話は2001年に遡る。
初めての転勤と同時に、それまでの営業の企画職から総務に変わった。
慣れない職場と職種で初めて与えられた仕事はPBX(ビル内の電話交換機)の更改と、同時にPHSの導入。
配属になった職場は持ちビルで約1200名の所員がいる。
そのビルのPBXの老朽化に伴い、更改と同時にそれまでの固定電話からPHSに変えるという仕事。
前任からの引継ぎだったが、前任は「この仕事、無理だよ。工事業者はそれぞれ勝手なこと言ってるし、社員はPHSなんか持たされて束縛されることを嫌がってる。そもそもこんな大きな仕事を担当者1人でやらせるなんておかしいんだよ。まず、無理だね」そう言って転勤していった。
そんなこと言われても、やらないといけない仕事だし…
とにかくやるしかない。
でも手を付けてみて前任の言葉が身に染みた。
もうグチャグチャな状態。
社員へ何回も何回も丁寧に説明し、ビル中を駆け回って調整した。
組織の都合上工事に関わる工事業者さんが複数社いて、それぞれがなぜか仲が悪い。
一度それまで組まれていた工程を白紙にするという無茶なこともした。
そんなこんなで苦しみながらも、約8ヵ月後、無事にPBXの更改とPHSの導入を終えた。
その8ヶ月、月の残業は100時間を超えていた。
そして息つく間もなく、セキュリティシステムの導入をすることになり、その担当に抜擢された。
ここのビルには約500の部屋があり、そこに電子錠を投入し、セキュリティの向上を図る。
メーカの選定から始まった。
これも担当は僕1人。
格闘だった。
これももの凄い苦労の連続だった。
でも何とか10ヶ月で導入を終えた。
そしてこの間の残業時間は月200時間を超え、ひどいときは月250時間の残業をしていた。
実はうちの会社、組織の決まりで月に30時間までしか残業はつけられない。申請すれば45時間まで可能だけど、申請なんてする人はいなかった。
それに30時間ぎりぎりつけると見た目が悪いので、大体20時間ぐらいしか勤務表上はつけないことが暗黙のルールになっていた。
タダ働きに納得できなかった僕は手帳にその日仕事が終わった時間を書いていた。
それをもとに訴訟を起こす、なんて気持ちはなかったんだけれども、何か記録には残しておきたかった。
それで残業時間は把握しているということなんだけど、毎日帰る時間が朝の4時とか5時。
土日も朝から晩まで仕事をして、金曜の夜とか土曜の夜は徹夜してた。
工事が終わって運用が始まったとき、メーカさんが「この規模をお1人で担当されてやりきるなんて、私も他で見たことありません。本当にお疲れ様でした」と言ってくれた。
本当に1人で担当した。
もちろん総務には他にも人は何人もいて、みんな「何か手伝うから言ってくれよ」「早く帰れよ」と声はかけてくれた。
でもその時の自分は一番下っ端だったし、人にどうやって仕事を頼めばいいのかわからなかった。
だから自業自得なところもあるんだけど、本当にきつかった。
そしてこの仕事を終えたことで、そこにあるのは達成感…、といいたいところだけど、全くなかったんだ。
代わりにあったのは、「きっと僕じゃなくてほかの誰かがやっていたらもっとスマートに、低予算でより効果的なものを構築したはず。会社のお金を何億円も使って、これでよかったのか…?」というある意味恐怖にも似た感情だった。
これは多分1人で仕事をしてしまったために湧き上がる感情で、チームでやっていれば出てこない気持ちだと思う。
僕は1人でこの仕事をやってしまった。
だからやり終えたこの仕事が正しいのかどうか、自信を持つことができなかったんだと思う。
チームでやって、議論を重ねて進めた仕事ならば出てこない感情だと思う。
だから今でも仕事はチームでするべきだと思ってる。
それと、多分この時すでにうつの症状が出ていたんだと思う。
これだけの仕事を終わらせたのに、達成感も解放感もまるでなかった。
