挑む。

・「1時間だけでもやってみよう」2部戦のあと、覚醒


●得たものは、「向いてないとか無理だと言われたらわくわくする姿勢」



2014年12月7日、浦安の体育館にて、僕は学生競技ダンスの全日本戦を優勝した。

小さな大会を含めてもそれまで一度も優勝したことがなく、それどころか、始めた当初は1次予選を最下位で敗退していたような選手が、最後の最後の一番大きな大会で初優勝を飾って引退する。

それが僕のたどった、学生競技ダンス生活におけるあまりに出来すぎたシナリオだ。

途中何度もやめようと思った。

「お前にダンスはできるはずがない」「ゴミくず」とも言われた。バカにもされた。

それでもやり遂げた。


その軌跡を書くことで、「不可能を可能に変える」ことの楽しさ、人に頼ることの大事さ、そして競技ダンスというスポーツの素晴らしさを伝えていきたい。


●競技ダンスとは何か、学連とは何か


競技ダンスとは、男女がペアになって踊る、いわゆる社交ダンスというものをスポーツ化したものだ。モダン、ラテンと二種類に分かれていて、僕はラテンを専攻していた。

華やかな見た目とは裏腹に過酷なスポーツだ。

最近、にわかにブーム。ボールルームへようこそ 背筋をピン!と、金スマ



学連とは、プロやアマチュアと違い、学生のみで運営されるもの。

ほぼ全員が大学から始める。

誰にでもチャンスがある世界。マラソン。


●僕は何者か

自己紹介が遅れていた。


●負けて入った東大


 ・鬱だったときも勉強を続けた。

文武両道。よくある、余裕で受かったトいうものではない。

「奇跡」の合格でもなかった。

当然、遊びたかった。泳ぎたかった。

逆説的だが、「早めに勉強する」しかなかった。


3.11にも興味を示せなかった。

「東大生でも日本一を目指せる」「今まで部活やったことがない人が云々」

みたいな文脈にすごくイライラしていた。

高校のときの目標は「競泳で全国優秀かつ、塾にも通わず東大に現役でトップ合格」だった。

なぜそれを目指したのかというと、誰も成し遂げたことがないことだと思ったから。

その時の自分は、能力において、他の誰にもできないことを達成したかった。

でも、惜しいところまで行って、ダメだった。最後にひよってしまった。


大学では、長い間、新歓気分を味わった。

いろいろな団体を見て回った。応援部、演劇サークル、アメフト部、ラクロス部。

そしてほとんどのところに不義理をした。これだと思うところがなかった。

そうして結局、水泳部にだらだらと居続けた。

改めて決勝進出とか日本一という自分がもちべーとされる目標を持てなかった。競泳が好きではなかった。

おまけに、日本選手権で決勝に残るようなすごい先輩がいた。その人と切磋琢磨しようという考えにはならなかった。

11月に退部。気づけばどこも新歓をやっていない。





水泳部伝統の河童踊り。それがまったく踊れず、先輩に「お前は水泳しかできないな、特に踊りだけは無理だな」と言われた。

高校時代も、体育祭のダンスで、自分ひとりだけワンテンポ遅れて動いていた。身長192㎝もあるのだから仕方ない。

一番苦手で、出来っこなさそうな競技ダンスをやる。

アリだな、と思った。

無理だと他人から言われるとわくわくする。



○「自意識」でうまく頑張れなかった、2年次まで

○「がむしゃら」にやってからまわりした、3年次

→ダルビッシュ有の言葉。ちゃんとした努力でないと報われない。

成功体験を引きずっていた。






他のほぼすべてのスポーツと同様、学生競技ダンスは、強くなればなるほどおいしい思いができるシステムになっている。夏全で2位以内に入れば台北に遠征させてもらえるのを筆頭に、北兪杯や東西対抗戦など、強者のみ出られる試合は多い。3年時の招待試合でファイナルクラスにいれば千葉大合宿や新歓ダンパのデモに招かれる。名前が売れていれば理事として皆の上にたつこともできる。祝福されてオナーダンスを何度も踊り、自分は名前も知らないような他大の後輩から憧れられる。飲み会でちやほやされる。雑誌から取材されたりもする。勝負の世界は圧倒的な格差社会だ。そうしたスポットライトのあたる勝者の何倍もの数の敗退者の悔しさ、辛さの上で成り立っている。


