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16/3/3

長い線路の終点で

Image by Olia Gozha

アウシュビッツ(オシフィエンチム)訪問記


*日記など全く書かない私がよほどインパクトがあったのか当時のパソコンにメモしていたものをほぼそのまま転載します。(訂正・加筆あり)

*当時の私はスペインに留学中の為、英語とスペイン語が話せます。

*文章中に出てくる会話文は英語でメモしていた文章を意訳した者です。読み辛いかもしれません。

*以上の事を理解していただける方はどうぞ







2011年5月27日 晴天




ワルシャワから始発列車に乗ってポーランドの南にある




【人類の負の歴史 オシフィエンチム(アウシュビッツ)】




に、行って来ました。





アウシュビッツについて、まずその存在を私が知ったのは深夜にやっていた映画でした。




当時、ユダヤ人の友人はおろか知り合いすら一人もいなかった中学生の私




ディズニーランドのホーンテッドマンションにも入れないくらいビビりだった中学生の私が残忍なモノクロの映像に目が釘付けになった、きっとあの時に引き込まれた




それから、色んな文献も読み、第2次世界大戦やユダヤ人迫害についての映画も、同年代の女子よりはたくさん見たし、知識として知ってたいと思います。(お陰で世界史は成績良かった)




なんとなく、ずーっと毎日淡々と過ごしてる無意識の中で、アウシュビッツは私にとって自分の目で見に行くべき場所でした。




けど、今回初めて、チケットを買っていざ行ける事が可能になった時、日が近付くにつれて


「どうしよう」


とか


「やっぱ誰かと一緒に行ける時に行く方が…」


とか思っていました。




あそこは、けして楽しい気分で行ける場所じゃ無い




それはずーっと、わかっていた。




それでも、私は今回の機会に行っておこうと26日の夕方、明朝のクラクフ行きの列車のチケットを買いました。




そして、これはポーランドに着いてから起きていた偶然なんだけど、初めての国、英語もスペイン語もそんなに通じない国で地図も簡易なのしか無いにもかかわらず、全てが計ったかのようにスムーズにこなせていく。




奇妙なほどに…全く知らない街なのに、進むべき道筋が見えているように迷う事が無かった。




まるで、無駄な事に気を取られずに見ておけと言われてる気がした。




アウシュビッツのある街までの道のりは、ワルシャワからまず列車で3時間。




そしてクラクフと言う街まで着いたらそこからはバスか電車で約2時間。




私はタイミング良く来たバスにしました。

*ちなみにバスは1時間に1本なので行く方は気をつけて。




片道だけで5時間越えの結構な旅でした。




そして、この2度ある乗換え乗り継ぎ時間ですが、私行きも帰りもほんとに待たず、むしろ私が乗ったら発車くらいのタイミングでした。





スムーズ過ぎる乗換えをこなし、バスに乗って1時間半も過ぎた頃でした。




私の手足は気付けば、とても冷え切っていました。




ちなみに5月のポーランドは暖かかったです。ぜんぜん寒くない。




けど、私は冷え切ってた。




アウシュビッツに着いてバスを降り外に出て太陽は丁度お昼で一番高い位置、そして日差しは強いハズ(周りの人はタンクトップ姿の人とかもいたくらい)なのに冷え切っている私。




個人向けのガイドツアー(英語)を申し込んで、ガイドさんと同じグループの外国人達とアウシュビッツ内を見回ってる間、私は色々と考えるんだろうなとか、写真はやっぱいっぱい撮るんだろうなとか色々と予想してたのに気付けば




「忘れません」


「繰り返しません」


「どうか安らかにお眠りください」




と、声には出さずに繰り返していました。




写真は、ほとんど撮りませんでした。


とゆーか、撮ろうなんて気が起きなかった。




ちなみに27日の朝、寝ぼけながら私が無意識に選んで着た服は全身真っ黒。




他のグループに居たアジア人の人が私が要所で両手を合わせていた所を写真に撮っていたのに気付いていました。




ガイドさんが窘めてくれたからいいけど、こんな所でマナーが無いなと思ってました。




アウシュビッツ内にある元囚人達の展示物は何部屋かに分かれていて、最初に見たのはおびただしい量の髪の毛、およそ7トン




主に女性の長い髪の毛は刈り取られた後、織られて敷物などに加工されてたそうです。




そして次に見たのは、これらを奪われたユダヤ人たちの向う場所はただ一か所だったであろう、眼鏡に義足、杖や松葉杖。




彼らにとって欠かせなかったハズの体の一部だったモノ。




一度も水の出た事の無いシャワー室と呼ばれる地下の部屋で多くの尊い命を奪った毒ガス【チクロンB】の空き缶も沢山積んであり、その横にはガス室の模型。




さらには靴や名前と生年月日国籍を大きく書かされたカバン(アンネの日記の著者アンネフランクの姉のモノを見つけました)そして、新たな土地で生活するために持って来た鍋の山。




殆どのユダヤ人達が、アウシュビッツに連れて来られる時これ等の全てを永久に手放すことになるとはきっと、誰も思って無かったはず。




子供の持ち物だったであろう壊れた人形なども展示してあり、壁に並んだ犠牲者達の写真、番号が振ってあり5ケタまで確認しました。




そして、最後に多くの遺体を焼いた窯も見ました。




1時間と少しほどでアウシュビッツ内の見学ツアーは終わりました。




その後、アウシュビッツの傍にあるビルケナウ収容所へ、アウシュビッツから無料のバスで向かいました。




ガイドさんと共にバスに乗り込みビルケナウまで行くバスの車内でガイドさんがたった1人でツアーに参加してる私に話かけてきました。




彼女が「なぜ、あなたはここに来たの?」と聞かれた時、私の口から出た答えは自分でも考えた事の無い言葉でした。





「私はあのgenocideが本当にあった事なのか、自分の目で確認したかったんだと思います。今日、ここに来るまで私はどこかで嘘であってほしいと思ってたと思います、人間として。」