打ち上げなんかはやってもらったけど、宴会の席上、なんだか僕は1人でぐったりしていた気がする。
そしてこれが終わった後、僕は「ご褒美」ということで人事担当へ配置換えしてもらうことになった。
係長が言うには「人事なんか普通行けるところじゃない。成果を認められたんだよ」と。
でも僕にはわかってた。
その時会社全体で大きな組織整備があり、ある地域の総務担当が数人僕のいる部署に異動してくることになった。
だから人数が多くなりすぎて、1人出さなければならなかった。
色んな大人の事情があって、僕がはじき出されただけだった。
今考えればほんとにご褒美だったかもしれない。
こいつならできると認められたのかもしれない。
でもその時の僕にはそんな風に前向きに考える余裕はなかった。
異動した先の人事担当も忙しかった。
僕は誰かの後任で配置されたんじゃなくて、新しいポジションで、ある部長さんの補佐がメイン業務。
その部長さんの仕事が殺人的に忙しかった。
その人の補佐、そして新しいポジションということでやることは山ほどあった。
人事配属1年目も月の残業は180時間を超えていた。
このころから、僕はおかしくなった。
まず、夜眠れなくなった。
心底疲れてるのに、全然眠れない。
ウトウトすると朝。
眠い目をこすりながら会社に行くとなぜか集中して仕事ができる。
バリバリと仕事をこなす。
それは気持ちがいいほど。
だけどたばこと缶コーヒーの本数が増えた。
たばこは1日3箱。缶コーヒーは6本。
そして、やたらとイライラするようになった。
会社でははつらつとしているのに、会社を出るといきなり落ち込む。
生きている意味が分からない。
会社には僕の代わりなんていくらでもいる、僕なんかがこの仕事をしているよりもっと適正と能力のある人がやった方が会社のためになる、こんなに一生懸命仕事をして、いったい何のためになってるんだろう、僕は何のために生きてるんだろう、そんな気持ちが抜けなかった。
夜中にベッドから抜け出してはベランダでタバコを吸う。
夜空を眺めながら自分は何て小さな存在なんだと涙を流す。
でも朝になると会社に向かい、バリバリと仕事をこなす。
同僚のばか話にも付き合えたし、楽しくふるまうこともできた。
でも当時結婚していた奥さんの目はごまかせなかったようだ。
「ねぇ、病院に行って。」
そう言われるようになっていた。
でも全然納得できなかった。
むしろムカついた。
「は? なんで? 俺病気なんかじゃないよ!」
僕は大学の時体育会だった。
しかも主将。
厳しい練習に耐え、体罰にも耐えてきた。
そんな自分が精神的な病気になんかなるはずがない。俺は強いんだ。
でも、僕は家にある包丁が気になってた。
会社にあるカッターナイフが気になってた。
会社の屋上が気になってた。
眠れない日々。
忙しい仕事。
楽しそうな同僚。
通勤ですれ違う、人生が充実しているように見える人々。
小さな自分。
親、兄弟、親戚、体育会の誇り、地方に散らばった仲間、故郷、政治、先輩、後輩…
グチャグチャだった。
限界だった。
ある日僕は自宅のマンションに帰り、2階の自分の部屋を通り越して最上階に上がった。
階段の踊り場に出て、下を見つめた。
「ここから飛び降りたら楽になるのかな…」
寒かった。冷たい風が吹いていた。
それがよかったんだと思う。
僕ははっとした。
このままじゃほんとに死んじゃう。
そう思って、病院に行く決意をした。
2004年1月8日 初受診
僕は近所の総合病院の心療内科へ行った。
数時間待たされ、先生の前に座った。
若い先生だった。
その時の僕は診察とカウンセリングの区別がついていなかった。
というか、初めてだしわからないよね…
だから今の心境をつらつらと語り始めた。
途中で先生に遮られた。
「死にたければ抗うつ剤を出すし、眠れなければ睡眠薬を出します。どうしたいんですか?」