僕はこれまで、3学年の先輩を見てきた。3つ上、63期のカップルにはとてつもないドラマがあった。ずっと勝ち続けていたが4年前期にスランプに陥り、最後を盛り返して後期サンバグランドスラムで飾った小田組もいれば、パソで最後の最後に結果を出した蓮尾組もいる。同決を気迫で勝ち抜いた小安組が夏全団体優勝をもたらした。彼らのシルエットを読んで、それぞれの努力は必ず報われるのだと入部したての僕は信じた。しかし、失礼な書き方かもしれないけど、僕の親代である64期は、正直多くのドラマは見せてくれなかった。六大や東部の一次予選で引退を迎えることもあるという当然なことを学んだ。「夢は狂気をはらむ、美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない。」と宮崎駿は『風たちぬ』の企画書で書いた。「その毒もかくしてはならない」と。そういうことを考えながら、シルエットを執筆したと思って、読んでほしい。




○軌跡


「そんなに毎回謝らなくてもいいよ」


新歓期に調子乗りまくり、いろんな部活やサークルにいい顔するもどこも続かなかった僕は、なんと12月まで所属団体が定まっていなかった。その癖「高校時代みたいに最後に妥協しない、感動を味わえる学生生活にしたい」などという気持ちだけは一人前だったので、「どうせなら自分が一番苦手なもの、絶対勝てなそうなものをあえてやってみよう」と考え、冬全翌日に競技ダンス部に入部した。体育祭の創作ダンスでは一人だけ悪目立ちするぐらい僕はダンスに向いてなかったのだ。


当時66期は続々とリーダーが辞めており、親代からは歓迎された。そして入部3週間でQはなみ、Cはかなえとツバメ杯に出ることが勝手に決まっていた。足型を追うこともできず、組んでも毎回崩壊するので俯いて謝りまくってたらなみぞうからそんなメールが来た。そこで「あ、パートナーとはこういうやり取りするもんなんだな」と勘違いし、なみぞうに毎日長文でその日あった出来事などをメールしてた。当時の記憶が恥ずかしすぎて、2年生以降なみぞうとあまり絡んだ記憶がない。なみもかなえも辛抱強く教えてくれたが結果は勿論1パツ。これが僕のデビュー戦だった。




「大熊のおかげで代がまとまってきた気がする」


ツバメ杯は楽しかったが、先輩の踊りに憧れるでもなくその後はぼんやり過ごした。親代目前の65期、とくに同じ寮のたけぽんさんが熱心に教えてくれたが、剣道場にも週2ぐらいしか行かなかった。千葉大、七帝、春合宿と楽しいイベントが多かったから、「サークル的に楽しむのもいいかなあ」と早くも妥協しかけていた。何も知らずに。僕の考えた「ラジオ体操第一」という合宿納会芸が学年優勝したりと、ただただ楽しかったのだ。2年になったら新歓に奔走。ろくにダンス部を知らないのにその魅力を説きまくり、森下とか大志とかともきとかルシエルを引っぱりこむ。後、今では想像つかないかもしれないが色んな役職を引き受けた。OB係とかユニックス係とか駒場祭係とか。今思えばこれが後の活躍の伏線となっている。たぶん競技では貢献できないしそういうところで役に立とうってその頃は思ってたんだな。同じ係をすることが多かった矢島歩(当時惚れていた)にタイトルのようなことをいわれ、承認欲求も満たされる。