彼女はそう答えた私に



ガイドさん「真実よ、とても残念だけど。彼らの犠牲を無碍にしない為に後世に伝え続けて冥福を祈り続ける事が今の私たちがすべき事」


と言いました。



私がアウシュビッツ内でひたすら繰り返した




「忘れません」


「繰り返しません」


「どうか安らかにお眠りください」




の3つの事しか、今を生きている人間には出来ない。




けど、人間は忘れる生き物だから時には意識して思い返さないといつか消えてしまう。




アウシュビッツの見学が終了後、出入口の前からバスに乗って向かったビルケナウ収容所には10分もかからず到着しました。




まず、到着して驚いたのはその敷地の広さ。




175ヘクタールもあるそうです。




ちなみにビルケナウ内部はナチスによって殆どのバラックが壊されていたため余計に広く感じたのかも知れません。




そして、ほぼ崩壊されたガス室の前で聞いたガイドさんの忘れられない言葉




ガイドさん「アウシュビッツとビルケナウの唯一にして大きな違い、それはアウシュビッツは劣悪な環境の中でもまだ生きられる可能性のあった収容所でビルケナウは、ただ殺される順番が来るのを待つ為に連れて来られる収容所」





殺されるのを待つ為だけの場所、そんなビルケナウ内に水は無く、そして衛生環境は最低で鼠の大量発生により囚人の生活環境は日々悪化の一途だったそうです。




1944年の8月の点呼で男女合わせて10万人に達した囚人たちを効率よく処分するためにナチスはほとんどの虐殺施設をビルケナウに設置しました。




4棟の焼却炉、ガス室に改造された農家、そして死体を焼くための野外焼却場。




そして、たくさんの映画や写真で知っている人も多いであろう有名な鉄道の引き込み線はアウシュビッツではなくビルケナウにあった。




線路の途中にはたくさんのユダヤ人をここまで運んできた貨物列車が停車していた、長い線路の終着地点には色んな色の花が飾られていました。





その後、ガイドが終わり、一人で線路沿いを歩いていたらドイツ人の家族連れに声をかけられました。




日本人です。と答えると、まず日本の震災へのねぎらいの言葉を掛けてくれました。




そしてお父さんは

お父さん「ドイツ人はね、義務教育中に学校の規則で必須でアウシュビッツへ来ることが義務付けられているんだ。」


と教えてくれました。




私と同年代の息子さんと娘さんは今回が2度目だと言っていました。




私が英語なら話せると理解した娘さんは

娘さん「ナチスの愚行をどう思った?直接的な関わりの無い日本人の君はやはり愚かだと思う?もし君が当事者だったら?見に来て良かった?正直に答えてみて」



と真剣な表情で質問して来た。




私は

「あの時代を愚行なんて、最悪だなんて決め付けたらダメだと思う。確かに、今回初めてココへ来て本とかでは知り得なかった多くの事を知って、なにより先に私は悲しかった。本当にあったんだって、ホントにホントだったんだってショックだったし落ち込んだ。でも、あの時代の被害者の事はもちろん、加害者の事も否定をする権利なんて無いと思う。だって人間には間違っていると分かっていても愚かだと知っていても、それしか選べない時ってのがあるのを今の私は知っているし、前よりもっと知る事が出来た今、忘れないで、当時の事とか…そして私自身これからどうしていくのかをたくさん考えようって思う。今回ココへ来て私は人間は強いと思った。傷ついても、それきりじゃない。今ならわかる。傷つく事は、たまらなく怖いけれど、でも受け止められる。私はこれから、あの当時のナチスが出来なかった、自分とは違ういくつもの考え方も受け入れて、わかるようになりたい。それは簡単じゃないから、きっと時間は、かかるけれど、出来るように努力し続けたい。うん、ココへ来てよかった。清々しい気持ちでは無いけど私はやっぱりここへ来て良かった。」





たどたどしく途切れ途切れのつたない私の英語で伝えた私の言葉を黙って聞いてくれていたドイツ人家族のお父さんは


お父さん「君は、とても良い人達に囲まれているんだろうね。多くの人とアウシュビッツ・ナチスについて話した事があるけれど君の様な事を言う人間に会ったのは初めてだ。素晴しい考えだと思う」



と言ってくれて。




そして、娘さんは

娘さん「当時のナチスは、まるで一つしか見えていない視野の狭い人間だった、そういう輩は大概相手も自分の世界に引き入れようとする。そして失敗した時は他に道が作れないから、全部が終わったような気になって相手を攻撃しはじめる。あの時、何が破滅への道筋を造ったかと言うとナチスには力があった事、正義と正義でぶつかった時、より大きな力がある方が正義になってしまう。どちらでもないのに」


と崩れたバロックを見つめながら話してくれました。





彼らと別れて、ビルケナウの入り口まで到着した。




振り返って広すぎる収容所を見渡した。




大きな木々が5月のさわやかな風に揺らされ柔らかな音を立てていた。




延々と張り巡らされた2重の有刺鉄線の外側。




彼らがどれだけ出たくても、許されなかった側に立って、もう1度だけ両手を合わせた。





はるか遠くの線路の終点は、ぼやけて見えた。





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