「え?」
「だから、症状に合わせた処方をするから、死にたいか眠れないか言って下さい。」
「……もういいです。」
「話を聞いてもらいたいならクリニックがいいでしょう。カウンセリングもしてくれるし。保健所に連絡すればリストくれるから、そっち行って下さい。今日はどうします?薬出します?」
「…もういいです、すみませんでした。」
先生は明らかに苛立っていた。
僕は自分が凄く悪いことをしているように思って、逃げるように診察室を出た。
病院に行けば助かる。
そう思ってたのに、絶望しかなかった。
もう死ぬしかないと思った。
でもその後看護師さんが来て、保健所から取り寄せたクリニックの一覧をくれた。
先生がさすがに僕の状態をやばいと思ったらしく、看護師さんに指示したらしい。
僕はリストをもとに電話をした。
2件、初診を受け入れる余裕はないと断られた。
また絶望が襲ってくる。
3件目、「すぐに来て下さい」と言ってくれて、僕は助かったようなものだ。
後でわかったんだけど、そこのクリニックは絶対に初診の患者さんは断らないって方針でやっていたそうだ。
そのころ世の中はうつ病が認知され始めて、どこのクリニックにも患者さんがあふれかえっていた。
だからこそそこの医院長は絶対に苦しんでる人を見捨てないという方針で踏ん張っていたそうだ。
たくさんの人がその先生に救われたと思う。
僕もその1人。
先生、ありがとうございます。
クリニックへ
クリニックへ行ったら人で溢れかえっていた。
しばらく待って、僕の番。
さっきの先生の恐怖があったので、症状だけを伝えた。
でも、先生は僕の心の中を聞いてくれた。
さっきの先生とは真逆だ。
僕はいろいろ吐き出した。
最後に先生は、「辛いでしょうね。完全な過労で、心と脳のエネルギーが無くなっている状態です。うつ病まではいってないね。まぁうつ状態ってところでしょう。でも治りますよ。軽い抗うつ剤から初めて様子見ましょう」と言ってくれた。
僕の話を聞いてくれた。
うつ病まではいってないけど、うつ状態なんだ。
薬で治るんだ。
なんだかホッとしたというのが、正直なところだった。
この時、自殺願望はほとんど消えていた。
抗うつ剤と睡眠薬をもらって、僕は家に帰った。
これがうつ病との長い長い戦いの始まりだなんて、まったく思わなかった…
帰ってすぐに薬を飲んだ。
食後と言われていたが、とにかくこの薬が自分を救ってくれると思って、すがるような気持ちで飲んだ。
ただ先生からも効果が出るのは2週間ぐらいしてから、と言われていたので、特に変化がなくても気にはならなかった。
夜は睡眠薬を飲んで、初めてのこの日は久しぶりに少し寝れたように記憶している。
そして翌日からは仕事。
病院に行って、自分はうつ状態で、薬で治ると専門家から聞いたことで少し気が楽になっていた。
でも会社には言わなかった。同僚にも。
このころはまだ、うつ病なんて恥だと思っていた。
とことん隠すつもりでいた。
仕事は相変わらず忙しかった。
3日目ぐらいから、異変が起きた。
顔がほてる、強烈に。
やたらとイライラしだした。
少し眠れていた夜もまた眠れない。
おかしい…
1週間後、通院日。
先生に症状を伝える。
薬を増やすことになった。
そしてまた1週間。
顔のほてりとイライラは増していた。
「薬があってないかもしれないね。よくあることです。違う系統の薬にしてみましょう」
違う薬にして、顔のほてりはなくなった。
イライラも収まった気がする。
でも憂鬱な気分は抜けない。
自分が無価値な人間だとおも思っている。
夜も眠れない。
体が動かない。
仕事がきつくなっている。
頭が働かない。
辛い、辛い…
「薬を変えてみましょう」
ずっとこの繰り返しだった。
期待していた薬が効かない。
睡眠薬も種類が変わって量も増え続けている。
もう、治らないんじゃないか?