「お前は東大のゴミクズだ」


そんな漠然と幸せな日々をひっくり返してくれたのは、当時首都大4年の村松昭だ。5月の東大コンペの後の飲み会で、彼は僕にそう言い放った。実際、14人中12人アップの試合で全部1パツしたんだし今思えば当然の台詞だが、自尊心は修復不能なところまで傷ついた。そこから必死こいて、1日7時間ぐらいコミプラに籠もるようになった。しかしラテ新はモダン人にも負けて1パツ。皐月杯は2種0チェック1パツ。ようすけやお杉が2位とか3位とか獲る中で惨めだった。それでも当時からパソだけは他と違い、あがれないまでもチェックは入ったり、コンペでまつけんに勝ったりした。周囲も、このまま頑張ればいつかは勝てると励ましてくれる。




「このままだと余りにもパートナーがかわいそう」


そうこうしているうちに固定面接の時期となった。当時シャドコンで毎回優勝してたさえなと、体格の関係上組めると微塵も疑っていなかった僕は、必ずしも自分が希望されていないことをなんとなく知り屈辱的な気分を味わう。いいとこ見せようと臨んださえなとのセグエはカウントとれず、公衆の面前で大恥をかく。終了後号泣しているさえなを見かけるが声もかけれず、ただただ惨めだった……。その後、さえなと組めることとなったが、松前杯でOGジャッジだったいとっささんの放った一言が、痛烈だった。やる気があるように見えないともいわれ、ダンスではこれが精一杯なんです…と思った。自信はどん底。後輩にも馬鹿にされてるんじゃないかとか考えてこの頃から絡むのが怖くなる。


さえなと組んでから夏国パソと松前ルンバだけあがったが、その後冬国に至るまで2年後期も全部パツった。


2年全体では15回1パツ、2回2パツ。親学年が現役の間はほぼパツったところしか見せられてなかったな。確かに余りにもパートナーがかわいそうだ。




「君たちには、チャンプになれる素質がある」


冬国のあと長い試験期間があってダンスから離れてみると、何とのびのびできることか、と気づいた。当時つきあってた可愛い彼女としけこんだり、瀧本ゼミにもこの頃出会った。なんで弱いダンスなんかやってんだ。しかもこれから指導学年で更に負担は重くなる。辞めちゃえばいいじゃないか。何度もそう思ったけど、部内戦OBジャッジの戸並さんにこう言われて踏みとどまった。戸並さんは11年前の冬全Cチャンプであり、2年の春部内戦からの仲だ。パツったことしかない奴がどうやってチャンプになるんだとも思ったが、信じることにした。新歓チーフを務める傍ら、吹っ切って踊ることを心がけた。これまで、弱いとかセンスないとか言われまくって自信を失い、くらーい、怯えた踊りしかしてなかったから、下手なりに発散するようにした。そして迎えた前期新人戦では、ベーシック戦ながらパソで初の準決勝に入る。これはめちゃくちゃ泣いた。まずヒート表みて飛び上がって喜んで、万歳して、それから隅っこで泣いた。




「昔の自分に恥じないようにがんばれよ」


夏国では子学年の前でパソファイナルに進出、5位入賞。「あんまり成長してない」とか常に厳しかったきむたかさんが「今日優勝あるかも」と言ってくれたのが凄く自信になった。


その翌日、矢島歩と共に出かけた「突き抜ける人財ゼミ」という怪しげなセミナーで、有名なコンサルタントの波頭亮さんという方に僕の取り組みを話した。すると波頭さんは激怒。曰く、高校時代に部活をやりきれなかった後悔からダンスがんばっているとか言う癖に、全国大会にも出られない自分を満足げに語るなよ、と。それは正論だった。「遅く始めたのに」「センスないと言われてたのに」東部規模で準決とか小さい試合で決勝に入れる自分、凄いじゃないかなんて無理矢理納得しようとしていた。他の誰にも見えない景色を見たいなら、それはどん底から頂点まで駆け上がって初めて達成できるはずだと、改めて気づかされた。