焦りばかりが募る。
ある時しばらく飲んでいた抗うつ剤があまり効いてないと判断され、それをやめた。
なぜか抗うつ剤は処方されず、精神安定剤が増量されただけになった。
3日目くらいに配水管が気になりだした。
水を流すと漏れていて、下の階から苦情が来るんじゃないか?
その思いが頭を支配して離れない。
水を流すたびに心臓が壊れそうに鼓動を打つ。
「ねぇ、水漏れてないかな?」
「え? 漏れてないでしょ?」
「ちょっと見てみる…」
「漏れてないよ、どうしたの?」
「だって漏れてたら下の人に迷惑かけちゃう…」
そして台所、トイレ、ふろ場と見れるところの配管を全部調べた。
でも自分じゃ見れない壁の裏とかがあって、そこが心配で仕方なかった。
「ねぇ、水が漏れてるかも…」
「漏れてないってば!どうしたの?」
「だって漏れてたら…」
「おかしいよ。絶対おかしい。薬変えたんだよね?合ってないんじゃない?先生に相談したら?」
病院に電話したら、普段は事務員の方が対応するんだけど、その時は先生に代わった。
「本当にすみません、抗うつ剤の処方をしていませんでした。すぐに来て下さい」
病院に行ったら先生はずっと謝っていた。
「私の責任です」と言った。
そして中止した抗うつ剤を再開して、この不安は薄まった。
今思い返してみてもこの異常な心理状態は怖い。
抗うつ剤は下手に中断したりするとえらい目に合うと心に刻み込まれた。
この後、奥さんのお兄さんが実家の近くに一人暮らしをしていたんだけど、そこから実家に戻ることになり、そこは二人でも住めるから引越さないかと奥さんが持ち掛けられていた。
そこは奥さんの職場や実家からは近いんだけど、僕の職場からは2時間半の道のり。
でも奥さんは自分が家事は全部するからと引っ越しを勧めた。
奥さんの実家の家族の結びつきは異常に強かった。
それにすでに家事のすべてができなくなっていた僕はそれに従った。
この状態での引越しは本当に辛かった。
そして、その後の通勤も本当に辛かった。
そしてもう一つ、大切にしていたバイクを手放した。
相棒ともいうべきバイク。
どこに行くにも一緒だった。
でも病気になってから乗れなくなって、新居でも置く場所がない。
会社の先輩でバイク好きな人が欲しいと言ってくれたので、大切にしてくれそうなその先輩に譲った。
別れはやっぱり辛かった。
このころから症状はどんどんひどくなった。
そして、リストカットを始めた。
会社のトイレで切る。
夜中のキッチンで切る。
奥さんが気づいた。
そして包丁を隠されたけど、狭いマンション。
すぐに見つけ出して切った。
奥さんが僕を監視するようになった。
夜中に起きだして包丁を握ると、「何やってるの!」と言って包丁を取り上げた。
それでもやめられなかった。
泣きながら切っていた。
僕は限界だった。
会社の産業医に、会社にいわない約束で相談した。
産業医からは、全然そうは見えないと言われた。
会社では完璧に隠せていたようだ。
僕にはそれがいまだに不思議でならない。
産業医は、うつの人にはそういう人が多い、人前では隠してしまう。
あなたはその典型だ、だから余計に辛い、と言われた。
話をしていくと産業医の表情がどんどん曇る。
深刻な状態だと判断されたようだ。
会社に内緒とか言ってる場合じゃない、休職しなさいと勧められた。
でも僕はこの期に及んで会社には絶対にばれたくない、ダメなやつのレッテルを張られたくないとかたくなになっていた。
社外カウンセリングにも相談した。
そこでもやっぱり休職を勧められた。
それでも抵抗していた。
当然主治医にも休職を勧められていたけど、かたくなに断っていた。
ダメなやつと思われるのは本当に怖かった。
でも、だからこそというべきか、僕は限界だった。
2時間半の通勤の道のりで、2回電車を乗り換える。
そう、電車に飛び込もうと思うことが多くなった。
電車が近づくと吸い込まれそうになる。
親の顔が浮かんだり浮かばなかったり…
でも幸いなことに飛び込む勇気はなかった。
でもいよいよ頭も働かない、体も動かない。
2時間半の通勤が苦痛で、会社を休むようになった。
一度くじけてしまうとそこから下るのは早い。
休みがちになった。
そうなると仕事にも影響が出てくる。
面談を申し出てもいないのに産業医がやってくる。
「あなた死んじゃうよ!」
僕は休職することにした。
上司と同僚に言ったら本当に驚かれた。
ちゃんと隠せてたんだ…。僕は休職を決めたことをちょっとだけ後悔した。
そして僕は3か月の休職をすることになったんだけど、休職するにあたって引き継ぎ書を作らなければならなかった。
例えば急病で休職しなければならない人に引き継ぎ書を作らせるだろうか?
うつ病はこういうところでも扱いが難しい。
普通に見えてしまうし、会社に来いと言われればこれそうに見える。
だから引き継ぎ書を作れ、ということになるのだろう。
まとまらない頭で必死に引き継ぎ書を作った。
これはこれできつかった。
それでも何とか休職にこぎつけた。
休職中は回復に専念しようと思った。
僕が回復に専念するにあたって何をしようとしたか…
スポーツジムに通うことだった。
体を動かしてリフレッシュして、通勤に耐えうる体力をつける。
そしてやたらと増していた食欲によって太った体を絞って、健康体になる。
これは後で大きな間違いだと気付くんだけど、その時は休職するという後ろめたさと、絶対に3か月で完全に治さなければならないという使命にも似た感情でこれを自分に課した。
そしてもう一つ、休職することで給料ががっくり減ることになる。
通院でお金がかかる、休職することで出世の道は閉ざされる、ジムも結構高い、だからお金は必要以上に使ってはいけない。
そのために食費を削ろうと思った。
タバコもやめた。
食事は奥さんが作ってくれる晩ご飯だけ。
後は水。
缶コーヒーもやめた。
その異常なストイックな生活のおかげで3か月で体重は30㎏減った。
体が軽い。
僕は元気になった。
異常なほどに。
3か月の休職を終えた時、僕は別人になっていた。
元気を必要以上に取戻し、体はスリムになり、駅の階段も駆け上がれる。
復職して職場に戻ったとき、みんな絶句した。
仲の良かった同僚が苦笑いをしながら近づいてきた。
「やつれたね、もっと休んでいいと思うよ」
は? と思った。
こんなに元気になったのに…
後で聞いたら、休む前より病人らしくなって帰ってきたらしい。
僕は回復なんてしてやしなかった。
間違った認識で3か月を過ごしてしまい、体を酷使することで神経だけが高ぶっていた状態だった。
復職当初は本当に仕事ができた。
頭も体も動く。
皆に迷惑をかけた分を一刻も早く取り戻す。
その一心で頑張った。
皆に止められた。
壊れると。
僕は聞く耳を持たなかった。
こんなに元気なのに…
1ヶ月しか持たなかった。
どんどん気持ちは落ち込み、頭は働かなくなり、動くとすぐにつかれる。
リストカットを再開し、たばこも吸いだした。
イライラする気力はなかった。
ひたすら落ち込んだ。
そしてそれから2か月後、再休職することになった。
僕は限界だった。
あれだけ嫌がってた休職を自分から申し出た。
それから数か月の休職と復職を繰り返した。
今思えば職場にとっては迷惑な存在でしかなかったと思う。
この期間、いろいろなことがあった。
奥さんの両親が近くのマンションを買うので、今のマンションに住まないかと言ってきた。
今住んでるところから2駅しか離れてないし、奥さんの実家は窓から見える距離、その方が便利でしょ? それに家具ももったいないし、というのが理由。
家族のつながりが深い奥さんは二つ返事で受けた。
奥さんの実家に病気のことを隠している僕はばれるのが怖くてすごく嫌だったけど、奥さんには迷惑かけてるし、従った。
でも窓から見えるってことは休職して家にいても電気をつけられないってことで、僕は暗い部屋でカーテンを引いて部屋の中でじっとしていなくてはならなくなった。
出歩いて専業主婦のお義母さんにでも会ったら問い詰められる…
僕は引きこもるようになっていた。