それから練習場にいる時間も長くなったし、日数も増えた。1・3年旅行でへとへとになっても帰りは十条にさえなと籠った。しかし結果から言えばその後また長い停滞期に陥いることとなる。秋部内でレギュラーをあと1で獲り損ねたのを皮切りに新人戦R同決落ち、天野2パツ、そしてとどめのツバメ1パツ。ツバメでは僕もさえなももはや涙も出なかった。




「先輩は、なんでダンス続けられるんですか」


年内最後の練習でさえなとじっくり話し合う。僕たちは最初からドブラーになりたかった訳ではなく、やはり4種が上手く夏全で活躍するような組になりたかったが、それはもう叶わないだろうと認識してRPに絞りこんだ。先生のレッスンだけでは足りないと感じ、OBさんを呼びまくることもこの時に決める。それでも冬国は2次が精一杯で、1個下の強いどころににも負け始める。「遅く始めたから」なんて言い訳ももう通用しない。


自信を持てないでいた中で、春合宿の風呂場でテルに声をかけられた。ジュニアでそれなりに活躍しているテルも、今後勝てるか分からず、怖いという。大熊さんは全然勝てないのに、どういうモチベーションで続けられるんですか? 後輩からかけられる言葉は刺さった。どういう返事をしたかは、覚えていない。




部内戦は4年の中で最下位、みずきにも負けたがなんとかRPの枠はとれた。春六Pでファイナルソロを踊ったが、1年前の新人戦でセミにあがった時ほどの感動はなかった。六大前あたりから、さえなには「優勝したい」と言うようにしていた。当時は遠い目標であっても、やはりそのためにやっているんだと、自分にも言い聞かせていた。テルの問いへの答えもやっぱり「優勝するため」になるはずだ。だが春東部はRが二次、Pは最終予選あと1で敗退。夏全は2パツして4年前期を終えた。自分たちはやはりパッとしない中、杉本矢島の夏全スタンダード優勝には度肝を抜かれた。日暮里の練習場で妥協なくぶつかる2人を幾度となく見ていたから、俺たちはああなれないのかな、とも思った。




「君たちには何の心配もしてないよ」


夏休みを迎え、もう最後だからということで、1つ決断をした。僕は著名人にインタビューするブログを書いていて、それが一部にウケてライターの仕事などがくるようになっていたのだが、多くを断って冬全までダンスに集中することにした。9月はほぼ毎日、10月になって学期が始まっても週5か週6でカップル練した。気づいたら1日6時間ぐらいあらゆるパソの動画を観ている自分がいた。練習ノートは9月から最後までで約4万字に達する。投資を惜しまずに、親から仕送りを無理いって増やしてもらってカイロに週2で通う。練習も、ただがむしゃらに踊るのではなく、さえなと、時には1つの動作について40分間議論して、妥協ないものにした。3年・4年前期と積み上げてきた練習量がそれを可能にしたのだと思う。1回1回の練習で見違えるように伸びたし、新しいムーブメントを2人で獲得していくのが心底楽しかった。いけるかもしれない、という期待が僕とさえなの中で生まれる。


そこからは破竹の勢いだった。部内戦はRP2位、秋六はP3位でR4位。春六チャンプのそーりに勝てたことがものすごくうれしかったし、試合の朝「大熊が怖い」と本人から言われたことも自信となった。その勢いのまま、東部ではP3位。最後の東部で初の東部規模ファイナルを果たした。我慢できずに採管席までいって、4チェックはいったのを見届けて泣いた。自分の競技に関することでの嬉し泣きはそこが2回目だ。


【最後の数週間】


 明後日に東部一部戦があり、3週間後に冬の全日本戦が待っていて、そこで学生競技ダンスの選手として引退です。


 高校時代の「最後の数週間」には悔いしかありません。当時僕は水泳部で、本気でインターハイ・ジュニアオリンピック・国体という3つの全国大会で表彰台に乗って引退しよう、と思っていました。実力も府の予選のタイムで全国10番目ぐらい、記録会の持ちタイムでは3番目だったので間違いなく手の届くところにあった。