奥さんの両親は家が近くなったということで僕らを家に頻繁に呼んだ。
本当に苦痛だった…
そして奥さんが子供を欲しがっていた。
正直言って夜の営みなんてできる状態じゃなかったけど、迷惑をかけている奥さんの希望、僕は必死に子造りに励んでいた。
その時飲んでいた抗うつ剤の影響で僕は極端な遅漏になっていた。
「まだ出ないの?」と行為中に言われて、深く傷ついたこともしばしばだった。
本当に抗うつ剤の影響は恐ろしんだけど、この遅漏にしている抗うつ剤が効いていなそうだということで別の薬に変えた途端遅漏が治り、その反動で極端な早漏になった。
早く出てしまって謝る僕に、奥さんは「早い方がいい」といった。
子供できやすいからと。
それはそれで傷ついた…
それでも子供はできなくて、僕らは不妊治療に通うことになった。
休職中に不妊治療、僕は何をやっているんだと思う気持ちと、病院で容器に自分で出す時のむなしさのような複雑な気持ち、その精液の質をとやかく言われる屈辱感…
ねぇ、奥さん、僕はもう限界だよ…
それでも苦労を掛けている奥さんの希望だからと、子供ができたら僕の精神もしっかりするんじゃないかと、頑張って治療を続けた。
こんな僕の子供で、大丈夫なのか?
僕の遺伝子が世の中に引き継がれていいのか?
そんな疑問とともに。
ちなみに不妊治療は絶対的に女性の方が負担が大きい。
男は出せばいいようなところがあるけど、注射や点鼻薬、体温測定に診察も大きな負担がかかる。
そんな奥さんの姿を見ていたから、僕が嫌だと言っては言えないような気がしていた。
半年くらい続けただろうか?
ことごとく失敗に終わり、子供はできなかった。
医師から体外受精の話を持ち掛けられたとき、奥さんの気持ちは折れた。
「もういい…」とつぶやく奥さんがそこにいた。
そして僕らの子造りは終わり、二人の空気も微妙に変わったように思う。
そしてそれで僕の気持ちも切れたのか、病気の症状も悪化していった。
そして奥さんの両親を避けるようになったら、なぜ家に来ないのかと責められるようになった。
そして僕は打ち明ける決心をした。
お義母さんは「よかった、嫌われてるのかと思った」といった。
何が良かったのか、僕には疑問だった。
その間、投薬の治療は限界になっていた。
抗うつ剤を4種類飲んでいて、どれが効いていてどれが効いていないか主治医にもわからなかった。
入院して薬の調整をするように提案された。
奥さんも入院を勧めた。
実は僕の実の母親もうつ病になっていて、地元の病院に通って治っていた。
その地元の病院には入院設備もあったので、僕はそこに入院することになった。
でも実家には隠し続けていた。
僕の父親は厳しい。
僕は厳しく育てられてきた。
自分の息子がうつ病なんかになっていると知ったら本気で悲しむだろうと思った。
だから地元の病院に入院するけど、親には隠すつもりでいたし、奥さんにもそれは伝えていた。
2007年2月27日、僕は入院した。
2007年4月1日 元職場へ異動
6月20日 引越し
10月22日 休職開始
2010年10月 部長がやってきた!
2011年3月14日 復職
12月1日 出会い
2012年8月20日 医療事務取得
2013年7月1日 同僚の転勤
11月28日 評価A!
2014年2月6日 親友との再会
4月26日 断薬開始