 しかし、前哨戦とも言える近畿大会でプレッシャーに負けて7位どまり。そこから全国大会までの4週間死に物狂いで練習して逆転勝利というシナリオは全然あり得たはずなのに、そこで気持ちの糸が切れて漫然とした日々を過ごしてしまいました。受験勉強もあるし、みたいな適当な言い訳を見つけて、かといってそれを全力でやるでもなしに。


 結果全国大会では予選落ちしました。他の3年生が流すような涙はわいてきませんでした。高校最後の大会で、全国大会で勝てる可能性がある。そんな幸せなチャンスはめったとないのに棒に振ってしまった後悔はいつまでも残っていました。肝心な場面で気持ちが逃げ出してしまったという自覚が重くのしかかります。


 小さいころから強かった水泳と違って競技ダンスは底辺の初心者からのスタート。過程はいろいろ違います。けれど今また同じ「最後の数週間」まで来ました。絶望的だった実力を1つずつパートナーと積み上げ、ファイナリストやチャンプと渡り合えるようになった自信があります。今度は逃げないし、悔いを残さない。あの時やりきって良かったと後から振り返って思えるような、そんな2試合にします。




この快進撃を支えてくれたのは早稲田OBで、昨年のパソチャンプの井上大毅さんだ。多い時は週2で練習を見ていただき、試合会場でも「心配ない」と励ましていただいた。弱かった時代を知っている多くの先輩が、東部までの結果に驚き、祝福してくれた。でも最後にやり残したことがまだあった。




「大熊と組んでよかった」


秋六・秋東部のチャンプである立教の潤もいなくなり、「自分は優勝候補筆頭だ」と思いながら3週間踊った。東部は過去最高に踊れたと感じていたが、3回も練習するとルーティンの全部分に修正が入った。それぐらいさえなと息のあった凄まじく濃密なコミュニケーションがとれた自負がある。まだまだうまくなれるんだとうれしかった。だから試合前日に調子悪くてもいつものことだと何の不安もなく、後は当日のメンタル次第だと思って臨んだ。


そして、優勝が決まった瞬間は号泣した。崩れ落ちた。これこそが自分の求めていた感動だと噛み締めながらオナーを踊り、宙を舞った。さえなから言葉をかけられてまた号泣。




「感動するために生きている」。これは僕が小学生の頃から持ち続けている座右の銘だ。みんなから認められたいし、何より自分自身を誇らしく思えるような活躍がしたい。そのためには特別なことをする必要がある。そう思って僕は小説を書いたり、勉強を頑張ったり、生徒会活動や合同文化祭の実行委員に取り組んでみたり、競泳に打ちこむ高校生活を送ってきた。しかし、ある時気づくことになる。素晴らしい成果をあげるためには他のことを犠牲にして集中する覚悟も必要であることを。そして、それが僕の好奇心とは真っ向からぶつかることを。いつしか、色々手を出すことを、突き抜けた結果が出せない時の逃げ道として使っている自分がいた。一番時間をかけて、長い間やってきた競泳の引退試合で自分の泳ぎに感動できなかった。代わりに、何もかも捨てて競泳に打ちこんできた同郷代表の女の子が、今までの雪辱を果たす大ベストで優勝する姿に応援しながら涙した。あの時つかみ損ねた感動を、4年間かけて自分の手に取り戻したのだと思う。最高の形で。






○勝因




それは「目標を言葉に出すこと」と「人脈」、「ことに向かうこと」の3点に集約されると思う。




まず、今がどんな成績であっても目標は大きく持ってはっきり口にした方がいい。3年終わりに「せめて1度はファイナルソロを」と言ってた時にはそこまでしかいけなかった。前期の実績は大したことなくても、後期開始時点で周囲にもパートナーにも「優勝」としか言わないようにした。口だけ野郎になるリスクを犯す価値はある。周囲が「この人は優勝を目指しているんだ」と認識して接してくれるようになる。それは自信にもつながるし、指導を受ける時も、教われる内容・熱意が違ってくると思う。予言は自己実現されるのだ。




すばらしい人から投資を受けるのはより重要なことだ。僕は副業でいろんな起業家に取材してきたが、彼らはほぼ全員、圧倒的な才能には満ちてない。巡り合わせがよく、いい仲間や応援者に出会えたから成功したのだ。平凡な作家でも、超一流出版社の敏腕編集者がつけばきっとそれなりの作品が書けるだろう。ジュニア時代から強いやつが最後まで勝つのが多いのは、実はそのせいもあると思う。最初から活躍してて、東部の飲み会とかにも行きまくるから色んな先輩が目をかけてくれて上手くなる。その好循環にはまるのだ。才能の差なんてたかがしれている。もし最初にその環境が得られなければ自分で作るべきだ。僕が最もその点で尊敬しているのは杉本である。ジュニアで大して勝ってなかったが、飲み会や練習場で、名だたるスタンダードチャンプといつの間にか仲良くなっていた。僕で言えば戸並さんに目をかけてもらえたこと、大毅さんにお願いして毎週教えてもらえるようになったのが最大の勝因だ。後はカイロの加藤さんや、衣装の仕立て屋・ボトムターンのおっさん。それから、もっときむたかさんを使った方がいい。あの方はその辺のプロより学連競技ダンスを見ていて、勝ち方を知っている。だって他ブロックの組がカポカポかどうかまで知ってるんだぜ。お願いすると喜んで練習場まできてくれるので、アドバイス受けるべき。後は、4年の千葉大合宿から他大との交流を意図的にがんばった。それまで弱いのをバカにされるのが怖くて閉じこもっていたが、ライバルを作り、応援者を作れる絶好の機会がごろごろ転がっている。特に「ドブライン」なんて作ってドブラー同士は親近感を持っていた。立教のそうり、明治のサブロー、獨協のりぴー、日大出村、東工ドカベン、電通れおた、一橋小島などなど今年はドブラーが多かった。




3つ目は「ことに向かうこと」。これはDeNAという企業の創業者・南場智子から拝借している(詳しくは http://matome.naver.jp/odai/2137283171836034701 )。「こと」とは要するに「本質」だ。


ダンスという、審査基準がはっきりしないものをやっているとついつい本質から外れたことに目がいく。多彩な技を魅せるのが目的ではなく勝つことが目的なら、ルーティンはシンプルなものを繰り返し練習した方がいい。動画も漠然と観るのではなく、自分の身体を理解して、参考になるものだけを繰り返し観るべき。先輩の成績がどうだの衣装がどうだのスタがどうだの、どうでもいいことに捉われるミーハーにならないことが大事だ。


そしてパートナーとのコミュニケーション。いつも言いたい放題喧嘩するのも、譲り合ってぶつかれないこともベストではないと僕は思う。僕はずっとさえなに引け目を感じて強く言えなかったし、さえなも僕を慮ってか後輩に言うように強くは指導してくれず、それがずっと悔しかった。最後の3ヶ月になって、やっと「今日はもう遅いし明日からがんばろう」というさえなに「もう『明日』なんて言ってる日数はない」と強く主張できるようになった。でも本質はそこじゃなかった。ある出来事がきっかけでさえなから72行ものLINEが送られてきた時に僕は気づいた。大事なのはコミュニケーションではなくそこから生まれるパフォーマンスそのものだ。相手を言い負かすことも、仲が良い状態を作り出すこともオプションの1つでしかない。どうやったらさえなとの関係が最大化されるか僕は考えた。しんどそうにしてたら温かい飲み物を送り、ある時は思い切って2人で休みをとり、恋愛のこととかもさえなを信頼して話し、でも技術について、必要な時は譲らなかった。僕の身だしなみがだらしないのは最後までだったかもしれないけれど……一緒に最高のパフォーマンスを発揮するために相応しい関係ができたと思う。


もう組んでしまった2年生・3年生も、カップル関係というのは可変なものだから、今が最適でないなら働きかけるべきだ。ビジネスライクな関係なんてのは都合のいい妥協でしかない。アツく相手の理解に努めることをやめるな。



















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